第五章- 暗黒の騎士ナインライダーズ-9 ヴァルハラ最強の男
冥界の祭りの夜。
メルコール直属機関《静謐局》が
ついに動いた。
だが――
その瞬間、
空が「逆に」割れる。
雷神トール・ドンナー。
ヴァルハラ最強の男が
戦場に降り立つ。
◆
――空が「逆に」割れた。
雷鳴ではない。
雷そのものが、天蓋の骨を内側から叩き割った。
「……っ!?」
骨灯りが、一斉に青白く消える。
代わりに、世界の色を塗りつぶすような白雷が落ちた。
冥界ヘルヘイムの黄昏空に、本来ありえない青空が、縦一文字に走った。
「ア、アーク放電……? こんな規模、制御できるはずが――」
静謐局の術師が、思わず呟いた。
その“空割れ”の中心から、笑い声が降ってくる。
「――あっはっはっは!! 相変わらずだな、じい様の手先どもは!」
雷鳴が、笑った。
次の瞬間。
ドガァァァァァン!!!
黄昏の広場のど真ん中に、一本の雷柱が突き立った。
屋台の影も、骨灯りも、全てを真っ白に塗り潰す電光。
祭りの客たちが、一斉に悲鳴をあげ――
……ない。
「うわぁぁぁ!!」
「やっべ、演出すげぇ!」
「第5区間クリア記念のサプライズ花火か!?」
「#冥界フェス エグすぎw」
誰も、“本物の軍事行動”だと認識できていない。
塵芥鏖の精神フィルタが、すでに働いているせいだ。
雷光が、ゆっくりと収束した。
そこに立っていたのは――
◆
長い金髪。
いや――
金ではない。
雷の色だ。
腰まで届く髪を無造作に束ね、後ろで一つに結っている。
上半身は堂々たる筋肉の鎧。
ベージュのコートを肩からざっくりと羽織り、その下はほぼ裸同然。
腰には、世界樹の根を削り出して作ったような巨大戦鎚ミョルニル。
瞳は、空の青。
笑みは、嵐の前の狂気。
「――雷神トール・ドンナー」
レッドが、思わずその名を呟いた。
アースガルド神族にして、
主神オーディンの息子。
メルコール・ヴォータンの孫。
そして、ロキの“兄弟”。
本人は、満面の笑みで腕を広げていた。
「よぉ、クソ真面目な“お役人”ども。冥界はいい所だな! 酒は濃いし、メシはうまいし、女は強いし、ガキどもは泣き声がうるせぇ!! 最高じゃねぇか!」
静謐局の隊員たちが、一斉に警戒態勢に入る。
「雷神トール・ドンナー……貴殿はアースガルド軍の将。此度の任務に関しては、ヴァルハラ議会による正式な――」
「うるせぇ」
トールは、にやり、と笑った。
空気が、一段階重くなる。
「ここで“メルコール様の御名のもとに”とか口走った瞬間、俺はその口ごと粉々に砕くからな。試すか?」
静謐局隊長の眉が、ピクリと動いた。
「……貴殿とて、立場というものが――」
「立場?」
トールは首を傾げる。
次の瞬間、目の前から消えた。
「――なっ」
隊長が気づいたときには、トールはもう彼の背後にいた。
片手で隊長の肩をがっしりと掴み、あっさりと持ち上げている。
「雷神トール・ドンナー、アースガルド軍第一雷戦団総大将。主神オーディンの息子。メルコールの孫。肩書き欲しけりゃ、まだいくつか付くぞ?」
彼はにやにや笑いながら、隊長を目の前にぶら下げる。
「で――」
青空の瞳が、一瞬で殺意の色に染まった。
「“子ども”に毒針向けてたよな、お前ら」
静謐局の隊員たちが、全員一歩だけ後退する。
任務より先に、本能が危険を察知していた。
トールは、ニカとシルフィスを一瞥した。
ふるふる震えながらシグルドの脚にしがみついている二人。
「……俺はな」
ふっと、笑みのトーンが変わる。
「ガキの泣き声には、ちょっとばかし……うるせぇぐらいに弱くてな」
その瞬間――
バチィッ!!
トールの全身から、青白い雷があふれた。
静謐局隊長の身体が、空中で一瞬だけバグったように歪む。
「ぐっ、あああああああ!!」
「隊長!!」
「安心しろ、殺してねぇよ」
トールは、まるでゴミを放り投げるみたいに隊長を骨の床に投げ捨てた。
「“記憶”だけちょいと焼いただけだ。“ここで子どもたちを回収しようとした”なんて、報告書に書けねぇ程度にな」
静謐局の隊員たちの顔色が、一斉に変わる。
「貴殿、何を――」
「主神オーディンの“命令”だ」
雷神の声が、冥界の黄昏を貫いた。
「――ヨグ=ソトースのカケラを巡る件に、これ以上“勝手な干渉”をするな」
沈黙。
冥界の風さえ、音を失ったかのようだった。
「“勝手な”ってのはな」
トールは雷鎚の柄を肩に担ぎ、無造作に静謐局の隊員たちを見回す。
「メルコール爺様の独断も、ヴァルハラ官僚どもの自己保身も、全部ひっくるめての話だ。……あいつら、俺の親父を甘く見てる。好々爺みてぇな顔してニコニコしてるからって、舐めるなよ?」
オーディンの顔が、脳裏に過ぎる。
片眼を隠した初老の男。
常に笑みを絶やさず、何を考えているかわからない。
――だが、その眼の奥だけは、いつだって“戦場”だった。
「親父は言ったぜ。“見届ける必要がある。九つの月が交わり、九つの世界が繋がるこの刻の狭間で、暗黒時空神のカケラがいかなる選択を示すのか。世界線の収束を見極めなきゃならない”ってな」
トールは指で静謐局の胸元の紋章を弾く。
「だから――」
雷鳴が、低く唸った。
「ここで一歩でも前に出た奴は、“反逆罪”で俺が始末する。理解できた奴から、とっとと失せろ」
◆
静謐局の隊員たちが、一斉に互いの顔を見た。
「…………撤退、だと?」
「しかし、メルコール様の――」
「メルコール様は“今は相談役職”だ。今の主権は、オーディン陛下にある」
隊長の喉から、絞り出すような声が漏れる。
雷に焼かれたはずの瞳に、わずかな理性が残っていた。
「命令は、絶対だ。……撤退する」
トールが笑う。
「いい子だ」
静謐局の隊員たちは、悔しそうに、しかし確実な足取りで後退する。
冥界の霧に紛れ、一人、また一人と姿を消していく。
最後に消える直前、隊長は一瞬だけシグルドたちを振り返った。
「――この件、メルコール様に報告は上がります」
それだけ言うと、彼もまた霧の中に消えた。
◆
「…………」
しばしの沈黙。
最初に、それを破ったのは――ロキだった。
「……ったく」
肩をすくめ、紫のマントを翻す。
「やり方、相変わらず雑だね、兄上」
トールは振り向き、にやりと笑った。
「おう、クソ弟」
「ロキお兄ちゃん、兄上ってトールさんの弟だったの?」
ミリルが目を丸くする。
「まぁ認めたくないが、この雑な男の弟ですよ。ボカァ」
ロキが額を押さえる。
トールはそんな二人を見て、大笑いした。
「あっはっは! いいじゃねぇか、世界樹の根っこは雑な方が楽しいんだよ!」
彼は、ようやくシグルドのほうを向いた。
青い瞳が、真正面からシグルドを射抜く。
「――よう。シグルド・スカーレット」
シグルドは、まだニカとシルフィス、それにイサカを庇う姿勢のままだった。
黒い炎は引き、ただ静かな警戒だけが残っている。
「……あんたは」
「雷神トール・ドンナー。覚えとけ。俺はお前の“親父”メフィスト・フェレスが若い頃、何度かバチバチにやり合いした一人だ」
シグルドの眉が、かすかに動く。
「……俺の、親父?」
胸の奥の霧が、また少しだけざわめいた。
トールは、それ以上は踏み込まなかった。
踏み込めば、さっきの封印がまた発動するのを知っているように。
代わりに、シグルドの足元の二人に視線を落とした。
「ニカ。シルフィス」
ニカがびくっと顔を上げる。
「ニャ?」
シルフィスも、ぎゅっとシグルドの服を掴んだまま見上げる。
「……雷のおじさん?」
トールは、ふっと口角を上げた。
「“おじさん”はやめろ。せめて“超絶美形スーパーワンダーフォーお兄さん”にしとけ。ショックで泣いちまうだろうが」
「じゃあ、雷のお兄さん?」
「よし、その呼び方採用だ」
雷神は、真剣な顔で大きく頷いた。
「いいか、ガキども。さっきの“灰色の連中”がまた来ても、今日はもうちょっかい出せねぇ。主神オーディンの名のもとに、だ。約束してやる」
ニカとシルフィスが、少しだけ顔を緩める。
「……ほんと?」
「ニャ?」
「ああ。嘘ついたら、俺の鬚が全部チリチリになっちまうからな」
「それはちょっと見たいかも」
ロキがボソッと呟いたところで、雷がズドンと落ちた。
「聞こえてんぞクソ弟」
◆
トールは一通り場を収めると、ふっと視線を空に向けた。
「……親父」
誰にも聞こえないような声で、呟く。
「これで少しは、あんたの“意見”が、あんたのお父様に通るか?」
――遠く、アースガルド。
黄金の宮殿の片隅で、片眼の男が静かに笑ったような気がした。
オーディン。
鋼の眼差しを持つ、戦争の王。
一見好々爺のように、笑みを絶やさない隻眼の怪物。
「さて」
トールは、くるりと踵を返した。
「俺はちょっと、ヘルのとこに顔出してくるわ。じい様の“首輪”、どんだけ緩んでるか見てこねぇとな。お前らは――」
シグルド、レッド、フレア、ロキ、ミスティルたちを順に見回す。
「好きに暴れろ。ただし、“ガキどもの泣き声”だけは守れ。それが、俺の……いや、“年上の”条件だ。じゃあ俺もレース途中で抜けてきた身でな。コースに戻ってレース再開だ。」
それだけ残して。
雷神トール・ドンナーは、再び雷光と共に消えた。
◆◆◆
雷神トールの一撃で
冥界の騒動はひとまず収まった。
だが――
メルコールの思惑は
まだ終わっていない。
そしてシグルドの記憶も、
まだ霧の中だ。
九つの世界を巡る
レースと陰謀は
さらに加速していく。




