狩人は闇に潜む 14
Chapter 14
60
「おいおい。それじゃあ何か。お嬢ちゃんは、あのギューンって飛ぶやつ、できないのかい?」
ペイピールが呆れた声をあげる。
メルルはふくれっ面になった。
「私は修行途中で魔法使いをやめたんです!
離脱魔法みたいな高等魔法、簡単に使えませんよ!」
「レトは簡単に扱っていたようだがなぁ」
カップはぽりぽりと自分の頬をかきながら言う。
「もう、カップさんまで!
レトさんは特別……というか、魔法の系統がでたらめなんです!
あのひと、土属性のくせにその系統の魔法がいっさい使えないんです。
その一方で火炎剛球とか衝撃波とか使えるし、最近は爆砕魔法なんかも習得しちゃうし。
高度な魔法は簡単に扱える一方で、簡単な回復魔法が使えないんです。
っていうか、聖属性もいっさい使えないんです。
ね? でたらめにもほどがあるでしょう。わかります?」
メルルは一気にまくしたてた。
カップはメルルの勢いに押されて転びそうだ。
「わ、わかった。わかったから少し落ち着こうか、お嬢ちゃん」
メルルは腕を組んでそっぽを向いた。そうとうにむくれている。
「悪い。俺、あの子の地雷踏んじまったようだ」
ペイピールはカップにささやいた。
「だが、どうする?
お嬢ちゃんが離脱魔法ってのが使えないとなると、いよいよ逃げ道がなくなったぜ」
カップは、まだ腫れのひかない脚をなでながら冷静な意見を述べる。
メルルの回復魔法によって、痛みはだいぶ治まったが完治できていなかった。それだけ、カップの脚は重傷だったのだ。カップの脚を直すには、より高度の回復魔法が使える術師に頼むしかない。
カップの冷静な意見を聞いてメルルは我に返った。そうだ。こんなことで時間を潰しているわけにいかないんだ。
「まぁ、このまま森に踏み込めば、あいつらも簡単に追ってはこれないだろうな。馬が使えなくなるし、第一、お嬢ちゃんの魔法が怖い。
一方で、俺たちは俺たちで、森から離れた人里に近寄ることができなくなる。
森の中で助けが来るのを待つしかない。
つまり森を城代わりにした籠城戦をするしかないってわけだ」
「そんなこと、できるんですか?」
「正直、難しいな。
このあたりにも果物の実がなる樹はある。
しかし、数に限りがあるし、水の確保も難しい。
この森で数日はいいが、一週間とか、一か月とか頑張るのは無理だと思うな」
「数日頑張れればいいのですね?」
ペイピールはため息をついた。
「お嬢ちゃん。忘れてないか?
この緩衝地帯には『厄獣』が徘徊してるんだぜ。
もし、レトがあいつに勝てなかったら、あるいは、討ち取り損ねて逃げられでもしたら、俺たちが襲われる可能性があるんだぜ」
「レトさんは負けません! たぶん……」
メルルは勢いよく反論したが、最後は尻つぼみに弱くなる。
メルルもレトの勝利を信じているし、祈ってもいる。
だが、不安だけはこの胸から消すことができない。
もし、万が一、あるいは、予想外の何かが起これば……。
メルルは慌てて首を振った。
「森は危険だが、それはウルバッハの連中にとっても同じだ。
だったら、森を通ってプライネスを目指す、でいいんじゃないか?
当然、やつらも危険な森は避けてプライネスの手前で待ち構えているだろうが、この広い森の周囲すべてを見張るのは不可能だぜ。
どっかに包囲の穴ぐらいあるだろ」
カップが、少し楽観的な作戦を提案してきた。
しかし、楽観的な部分があろうと、カップの意見が最適だと思える。
メルルはペイピールにうなずいてみせた。
「ペイピールさん。これでいきましょう」
ペイピールは自分の髪をぐしゃぐしゃとかき回した。
「ええい、くそっ!
それしかないか、やっぱ。
じゃあ、おふたりさん、覚悟を決めようぜ。
森を抜けてプライネスを目指す!」
* * * * * * * * * *
「……っていうことを考えているでしょうね、あいつら」
ケドルは地図を前にして言った。
谷間の途中にある関所。
ここは特別な許可の下りた者しか通れない場所だ。
この関所を前にして、ケドルは領主カインと合流していた。
関所より北でメルルを見つけたはいいが、ペイピールやカップと合流し、両手と口の自由を取り戻していると報告を受けると、カインは不機嫌な表情を露わにした。
「それで、お前はおめおめと逃げてきたのか?」
カインの声には怒気だけでなく殺気もこもっている。
ケドルは首をすくめた。予想通りの反応だが、事態を理解してもらえないと話が進められない。
「相手は少数でしたが、あっちには魔法があるんです。
甘く見たら、こっちが全滅する危険だってあったんです。
それより、あの娘の情報をいち早く伝えて、戦力を増強するほうが確実です。
俺が戻ってきたのはそういうわけなんです」
カインはそっぽを向いた。
「わかった。もういい。だが、その沢に、もうやつらはいないだろう。
どこに向かったか予測がつくか?」
そこでケドルは、メルルたちが森を抜けてプライネス領を目指すだろうと指摘したのである。
「そうであれば、人里に近い森を出たところで我らは待ち伏せていればいいのだな?」
カインはケドルに尋ねた。
「ご領主様はそれでお願いします。
けど、俺たちは森に踏み込みますぜ。
熊捕りと同じことをするんです」
「熊捕りと同じことだと?」
「予備で連れて来たものも含めて、猟犬を全部森に放って、わんわん吠えさせておくんですよ。
初めの3匹は鼻の調子を取り戻したようですから、あれらも使えます。
周囲から犬の吠え声を耳にした連中は泡を食ってその場から離れようとします。
まぁ、それが熊捕りの方法なんですが。
ただ、今回は相手が人間なので、少々やり方が変わります。
当然、森の出口には誰かが網を張っていると読むでしょうね。
熊の場合と違って、あいつらは森の外までは逃げないでしょう。
だから、犬を黙らせるために犬を攻撃するしかない。
だが、犬が吠えなくなった場所こそ、やつらがいる場所だって、こっちにはわかるってことです」
「お前はそこに部下たちを向かわせる、と」
「大人数で囲んじゃおうってことです」
カインは機嫌を直したようだった。
満足そうな笑みを浮かべると、「任せる」とだけ言った。
「承知いたしました」
ケドルはうやうやしく頭を下げる。
ケドルの口もとには残忍な笑みが浮かんでいた。
61
どこかで食器のような陶器の割れる音。
つんざく悲鳴。響き渡る怒声。
ウルバッハの屋敷は大混乱に陥っていた。
2百名からなる、王国軍が進軍してきたのだ。無理はない。
「暴挙だ!
王国の暴挙だ!
ご領主様の不在をいいことに、なんて悪辣なことを!」
ウルバッハ家の執事ジドーは、屋敷の正面玄関に立ちはだかって、王国軍相手に大声で抗議した。
「何が暴挙だ! そっちこそ、領民をむやみに殺しておいて、よくも言えたものだ!」
ルピーダがバートン大尉の隣で怒鳴り返した。
「そこにいるのはプライネスの娘!
王国軍の方がた。あなたがたは騙されています!
あなたがたはそいつらの嘘に引っ掛けられただけです!」
ジドーはルピーダの姿を認めると語調を変えた。
王国軍に少しでもためらわせるつもりだ。
しかし、『谷』を先に見てきたバートン大尉に動揺はなかった。
「嘘だと。お前は嘘だと言ったな?
では、あれも嘘だと言うのか?
ウルバッハ領の東端、ミヒャル川の北にある枯れた川の谷。
あそこに散らばっている人骨はすべて嘘か?」
それを聞いた途端、ジドーの態度が変わった。
くるりと背を向けると、玄関に飛び込んだのだ。
兵士が慌てて扉に飛びつくが、内側からしっかりと錠を掛けられたようで開かない。
「入れません!」
兵士が叫ぶと、バートン大尉は落ち着いた声で「打ち壊せ」とだけ命じた。
「まったく……、往生際が悪いって、あいつのことだね……って、あれ、レト?」
ルピーダは自分の後ろに乗っているはずのレトの姿を探した。
レトはいつの間にかルピーダの馬から姿を消していた。
そこへゴーゴリーを乗せた馬が近寄ってくる。
「お嬢。探偵は行きましたよ」
「行ったって、どこに?」
ゴーゴリーは屋敷を指さした。ルピーダは目を丸くしたが、呆れたように首を振った。
「まったく、あいつは……。
誰からも褒められないことに一所懸命だねぇ……」
* * * * * * * * * *
ジドーは屋敷を走ると、食堂に向かった。
食堂に入ると、食卓に置いてあった燭台をひったくって、そのまま調理場に入る。
燭台には火の点いていないろうそくが刺さったままだ。
調理場では、ちょうど夕食の準備中だった料理人たちが右往左往していた。
彼らも外の騒ぎを知り、混乱に陥っているのだ。
ジドーは調理人たちを突き飛ばしながら進むと、かまどの中に燭台を突っ込んだ。
ジドーが燭台を抜くと、ろうそくの先に火が灯っていた。
ジドーは火の点いたろうそくを手に、調理場をあとにした。
使用人が使う細い階段を勢いよく駆け上る。
とても老人とは思えない速さだ。
ジドーはひとつの大きな扉に飛びつくと、勢いよく開いた。
執事とは思えない乱暴さだが、そんなことを気にかける様子もなく部屋へと入る。
ジドーは壁にかけられた大きな絵画に両手をかけると、乱暴に取り外して床に投げ捨てた。
絵が取り除かれると、そこに大きな鉄製の扉が現れた。この屋敷の金庫らしい。
ジドーは燭台を書斎机に載せると、すばやくダイヤルを回して金庫の扉を開いた。
扉が開くや、片手を突っ込み、中の物を床にぶちまける。
ジドーはろうそくの明かりで床にぶちまけたものを検めはじめた。
いくつかは執事服の上着の中に突っ込んでいる。
「なるほど、有価証券ですか。それだと足がつきにくい」
ジドーはすばやく振り返った。
「机に置いてある燭台は単なる明かりのためだけではないですね。
金目のものを盗るだけ盗ったら、証拠や手がかりを消すため、ここに火を放つためでもあるわけですか。
火事のどさくさにまぎれて、自分だけでも逃げおおそうというわけですね?」
開け放たれた扉に手をかけて、ひとりの若者が立っている。
南方系民族の顔立ちで、左腕にだけ大きな鎧を身に着けていた。
見覚えはあるが、名前までは思い出せない。
「お前は……」
「僕の名前はレト・カーペンターと申します」
レトはジドーに自己紹介した。
「たしか、プライネスの娘の知り合いとか……」
「そうですね。その点に嘘はありません。
ですが、大事なことを教えていませんでした。
僕はメリヴェール王立探偵事務所で探偵をしています。
つまり、あなたがたの犯罪を暴くのが仕事ということです」
ジドーは立ち上がった。「そうか、お前が!」
「いいえ。今回の僕はまったくの役立たずでした。
反省することばかりです。
ですから、少しでも失点を返上するべく、あなたを追いかけてきたってわけです。
ウルバッハ家が終わりだと気づいたとき、ウルバッハの裏を知り尽くしたあなたであれば、持てるだけの財産を持って逃げるだろうと思いました。
領主が不在の今であればなおさらです。
僕は、あなたが屋敷に飛び込んだ瞬間に、近くの雨どいを伝って2階に飛び込みました。
必ず、主人の隠し財産を持ち逃げすると考えて。
カイン・ウルバッハの部屋は知りませんが、2階で一番贅沢な部屋を探せばいい。
そこで待ち構えていたら、そこへあなたが勢いよく飛び込んできた、というわけです」
「こ、ここに、カインの隠し資産がある……」
ジドーは床を指さした。
「こ、これをあなたに差し上げる。
だ、だから、私を、私を見逃してください……。
私は職を失ったら、この年齢で退職金も年金もない状態で暮らしていかなければならない……。
わ、私は、今、手に入れたわずかなものだけでいい。
だから、だから、頼む。
私を……」
ジドーは身体をよろめかせながらレトへ歩み寄った。
レトは静かにジドーを見つめている。
突然、ジドーは懐からナイフを抜き出し、レトの喉めがけて突き出した。
ナイフの切っ先が喉につく寸前、ナイフの動きが止まった。
「何!」ジドーは叫んだ。
ナイフを握っている手は、レトの左手によって受け止められていた。
レトは左手にゆっくりと力をこめる。
「ぎゃ、ぎゃああああ!」
手の骨が折れる音に混じって、ジドーの悲鳴が響き渡った。
「あなたは静かな隠居生活が送れると思っていたのですか?」
レトは静かな口調で話しかけた。
「カイン・ウルバッハの圧政、領民への虐待、虐殺を支えた共犯として、あなたには静かな監獄生活を送ってもらうつもりです。
安心してください。そこでは退職金や年金がなくても暮らしていける場所です。一生ね」
ジドーはなおも抵抗しようと身体をよじらせたが、レトは右手でジドーの顔面をつかんだ。
「脱力の陣」
ジドーの顔に小さな魔法陣が浮かぶと、ジドーは信じられないといった表情のまま、床にくずおれた。
レトは床の上で動かなくなったジドーのそばに片膝をついてかがみこんだ。
少し暗い表情でジドーを見下ろしている。
「あなたにすればとばっちりですが、僕としては2回連続で負けるわけにいかないんです。老人相手に大人げないでしょうが、手加減なしでやらせていただきました」
レトはジドーに詫びるように言った。
62
あちらこちらから犬の吠える声が聞こえる。
森の中は夕暮れということもあってかなり暗い。
おかげで、犬たちが遠くにいるのか近くにいるのかもわからない。
メルルたち3人は、吠え声に追い立てられるように、森のあちこちをさまよい逃げていた。
「森からは出るなよ。犬たちの声が聞こえない方角に、やつらは張っている!」
ペイピールはメルルの耳もとで言った。
メルルは無言でうなずく。
メルルもそうだろうと考えていた。
「だが、犬をやり過ごすことはできるんじゃないのか?」
カップが苦しそうに息を吐きながらつぶやいた。
着ている服の首回りをつまんでいる。
カップの服は全体的に黒ずんでいた。
黒ずんでいるのはカップの服だけではない。
ペイピールの服も同じだった。
メルルは猟犬に追われることも想定して、『クマギライ』の汁を服に染み込ませることにしたのだ。
「あれは、あくまで鼻が利かないようにするためです。
見つけられたら、あまり意味がありません」
メルルの説明に、ペイピールは顔をしかめた。
「おいおい。
あまり役に立たないのに、俺の一張羅をこんなにしてくれたのか?
勘弁してくれよ」
「万が一のための布石です。
我慢してください」
メルルはまともに取り合わなかった。
そこへ、茂みから黒いものが飛び出し、3人の前に姿を現した。
3人を前に威嚇の唸り声をあげる、一頭の黒い猟犬だった。
「見つかったか」カップが覚悟を決めたような、あっさりとした口調で言った。
「でも、この子は私の匂いを覚えた犬さんじゃありません。
単に遭遇した相手に唸っているだけです」
メルルはカップの身体を支えながらささやいた。
「だからって、何か有利にでもなるか?」
ペイピールも諦めに近い口調でつぶやいた。
その猟犬はしきりに唸っていたが、急に唸るのをぴたりとやめた。
耳がピンと立ち、鼻を高くあげて何かの匂いを嗅いでいる。
どうしたのだろうと見ていると、その猟犬はひと声吠えて駆け出した。
メルルの脇をかすめるように駆け抜けると、そのまま森の奥へ消えていく。
さっきの猟犬の吠え声はどんどん小さく、遠くへ消えていった。
「何がどうしてこうなった?」
ペイピールは不思議そうな顔で猟犬の去った先を見つめた。
「わかりません。でも、これは好機です。
このまま犬さんとは逆の方向へ進みましょう。
待ち構えられている側とは反対側に抜け出すんです!」
メルルはカップの背中を押しながら言った。
ペイピールはメルルの言葉に強くうなずいた。
「やつらを出し抜けるな。行こう!」
ペイピールだけでなく、カップも元気を取り戻したようだ。
「すまんな、お嬢ちゃん。
俺ももう少し頑張ってみるよ」
自分を支えながら歩いているメルルに声をかけた。メルルはカップの背中を押しながらうなずいた。
「ええ、頑張りましょう。もう、ひと頑張りです!」
3人は猟犬が向かった方角とは逆に進み、ついに森を抜け出した。
なだらかな平原に、膝ほどの草が一面に生えている。
だいぶ離れたはずだが、犬の吠える声が背後に広がる森の奥からかすかに聞こえていた。
「よし、ここの風景には見覚えがある。
プライネスに通じる街道のそばだ!」
ペイピールが嬉しそうな声をあげた、まさにそのときだった。
「お疲れさん」
3人はぎょっとして声の聞こえた方角を向いた。
森から現れたのはケドルだった。
会心の笑みを浮かべている。
「まさか!」
メルルはカップから手を離すと、そのまま片手をケドルに向けた。
しかし、メルルが呪文を唱える前に、背後から男が飛び出してきた。
メルルは口をふさがれると、そのまま地面に押し倒された。
「ケドル! てめぇ!」
ペイピールは槍を構えて怒鳴った。
槍の先をケドルに向けたまま、周囲にすばやく目をやっている。
ケドルが現れると同時に、森のあちこちから何人もの男たちが現れ、3人はすでに取り囲まれていた。
ケドルの部下らしい男たちは、いずれも大きな武器を手にしている。
屈強な体格にあった、いかにも威力のありそうな武器だ。
ケドルはにやにやしながら人差し指を自分の額に当てた。
「考えたんだよ。
あんたたちが俺たちを出し抜くなら、どんな手を使うだろうかってな。
猟犬に追い立てられて、ご領主様が待ち構えている森の外へ逃げ出すのならそれでいい。
それがもともとの作戦だからな。
ただ、もし、猟犬どもをやり過ごすことができたら、犬どもとは逆方向へ逃げて、そのまま森から出るんじゃないかってな。
お嬢ちゃんが賢くて、そして素直な性格で助かったぜ。
おかげで、また会えたんだからな」
メルルは悔しさで顔が歪んだ。
ここまでお見通しだと、「賢い」と言われても馬鹿にされているとしか思えない。
「おいおい、そんな顔をするなよ。
お前さんは少なくとも俺を楽しませてくれたぜ。
今回の『狩り』はやりごたえ充分だった。
また、逃げられるんじゃないかってヒヤヒヤしたしな。
だが、さすがにこれで『詰み』だ。
悪いが、命を『狩らせて』もらうぜ」
「小娘は生かしてご領主様に引き渡すのでは?」
部下のひとりが心配顔で尋ねた。
ケドルは首を振る。
「普通の一般民ならともかく、このお嬢ちゃんは危険すぎる。
ご領主様が万が一でも魔法にやられちまったら大ごとだ。
なぁに、ちょうどよく代わりがいるじゃねぇか、そこに。しかも2匹だ。
ご領主様も代替品に満足してもらえるさ」
ケドルはもう立つこともできずにへたりこんでいるカップと、槍を構えながらも絶望の表情を浮かべているペイピールを順に指さした。
代替品の2匹とは、言うまでもないがカップとペイピールのことだ。
しかし、絶望で押しつぶされそうになっているふたりの男たちは、怒りの表情を浮かべることさえできなかった。
「おい、お前」
ケドルはかたわらに立っている部下に声をかけた。
「お前、ご領主様のところへひとっ走りして、この場所へご案内しろ。
俺はお嬢ちゃんを始末して待っているから」
部下はうなずくと、近くに待たせている馬に飛び乗った。
部下が走り去ると、ケドルは地面に押し付けられているメルルのそばへ歩み寄った。
「さて、お嬢ちゃん。
名残惜しいが、もうお時間だ。
恨むんだったら、俺たちを狩ろうなどと考えた自分を恨みな。
狩りってのはな、お嬢ちゃんのような者がやっていいもんじゃねぇんだ。
狩りは、強者が弱者を楽しみながら殺す、『特権』なんだよ……」
「よせ、ケドル!」
ペイピールは思わず叫ぶと、槍を構えて突進した。しかし、背後からこん棒で殴りつけられ、ペイピールは地面に倒れこんだ。
「慌てるなよ、プライネスの馬鹿野郎。
お前が狩られるのは、もう少しあとだ」
ケドルは懐からナイフを取り出した。
そのままメルルの喉をかき切るつもりだ。
メルルは口を押さえられたまま、身体を左右に振って抵抗した。
……まただ! また、自分は何もできない。
何て非力だ。
何て弱いんだ。
何て……。
目のはしから涙があふれ出す。
絶望的な状況だとわかっていながらも、メルルは抵抗することを諦められなかった。
――そのとき……。
ふと、メルルは一種の違和感で動きを止めた。
じっと聞き耳を立ててみる。
……静かだ。
さっきまで、どこかで犬さんの吠える声が聞こえたのに、今はまったく聞こえない……。
事実、森の中は沈黙に包まれていた。
闇に溶け込みつつある森の中に、音でさえ溶けて消えてしまったようだ。
おとなしくなったメルルを、ケドルは観念したと思ったらしい。
にやにや顔のままナイフをメルルに近づけた。
メルルは頭だけをどうにか動かして、森へ視線を向けた。得体の知れない予感で胸が苦しい。
メルルは目を大きく見開いた。
――何か、来る!
森の一部がはじけ飛ぶような音を立てると、大きな黒い塊が突然現れた。
「な、何!」
ケドルは思わずナイフを落としてしまった。
黒い塊は、ケドルの部下のひとりに躍りかかると、そのまま組み伏せた。
部下が悲鳴をあげる。
その場にいる者は全員、目を見開いたまま凍りついた状態だった。
「まさか……。なぜだ。
なぜ、お前がこの森にいる?
お前は、もっと南の森にいるんじゃなかったのか?」
ケドルは唇を震わせながらつぶやいた。
「ウォオオオオオオオオ!」
一帯を震わせるような咆哮が響き渡る。
見上げるような巨体の塊――。
『厄獣』がそこに立っていた。
63
『厄獣』の口の周りは真っ赤だった。
ぽたりぽたりと血がしたたり落ちる。
その血は、さきほど組み伏せられた男のものだった。
顔を噛み砕かれて、もとの顔がわからなくなっている。
「くそっ!」
ケドルは地面に落ちているペイピールの槍を拾い上げた。
槍が唸るほどの音を立てて振り回す。
『厄獣』は、すばやく跳躍すると、今度はメルルを組み伏せている男に襲いかかった。
男はわめき声をあげて、メルルから手を離した。
男はメルルを押さえるために、武器を手にしていなかったのだ。
慌てふためきながら腰に差した剣を引き抜こうとする。
しかし、『厄獣』がそんな時間を与えるはずがなかった。ほんの一瞬で、『厄獣』の牙は男の喉笛に突き刺さった。
男の口から血があふれ出す。
『厄獣』の登場に、すでに何人もの男たちが背を向けて駆け出していた。
3人の人間をいたぶり殺そうとしていた連中が、たった一頭の魔獣に命からがら逃げ出しているのだ。
『厄獣』は草原を駆けだすと、あっという間にひとりの男に追いついた。
身体がへし折れるほどの勢いで踏み潰すと、そのままその先を逃げる男を追う。
恐慌状態に陥った男たちに、『厄獣』という災害から逃れるすべはなかった。
男たちは『厄獣』によって次々と蹂躙されていく。
『厄獣』に捉えられた男たちは、腕をもがれ、首を捩じられ、喉笛を噛み千切られながら倒れていった。
彼らが血しぶきをあげて倒れていくさまは、まさに『血祭りにあげられる』だった。
夕日に照らされて舞う血しぶきは金色のしずくにも似て美しくさえあった。
ただ、そのしずくが意味するものは、――恐怖――、ではあるのだが。
メルルは身体が自由になったものの、その場から動けずにいた。
目の前で繰り広げられる光景に、身体全体がすくんでしまったのだ。
一種の思考停止状態に陥っている。
わずかに身体を起こしたまま、それ以上動かすことができない。
ペイピールも動かない。
もっとも、彼の場合は後頭部を殴られて気を失っているからだが。
カップもまた、へたりこんだ姿勢のまま、呆然とその光景を見つめていた。
あまりのことで、思考がおかしくなってしまったかもしれない。
カップが思っていたのは、「レトが言った通り、熊の足は恐ろしく速い」だった。
突然のできごとにメルルたち3人が身動きできないなか、ケドルだけはじりじりと後退していた。
自分がもといた位置まであとずさると、片手を樹のほうへ伸ばした。
そこには一頭の馬が結わえ付けられていたのだ。
ケドルは音を立てぬよう、ゆっくりと手綱を枝から外すと、すばやく馬の背に飛び乗った。
この馬の脚であれば、『厄獣』の脚から逃れられるかもしれない。
ケドルは混乱した状態のなかで、かろうじて計算していた。
「そら、行け!」
ケドルは手綱をしならせると、馬を走らせた。
一目散にそこから離脱しようとした……のだが……。
馬はいきなりつんのめり、ケドルは空中に投げ出された。
ケドルはあまり柔らかいとは言えない草原の上に叩きつけられた。
「ぐはぁ!」
ケドルは肺から空気を叩き出されたような声をあげた。
……何だ? 今、俺の馬に何が起こった?
衝撃のダメージは思った以上に大きい。
全身の骨が砕けたかと思う痛みで、立ち上がることができない。
実際に、どこかの骨を折ってしまったかもしれなかった。
ケドルは全身の痛みに耐えながら、自分の馬に視線を向けた。
馬は地面に倒れてもがいている。
後ろ脚が森に向かって伸びていた。
その脚を見ると、馬の足首に縄のようなものが巻き付いていた。
それは、丈夫そうな太い蔓だった。
馬の足もとにとぐろを巻いた蔓が森から伸びていたのだ。
それがどういうわけか、馬の脚にからみついたのだった。
……ば、馬鹿な!
そ、そんな偶然があるか!
森の樹にからみつく蔓が、草原まで伸びているはずはねぇ!
誰かが意図的に蔓を寄越してこないかぎり……。
ケドルはメルルたちに視線を向けた。
メルルたちはケドルのことを忘れたかのように草原を見つめている。
完全に呆けたような横顔だ。
……あいつらが俺の馬に?
違う。あいつらは俺の存在に気づいていなかった。
あんな仕掛けをできるはずがねぇ。
じゃあ、いったい、誰が……。
がさり、という音が近くに聞こえ、ケドルはそちらへ視線を移し、そして、蒼ざめた。
いつの間にかケドルのすぐ近くに、『厄獣』が歩いてきたのだ。
あたりを見渡すと、ケドルの部下たちは皆倒されてしまっていた。
生きて立っている者の姿はひとつもない。
『厄獣』はケドルの部下たちを倒したあと、悠々とケドルのもとへ戻ってきたのだ。
まるで、最後の楽しみに取っておいたかのように……。
ケドルの全身が恐怖で泡立ち、同時にあることが頭に浮かんだ。
しかし、それはとても信じられないことだった。
「……まさか、まさか、『あれ』は、お前がやったのか?
ありえないだろ、そんな。
こっちが馬で逃げることを読んで、あらかじめ馬の脚に罠を投げておくなんて……。
そんなこと、人間だってできやしねぇぞ!」
ケドルはうつぶせになると、『厄獣』から逃げ出そうとした。
メルルたちがいるほうへ這うように逃げる。
メルルたちもケドルと『厄獣』に気づき、恐怖の表情で凍りついている。
……何だ、何なんだ、これは!
俺は、こんなわけのわからねぇことで死ぬのか?
こいつのわけのわからない『お遊び』で殺されるのか、俺は?
さっきまで、自分が『お遊び』でひとを殺そうとしていたなど、ケドルの頭には塵ほどにも浮かんでいなかった。
ただ、この理不尽に怒り、嘆き、そして、打ちひしがれていた。
その理不尽も、これまで自分が押し付け続けてきたことを思いつきもせずに……。
「助けろ、俺を……」
ケドルはメルルたちに手を伸ばしながら言った。
ケドルが伸ばした手を誰も取ることがなかった。いや、できる者がいなかった。
メルルでさえ、硬直した状態でケドルの背後を見つめているだけだった。
ケドルは自分のすぐ背後に、『死』が迫っているのを感じていた。
「なぁ、頼むよ……。助けて。助けてくれよぉ……」
ケドルはなおも手を伸ばそうとしたが、思いきり背中を踏まれて呻き声を漏らした。
『厄獣』はケドルの背中を前肢で押さえつけ、動きを止めたのだ。
「よ、よせ、馬鹿……。やるのだったら、あっちが先だろ?
はら、あっちを見ろよ。
美味しそうなのがあっちに見えるだろ、な?」
ケドルはメルルを指さしながら泣き声をあげた。
それはまさに哀願だった。
人間同士でしか通じない、切ない願い――。
「だから、やめよ。な……」
なおもしゃべり続けようとするケドルの首に、『厄獣』は真っ赤な口を近づけた……。
64
すべてが終わった平原に、生きている人間はメルル、ペイピール、カップの3人だけだった。
ほかはすべて物言わぬ骸となって地面に横たわっている。
『厄獣』は息の根を止めたケドルの背中を踏みしだいて、メルルたちにゆっくりと近づいていた。
この距離だと、『厄獣』の息遣いがよく聞こえる。
ペイピールはまだ意識を取り戻していないらしく、静かに横たわっている。
カップはへたりこんだまま沈黙していた。
あまりの光景を目の当たりにして、カップに戦意と呼べるものはまるで見られない。
ただ恐怖に支配されて慄いている。
それはメルルも同じだった。
口がガタガタと震えて、言葉を発することもできない。
……呪文が、呪文が唱えられない!
レトさんと違って、呪文の詠唱抜きで魔法が使えないのに……!
魔力は『魔』の部分から生み出されるものだ。
通常の人間は『魔』と一体化していないから、魔法を使うには何らかの媒介を必要とする。
『呪文』はそのひとつだ。
呪文によって、人間は『魔』との接点を持ち、そこから魔法の力を引き出して操る。
それが人間による魔法の仕組みだ。
レトのように魔名を唱えるだけ、いや、ときには魔名すら唱えずに魔法を行使できるのは、『魔』と一体の存在である魔族か、魔法の極意をつかんだ魔導士ぐらいのものだ。
メルルはレトのことをもちろん魔族などと思っていない。
ただ、魔法の極意に近いものを会得しているのだろうと推測している。
もし、レトのように魔名だけで魔法が扱えたなら……。
いや、それでも、今、目の前に迫る危機に対処できたとは思えない。
メルルは、どんな魔法を使えばいいのか。それさえも思い浮かばないほど追い詰められているのだ。
『厄獣』の鼻先にペイピールの頭がある。
『厄獣』の鼻がぴくぴくと動いた。
それを見た瞬間、メルルは我に返ったようになった。
「ダメです、熊さん!
そのひとを殺さないで!」
小さな手をのばして夢中で叫ぶ。
すると、それに反応したのか、『厄獣』は顔をあげた。
メルルの身体は夕日を背に受けて、長い影法師を描いていた。
『厄獣』はメルルの影法師が顔にかかった状態で、今度はメルルの顔を見つめる。
「お願い」
メルルはゆっくりと語りかけた。「もう、殺さないで……」
『厄獣』はペイピールの身体をよけて歩くと、今度はメルルのすぐ近くまで歩み寄った。
相変わらず鼻をひくひくさせている。メルルは手を伸ばしたまま硬直してしまった。
すると、『厄獣』の態度に変化が起こった。
ぷいとメルルから顔をそむけると、そのまま3人から離れ出したのだ。
まるで、3人に対する関心が失せたかのようだ。
「え、どういうこと?」
お願いしたにもかかわらず、メルルはわけがわからないという表情になった。
『厄獣』が歩く先に、馬に乗った男たちの姿が小さく見える。
カイン・ウルバッハが部下たちを引き連れてやってきたのだ。
しかし、『厄獣』の姿を認めるや、馬の向きを変えて一目散に走り去っていく。
『厄獣』もまた、馬を追って走り出した。
夕日を浴びて走る『厄獣』の姿は、雄々しく、一方で丸みを帯びた体形は愛らしさも感じさせた。
そこには一種の美しささえもあった。
メルルたちは走り去る『厄獣』の姿をただ見送るだけだった。
思考を破壊されるほどの修羅場と、それでも変わることなく美しいと思える自然の光景に、心が圧倒されっぱなしだったのだ。
たちまち彼らの姿は見えなくなり、平原にはメルルたち3人だけになってしまった。
「……助かった、のか?」
カップがぽつりとつぶやいた。
「く、くそ……」
ペイピールが頭をふらふらさせて、毒づいている。ようやく意識を取り戻したようだが、まだはっきりとしていないらしい。
「助かったのは助かったのでしょうけど、なんか、見逃してもらえたようですね……」
メルルは自分の言っていることに自信がないままつぶやいた。
あまりに展開が急すぎて、自分の頭の中で整理がついていないのだ。
それはペイピールも同じようだった。
頭をさすりながらあたりを見回すと、
「あれ? あれ? あれ?
何がどうしてこうなった?」
困惑の声を漏らした。
いろいろと問いたげなペイピールと目が合ったが、メルルは首を振って苦笑を浮かべるしかなかった。
ざざざ……。
樹々が葉を揺らす音とともに、草原の葉っぱもゆらゆらとたなびきだした。
森を吹き抜ける風が3人の身体をなでるように通り過ぎる。
いつの間にか、森は沈黙を破っていた。
耳の感覚が元に戻ると、嗅覚も戻ったようだ。
メルルは風の中に、森の匂いと、そして、ある匂いを鼻腔に感じた。
「あ!」
メルルは自分の服をつまんで見下ろした。
彼女の服は、植物の汁で黒く汚れている。
……『クマギライ』の汁!
『厄獣』の熊さんも、この匂いを嫌ったんだ!
効果はあったんだ!
「これですよ、ペイピールさん。きっと!」
メルルは自分の服をつまんだまま、もう片方の手で指さした。
「『クマギライ』か……。
本当に嫌いだったんだな、この匂い」
ペイピールも自分の服をつまみながらつぶやいた。
自分でも匂いを嗅いで確かめているようだ。「んーーー。人間の鼻じゃ、大して臭くもないんだがな……」
「いいじゃねか、もう。助かったんだし」
カップが彼らしい楽観的なことを言った。
「しかし、何かフクザツだなぁ……」
ペイピールは地面を後ろ手で支え、両足を地面に投げ出した姿勢でつぶやいた。
「何がです?」
自分の服についた泥を払いながらメルルが尋ねる。
ペイピールは姿勢を変えず、正面を見たまま口を開いた。
「ここに、『厄獣』が現れたってことは、レトはあいつに勝てなかったんだろ?
いや、結局、レトのいる谷にやつが現れなかっただけかもしれないが……。
とにかく、レトが『厄獣』を始末していたら、俺たちは今頃、ウルバッハの連中に殺されていたんだろうなって思うわけよ」
たしかに、自分たちが今も生きているのは、『厄獣』がケドルたちを蹂躙したおかげだ。
奇妙な運命のめぐりあわせだと思うが、それだと……。
「レトさん! レトさんは無事なんでしょうか?」
メルルは真っ青になって叫んだ。
「わからねぇよ」
ペイピールは首を振った。
「さっき、プライネスの若いのが言ったばかりじゃないか。
結局、『厄獣』はレトのいる谷に行かなかっただけじゃないかって。
そうであれば、レトはあの谷でひとり、ずうーっと待ちぼうけを食っているわけだ」
カップは相変わらず楽観的なことを言っている。
しかし、そんなカップの存在が今のメルルにはありがたい。
「そうですね。きっと、そうですよ」
メルルはカップのそばへ歩み寄った。
そして、メルルはカップの肩を後ろから抱きしめた。
今は感謝の気持ちでいっぱいだ。
カップは照れたように顔を赤くすると頭をかいた。
「おいおい。年齢食ったおっさんをからかうもんじゃねぇぜ!」
「ちぇっ、どいつもこいつも呑気なもんだぜ。
こちとら、これからどうするか考えているってのによォ……」
ペイピールが呆れたようにぼやく。
メルルはパッとカップから離れた。
「ご、ごめんなさい。そ、そうですね。これからのことを考えなきゃですよね」
「勝手な推測と希望だが、『厄獣』はこのままカイン・ウルバッハを追っていると思う。
カインは当然、自領のウルバッハ領へ逃げるだろう。
俺たちは、ウルバッハと『厄獣』の双方に狙われる心配もなく、プライネスへ帰れるんじゃないかな。どう思う?」
メルルはうなずいた。「そうですね。そうだと思います」
ペイピールはカップに視線を向けた。
「聞いての通りだ、おっさん。
俺たちは今のうちにプライネスへ戻るぞ。
悪いが、あと少し、痛いのを我慢してくれ」
それを聞いて、カップは笑いながらケガをした自分の脚を叩いた。
「はっはっはっ! 気にするな。
ご覧の通り、叩いてもどうでもないわい。
走るには不自由だが、歩くのはまったく問題ないぞ」
「決まりだ」
ペイピールは立ち上がると、カップのそばに立った。
手を伸ばし、カップの腕をとる。
カップはペイピールの助けを借りながら立ち上がった。
ふたりとも晴れやかな表情だ。
「さぁ、こんな血なまぐさい場所から、さっさとおさらばして、早くプライネスへ帰ろう」
メルルはケドルの亡骸を見下ろしていた。
ケドルは極悪人で、こんな目に遭っても同情も哀しむ必要もない人物だ。
しかし、こうして無残な姿を目の当たりにすると、メルルは世界の不条理、そして、非情さを思い知らされるのだ。
その一方で、別の考えも浮かんでくる。
メルルの心にケドルの言葉が甦っていた。
――狩りは、強者が弱者を楽しみながら殺す、『特権』なんだよ……。
あの言葉がもし真実であるなら、ケドルは弱者だから『厄獣』という強者に狩り殺されたということになる。
つまり、『厄獣』は自分の特権を行使しただけ、ということだ。
……そう。だから、今ならこう言える。『その考えは間違っている』と。
メルルは自分の中に、ある確信が生まれたことに気づいた。
この世に、一方的な特権など本当は存在しない。
強者が弱者をほしいままにできる特権などありはしないのだ。
なぜなら、強者と弱者の関係は絶対的なものではなく、状況によって変化するものなのだ。
自分を殺そうとしたケドルが逆に『厄獣』によって命を落としたのは、ケドルはメルルに対しての強者であって、『厄獣』から見れば弱者のひとりにすぎなかったからなのだろうか?
たしかに、それも理由のひとつではあるだろう。
だが、最強の『厄獣』も、今後は人間に命を狙われる。いずれ狩り殺されるかもしれない。
『厄獣』でさえ、『絶対』の強者ではないのだ。
ルピーダはチョプスの遺体を引き揚げる際、メルルに話していた。
『お互いが『狩るもの』であり、『狩られるもの』でもある』と。
強者と弱者の関係は一方的なものではなく、相互的な一面も持ち合わせているのだ。言い換えれば、単なる立場の違いとも言える。
もちろん、それは極論というより、ものの見方のひとつにすぎないのだが。
そう。『狩り』は、ふたつの異なる立場の関係性――、その一面を切り取っただけのものなのだ。
だから、あなたの考えは間違っている――。と、メルルは断言的に思うのだ。
メルルは首を振った。
ここで、こんなことに思いを巡らせても仕方がないことだ。
誰も、こんなことを議論しようとさえ考えないだろうから。
もし、そんなことをするとしても、その議論をすべき相手は、すでにこの世にいないのだから。
「おおーい、魔法使いのお嬢ちゃん。どうした? 早く行くぞ。
プライネスまでは、あともう少しだ」
カップを肩につかまらせて歩いていたペイピールが、メルルに振り返って声をかけた。
「はーい。すぐ行きます!」
メルルはペイピールに返事すると、ふたりに向かって歩き始めた。が、すぐに足を止めて、
「あーーー!」と叫んだ。
「ど、どしたい、お嬢ちゃん?」
ペイピールも足を止めて目を丸くした。
「私、ウルバッハに行かなきゃです!」
メルルの言葉にペイピールの口がぽかんと開いた。
「なんだって? なんで、そういうことになる?」
メルルは今になって思い出したような顔だった。
「お師匠さまの杖を取り戻さないと!」




