終章- 刻のカケラを巡る-38 紅茜の隠し事
――救うための手段は、残されている。
だがそれは、あまりにも危険な賭けだった。
希望か、破滅か。
運命を左右する作戦が、今動き出す。
――戦いは、まだ終わっていない。
アルゴー号の甲板。
冷たい風が吹き抜ける中、二つの影が帰還した聖羅たちを待っていた。
その一人――紅茜は、無事に戻ってきた少女たちの姿を確かめると、安堵するように静かに目を伏せた。
「……よく踏み止まったでござるな」
その声には、仲間としての信頼と、それ以上に母親のような安堵が滲んでいた。
「……ブリュンヒルデ。迦楼羅すもも」
続いて低い声が響く。
阿門だった。
名前を呼ばれた二人が振り返る。
いつもなら敵を射抜くような鋭さを宿している阿門の眼差しが、今だけは違っていた。
それは、まるで父親が娘たちを見るような目だった。
「……感謝するぞ」
たった一言。
だが、その短い言葉に込められた重みを、二人は十分に理解していた。
ブリュンヒルデが穏やかに微笑む。
「当然です」
迦楼羅すももも胸を張った。
「家族ですので」
「……そうか」
阿門の瞳が、ほんの僅かに緩む。
その横で、紅茜も嬉しそうに呟いた。
「……みんな、本当に良き子に育ったでござるな……」
吹雪の向こうでは、今も戦場が燃えている。
敵は残っている。
災厄も、まだ止まってはいない。
それでも――少なくとも今ここにいる家族は、生き残った。
だからこそ、次の戦いへ進むことができる。
その時だった。
≪バチン――≫
空間そのものが弾けるような音を立てた。
巨大な転移術式がニブルヘイム上空へ展開され、歪んだ空間を押し広げるように魔法戦艦アルゴー号が姿を現す。
「なッ……!?」
その光景を目の当たりにした雷音が目を見開く。
一方、その隣ではアキンドがふらつき、力尽きたように膝をついていた。
「……はぁ……戦艦丸ごとアポートとか……マジで死ぬ……」
「おい、大丈夫か!? しっかりしろ!」
雷音が慌てて駆け寄る。
するとアキンドは弱々しく顔を上げ、最後の力を振り絞るように言った。
「……雷音が女体化して、抱き締めて温めてくれたら回復するかも……」
「死ね」
即答だった。
雷音の足がアキンドの背中へ落ちる。
「ぐえっ!」
その様子を眺めていたヒースが、深々とため息を吐いた。
「アキンドさん……あなた、本当に最低ですね」
「死にかけの人間にもうちょっと優しくしてくれてもよくない!?」
そんな馬鹿騒ぎの向こうから、落ち着いた声が飛んできた。
「……よくやった、アキンド」
全員が振り返る。
甲板の奥に立っていたのは、この船の軍師――雷牙尊だった。
「みんな、無事か?」
周囲の様子を確認した後、雷牙尊はゆっくりと戦場へ視線を向ける。
その先では、暴走した雷華が凄まじい神性と魔力を撒き散らしていた。
「……あれが、今代の《守護者》か」
雷牙尊は静かにその姿を見据える。
そこに恐怖も迷いもなかった。
あるのはただ一つ。
――あの呪いを解く。
そのための方法を考え抜いた者だけが持つ、冷静な確信だった。
やがて一行は、アルゴー号の作戦指令室へ集められた。
艦内には張り詰めた静寂が満ちている。
船の外では今なお世界規模の災厄が蠢き、戦況は一刻の猶予も許さない。
だからこそ、ここは戦う場所ではなかった。
次に誰が、どこへ向かい、何を成すのかを決める――決断の場だった。
「……みなに提案がある」
雷牙尊が一同の前へ出る。
その表情は、もはや普段の教師のものではない。
戦場で無数の命を預かる、一人の戦略家の顔だった。
「まず、最大の問題となるのがナインライダーたちだ」
戦術盤へ光が走り、敵の情報が表示される。
「奴らが使用する強力な呪詛結界――絶・領域展開《亡魂の円環》。あれは結界内部へ存在する敵対者の能力を大幅に減衰させる、極めて厄介な呪法だ」
雷音の表情が険しくなる。
ムスペルヘイム西端での戦い。
そこで実際に《亡魂の円環》を受けた時の感覚が、身体の奥から蘇ってきたのだろう。
無意識に、ごくりと喉を鳴らす。
「さらに問題なのが、ウンゴリアントの《変質の呪い》だ」
今度は神羅の表情が強張った。
「これは五十年前の大戦で世界そのものを呪い尽くした、最初期のエクリプス兵器。その危険性については、説明するまでもないだろう」
前世の記憶が疼いたのか、神羅もまた小さく息を呑んだ。
雷牙尊は一同を見渡す。
「この二つの凶悪な呪いへ同時に対抗するには、通常の解呪術では足りない」
そこで言葉を切った。
「だから――クトゥルフ戦争の時と同じ方法を使う」
誰かが息を呑む。
雷牙尊は静かに告げた。
「《女神の歌》だ」
室内の空気が変わった。
「アルゴー号最深部にて、十二名の歌姫による多重共鳴詠唱を行う。その歌を戦場全域へ展開し、呪いそのものへ干渉する」
戦術盤に十二色の光が灯る。
「そして、共鳴率を限界まで高めることができれば――雷華君の魂へ直接干渉することも可能なはずだ」
雷音が顔を上げた。
「……つまり」
「ああ」
雷牙尊が頷く。
「暴走している雷華君の意識へ歌を届け、彼女自身の力で呪いを破らせる」
そこまで聞いて、誰かが静かに尋ねた。
「……失敗した場合は?」
雷牙尊は一切迷わなかった。
「全滅だ」
即答だった。
だが、誰も驚かなかった。
それが今の戦況なのだ。
成功すれば雷華を救える。
失敗すれば、彼女だけではない。
この船も。
ここにいる仲間たちも。
そして最悪の場合、この世界そのものも失われる。
雷牙尊は静かに言葉を続けた。
「――これが、雷華君を救い出すための唯一の作戦だ」
誰も異論を口にしなかった。
その時。
レッドの視線が、ふと一人の女性へ向けられた。
紅茜。
彼は僅かに眉をひそめる。
「……なぁ」
「どうかしたの?」
隣にいたパピリオが尋ねる。
「……いや」
レッドは少し迷った後、それでも視線を紅茜から外さなかった。
「ずっと気になってたんだ」
「何が?」
「あの人……」
その言葉に、パピリオも紅茜へ視線を向ける。
「昔の知り合いに、少し似てる気がしてな」
その瞬間。
紅茜の肩が、ほんの僅かに揺れた。
あまりにも小さな変化だったため、周囲の誰も気づかなかった。
けれど。
紅茜の胸の奥では、心臓が大きく脈打っていた。
(……気づかないで)
レッドの視線を感じながら、紅茜は黙って俯く。
(今は……まだ……)
まだ話せない。
今ここで真実を明かすわけにはいかない。
(今度こそ、守るから……)
誰にも聞こえない決意を、胸の奥で繰り返す。
その時、雷牙尊が小さく咳払いをした。
「私語は後で頼む」
「あ……悪い」
レッドが前へ向き直る。
作戦指令室にいた全員の意識が、再び戦術盤へ集まった。
救出するべき雷華。
止めなければならないウンゴリアント。
そして、そのさらに向こうに待ち構えるナインライダーたち。
勝利への道は、あまりにも細い。
それでも。
そこを進むしかなかった。
――この時。
まだ誰も知らなかった。
雷牙尊が提示したこの作戦が、ただ雷華を救うためだけの戦いでは終わらないことを。
この先に待っているのは、さらなる絶望。
そして――
誰かが、取り返しのつかない選択を迫られる瞬間だった。




