狩人は闇に潜む 13
Chapter 13
56
――『クマギライ』の効果はどのぐらい続くのだろう?
メルルは全身を覆う疲労と戦いながら森を進んでいた。
あれからどのぐらいの時間が経過したのかわからない。
ただ、太陽の色が少しずつ赤みを帯びはじめている。
このまま夕日の色へと変わるのだろう。
日が落ちれば、追手に見つかる危険は減る。
一方で、この森に潜む獣たちに狙われることになるのだが。
――最悪、そっちのほうがいい。
メルルはそう思った。
さるぐつわのせいで呼吸が苦しく、極限までに迫る疲労はつらい。
結局、自分は助からないのかもしれない。
そうであるなら、あんなやつらの手ではなく、獣たちの牙によって命を絶たれるほうがずっといい。
そうであれば自分の魂は穢されず、この美しい森とひとつになれる気がする。
……チョプスさんも同じことを思っただろうか?
実のところ、メルルはチョプスのことを顔はもちろん、人柄さえまったく知らない。
彼が何を想い、そして死んでいったのか、知る由もないのだ。
だから、今ここでメルルがいくら考えたところで得られるものは何もない。
しかし、メルルは考えずにはいられなかった。
人間の傲慢な悪意にさらされた者が、何を考え、どう立ち向かっていくのか。
メルルを密告した農婦のように、ただ恭順を示すのも答えのひとつだ。
『立ち向かわない』も選択肢に含まれるからだ。
では、チョプスはどうしたのか?
彼は致命傷を負いながらも緩衝地帯を抜け、プライネス領まで逃げてきた。
力尽き、死を間近に感じたチョプスは、最期に何をしようと考えただろうか。
メルルがふと考えたように、森とひとつになれたらなどと考えただろうか?
メルルは首を振った。
わかるはずもない。
それは誰にも解き明かすことのできない、永遠の謎になってしまった。
――よそう。
こんなことを考えるのは。
今、考えるべきは、どうやって追手から逃れるのかだ。
犬たちに追いかけられる様子はない。
思っていた以上に『クマギライ』は効果があった。
しかし、さっきも考えたように、いつまで効果があるのかわからない。
『クマギライ』の効果が切れたとき、犬たちはメルルめがけて追いかけてくるかもしれないのだ。
早く、この森を抜けなきゃ……。
気は急くが、足がうまく動かない。
さるぐつわをかまされ、両腕を後ろ手に縛られた状態では、普通に歩こうとも体力の消耗が激しくなる。
メルルの体力はとっくに限界だった。
さっきまで無意味と思えることを考えていたが、そのおかげで疲労をいくぶん忘れて歩くことができた。
もし、意識が現実だけに向けられていたら、メルルはその現実に押しつぶされて、地面に倒れこんでいただろう。
メルルの、ウルバッハ側からすれば予想外の頑張りは、彼女らしい夢想的で、どこか楽観的な気性のおかげかもしれない。
だが、それも魔法のような効果があるわけではない。
メルルの足はますます歩幅がせまくなり、やがて、ただ地面の上をすり足で進むだけになっていた。
歩く速度も、もはや歩くと言えるものではない。
念のため、草むらを選んで進んできた。
メルルの足跡を追うにも、いちいち草をかき分けながら探すのは手間なはずだ。
多少は時間を稼げる。
メルルは思考の鈍くなった頭で、そこだけは計算して行動していた。
しかし、いくら時間を稼いでも、ここまで歩みが遅いと、ウルバッハの連中に見つかるのは時間の問題だ。
……どこかに身を隠して夜になるのを待つか……。
体力を回復させるためにも、それが最良だと思う。
だが、いくら見渡しても、ゆっくりと身体を休めながら安全に身を隠せる場所など見当たらないのだ。
森には茂みも多くあるものの、『安全に』身を隠せるほどでもない。
森の樹には洞が生じているものもある。
しかし、それらはメルルの身体を隠せるほどの大きさはなかった。
どこかの崖に洞穴でもあれば……。
いや、それもまずい。
もし、そこに隠れているときに誰かに踏み込まれでもすれば、自分に逃げ道はない。
結局、重い足を引きずりながら進むしかないのだ。
一方で身体は休息を求める。
それは本人の意志とは関係がない。
メルルは突然、意識を失って地面に倒れこんだ。
限界を超えた身体が、これ以上進むことを拒絶したのだ。
メルルは無防備な身体をさらしたまま、しばらく地面に横たわっていた。
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何頭もの馬が駆け抜けていく。
どの馬も背中に屈強な男たちが乗っていた。
脇目もふらず先を急いでいるせいか、こちらを見ようともしない。
草むらの陰でペイピールは大きく息を吐いた。
……どうにかやり過ごせた……。
レトの魔法で街道のすぐそばまで飛ばされたペイピールとカップは、必死で東へ進んでいた。
レトをひとり残したことは心残りだが、彼の生存は一刻も早い救援にかかっている。
その考えがふたりを急かしていた。
もし、東から誰かがやってくれば助けを求めるつもりだったが、あいにくやってきたのは西からだった。
それでふたりは道を外れて近くの茂みに身を隠したのだった。
「今のはウルバッハの連中だな」
カップはペイピールの耳もとでささやいた。
「ああ。さっきのに俺の仲間はひとりもいなかった」
ペイピールは苦々しい表情でうなずいた。
ウルバッハの動きが怪しい。
連中は領の境を目指しているようだった。
「まさか、俺たちが『谷』を見ちまったことに気づかれたのか?」
そうであれば、あの連中は自分たちを追っていることになる。
そして、それはレトが連中に見つかったことも意味する。
「どうするよ、おっさん。このまま進んでも、連中に捕まっちまうぜ」
ペイピールはカップの肩に手をかけながら尋ねた。
「どうするも何も、進むしかないだろ」
カップは重い身体を無理に立たせた。
「連中の目をごまかしてプライネスに入るのは、向こうに着いてから考えりゃいい」
たしかに、ここでぐずぐずしているほうがまずい。
ペイピールはカップに肩を貸すと、再び街道の道を歩き始めた。
「緩衝地帯に入ったのかな」
カップは周りを気にしていた。
ペイピールは首を振る。
「この道は何度か通ったことはあるけど、こんな特徴のない森の道じゃ、今どこにいるのか見当もつかねぇよ」
ふたりが進む森の道は同じような樹々にはさまれた道だ。馬車がすれ違うことができるほどの広さがあるが、それも一定で続いている。目印らしいものがないだけに現在位置をつかむのは不可能だった。
「……いや、領の境だけはわかるな。
あのあたりから森じゃなくて谷間を通ることになるからな。
谷の手前まで着けば、位置がつかめる」
ペイピールは思い出したようにつぶやいた。
「谷間ってことは……」
「おそらく、連中は谷間の奥で待ち構えているはずだ。
あそこで鉢合わせしたら、身を隠す場所もねぇから逃げることもできねぇ」
「じゃあ、谷の手前で道を変えるしかないな」
「それはそうだが……。問題はそこだな。
谷の手前に着いたら、北に回ればいいのか。南へ回ったらいいのか……」
「もし、連中がプライネスへ逃げる者を谷以外で待ち構えるなら、どこだと思う?」
ペイピールは自分の顎に手を当てて考えた。
「……南側、かな。
大きくはないが、領の境を抜けたすぐ南側に集落がある。
連中はあそこに逃げ込むと考えるかもしれない」
「決まりだ。
北側から行こう」
カップはペイピールの背中を叩いた。
* * * * * * * * * *
メルルは目を開いた。
自分の頬が地面に押し付けられている。
何が何だかわからなかったが、次の瞬間、自分が地面に倒れこんでいることに気がついた。
慌てて身体を起こそうとするが、後ろ手に縛られていたことを忘れていた。
立ち上がることができずに地面をごろごろと転がってしまう。
どうにか立ち上がると、メルルは泥だらけの顔のまま、あたりを見渡した。
ずいぶん意識を失っていたようだ。
木漏れ日の色が透明感のある乳白色から、赤みを帯びた黄色に変わっている。
夕方に近づいているのだ。
メルルは木漏れ日を観察して、方角を測った。
とにかく東だ。東へ進むことが最重要なんだ。
メルルは方角を確かめると、再び歩き始めた。
意識を失っている間に、多少は体力が回復したようだ。
意識を失う前より身体が軽くなったように感じる。
それでも、歩くのがつらいことに変わりはない。
縛られている腕の感覚もおかしい。
まるで、そこに神経が通っていないようだ。
メルルはさるぐつわを噛み締めて前へ進んだ。
さるぐつわを噛み締めることが、自分の歯を食いしばることにつながるように思えたからだ。
苦しい。痛い。つらい……。
不自由な状態で歩き続けるのは、すぐに限界を迎えてしまった。
さっき回復した体力もすぐに尽きてしまったようだ。
意識が朦朧とする。
頑張らなくちゃ、頑張らなくちゃ……。
メルルは必死で茂みを踏み分けて歩く。すでに、彼女の視界は薄暗くなって、あたりがよく見えなくなっていた。
だから、ひとの声が聞こえたこともすぐに気づかなかった。
「おい、あれを見ろ」
「間違いない。魔法使いのお嬢ちゃんだ」
……『お嬢ちゃん』って……。私、見つかったんだ……。
その声に気づいた瞬間、メルルの集中力が完全に切れた。
メルルは再び意識を失って地面に倒れたのだった。
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メルルが再び目覚めたとき、自分が仰向けに寝かされていることに気づいた。
陰になって顔が判別できないが、人間の頭がふたつ、こちらの顔をのぞき込んでいる。
「おう、魔法使いのお嬢ちゃん。やっと、目が覚めたか」
聞き覚えのある声だが、それはケドルではなかった。
「カップさん!」
メルルは跳びはねるようにして起き上がった。
同時に口へ手やる。
彼女を苦しめていたさるぐつわは取り外されていた。
「俺もいるぜ、一応」
ペイピールが優しい声をかけた。
「ひどい目に遭ったな、お嬢ちゃん」
カップもまた優しい声をかけて、メルルの肩に大きな手を載せた。
メルルの両目から涙があふれ出す。
「良かった……。本当に良かったですぅ……」
メルルの安堵の涙に、男たちふたりは気まずそうに顔を合わせた。
「ま、まぁ、俺たちは無事だけどよぉ。
それより、お嬢ちゃんはどうしたんだ?
どうして、こんなところをさまよってたんだ?」
「私、ウルバッハのひとたちに命を狙われているんです。
ただ殺そうとしてるんじゃなくて、狩りの獲物にされちゃってるんです!」
メルルは必死の声で答えると、ふたりは疑う様子もなくうなずいた。
「なるほどね」ペイピールは予想通りだと言わんばかりだった。
メルルはふたりの顔を交互に見やった。「知っているんですか?」
「まぁな。俺たちは俺たちで、ウルバッハの連中が何をやらかしていたのか知っちまったんでな。
おかげで、俺たちもウルバッハの目を避けて逃げているところだ」
カップが簡潔に答えた。
「ウルバッハの連中はとんでもねぇやつらだ。
そりゃあ、近隣との交流を禁じるわな。あんなことをしてるって、バレちまうからな」
ペイピールは不快さを隠しもしないで言葉を吐き出す。
「そうなんです。
私もそのことを知ってしまって……。
だから、その……」
メルルは言いかけて口を閉じた。
再び彼らの顔を交互に見ながら不安そうな表情を浮かべた。
「あの、ところで、レトさんは?
レトさんと一緒じゃないのですか?」
メルルの問いに、ふたりの男は顔を見合わせて少しうなだれた。
メルルの心にますます不安がつのる。「あの、レトさんは……」
「あいつは残った。『厄獣』と戦うために」
ペイピールが答えた。
メルルは驚いて口が開いた。
「俺が足手まといになったからだ。
すまねぇ、お嬢ちゃん」
カップが自分の足を指さしながら言った。
見ると、カップの右脚が紫色になって腫れあがっている。
かなりの重傷のようだ。
「ふたりを逃がして、レトさんは残ったんですか」
メルルは呆然としてつぶやいた。
「あいつは勝算があるようだった。
俺たちを巻き込みかねない、とっておきの魔法があるって。
それで、俺たちは先にプライネスへ向かうことにしたんだ。
途中でお嬢ちゃんを見つけたのは、本当に偶然だぜ」
ペイピールが落ち着いた声で答えたが、メルルはそれをレトの嘘だと思った。
レトが使える魔法をすべて知っているわけではないが、禁術クラスの魔法を習得しているとは思えない。
レトは勉強熱心ではあるが、魔法の専門家ではないのだ。
「レトさん……」
少し脱力感に襲われながら、メルルはつぶやいた。
――あなたは本当に本心を見せないひとですね……。
「俺は、あいつが俺たちのために犠牲になったなんて思っていない。
あいつはまだ生きている。
あいつと一番長い付き合いだった俺が言うんだ。
お嬢ちゃんも信じてくれ」
カップはメルルの肩に載せた手に力を込めた。
温かく、力強いものだった。
メルルはうなずいた。
「信じます」
それは、祈りみたいな気持ちから出た言葉でもあった。
「よし、じゃあ、行動再開といくか」
ペイピールは立ち上がると、腰回りの土を払った。
「どこへ向かうんです?」
メルルも立ち上がりながら尋ねた。
「街道から北へよけたところだ。
道らしい道はないが、ウルバッハの連中に気づかれず緩衝地帯を抜けられる」
ペイピールが森の奥を指さしながら答えた。
「道はわかるのですか?」
メルルの質問に、ペイピールは苦笑を浮かべた。
「さっき言ったろ? 道らしい道はないって。
なぁに、安心しな。
道はなくとも、俺にとってはなじみの場所だからよ。
それに、道がねぇってことは、やつらもいねぇってことだ。
なにせ、俺たちが向かうのは馬が走られねぇところだからさ」
ペイピールは胸を張って言った。
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ペイピールの言ったことは正しいようだった。
あれからしばらく森を進んだが、犬に追われることも、追跡者に遭遇することもなかった。
悪路のため、カップの脚が心配だったが、カップはペイピールに支えられながらも、愚痴ひとつこぼさず歩いていた。
呼吸と、両手が楽になったとはいえ、疲労が完全に回復したわけではない。
しかし、仲間とともにいる心強さも手伝ってか、あまりつらいと思わなかった。
日がだいぶ傾き、木漏れ日も差さなくなって、森は暗くなった。
普段なら心細くなるところだ。
しかし、視界がだいぶ悪くなった分、ウルバッハ家にも見つからないと思えば、怖いどころか心強く感じる。
メルルは自分を現金な性格だと思った。
「あと、どのくらいです?」
メルルはカップの背中を押しながらペイピールに尋ねた。
「うーん。本当なら、もう森を抜けているところなんだが……」
ペイピールが少し自信をなくしたようにつぶやいた。
かつてと勝手が違うのだから、見込みが多少外れても仕方がないのだが、なまじ自信たっぷりに言ったことを気にしているのかもしれない。
それだけに、森が切れて目の前に細い沢が現れると、ペイピールはほっとしたようだった。
「良かった、森を抜けた!
ついでに目的の沢にも着いた!」
ペイピールが快哉の声をあげる。
メルルもカップの後ろでほっと息を吐いた。
「こっちも良かったぜ。こっちの見込みが外れたんじゃねぇかと心配したからな」
ふいに脇から声が飛び、3人は凍りついた。
沢の上流から、見慣れた――二度と見たくもない――顔の男が姿を見せた。
「お前はケドル!」
ペイピールは大声をあげた。
ケドルは片手でボウガンを玩びながら近づいた。
背後からは部下である用心棒たちもぞろぞろと姿を見せる。
「お嬢ちゃんは頭がいいからな。
馬鹿正直に領の境に行かないだろうって思っていたんだ。
一方で素直だからな。
普通に回り道してくるだろうとも考えた。
だったら、どこから来る?
街道の北か、南か。
さすがにそこまではわからなかったから二手に分かれることにしたがよ。
俺は賭け事に強いんだ。
俺は北に賭けて張っていたってわけさ。
失敗したな。金賭けときゃ良かったぜ」
ケドルは楽しそうにしゃべっている。
「まさか、討伐隊の生き残りと合流していたとは知らなかったが、まぁ、生きてようが死んでようがどっちでもいい連中だ。
ついでに狩っちまっても問題はねぇな……」
ケドルは背後の部下たちに合図を送った。
部下たちは剣やナイフを手に、3人に近寄ってきた。
「さて、お嬢ちゃんもおっさんの陰に隠れてないで、こっちに顔を出しな。
お嬢ちゃんはここで殺さねぇから安心しな。
ご領主様の命令だからな」
メルルはカップの背中から離れて、ケドルに姿を見せた。
口の中で何かをつぶやきながら。
メルルの姿を見たとたん、ケドルの表情が変わった。
「あ、こいつ!
両手と口が自由になってやがる!
気をつけろ!
こいつは魔法が使えるんだ!」
……気づくのが遅いです!
こっちはすでに呪文を詠唱中です!
メルルは両手をケドルたちに向けた。
「火炎剛球!」
メルルの両手から炎の塊があふれ出し、ケドルたちに襲いかかった。
ケドルたちは炎を浴びせられ悲鳴をあげた。
「うわぁああああ!」
「あち! あっちいい!」
「く、くそっ!
なんてデタラメな魔法だ!」
ケドルは片手で炎を防ぎながら毒づいた。
「杖がないと、魔法の向き、威力の調整が難しいだけです。
手加減なんて期待しないでください!」
メルルは炎を浴びせ続けながら大声をあげる。
炎に包まれた用心棒たちは、次々と沢へ飛び込んでいく。
細くて浅い沢なので、全身に水を浴びることができない。
男たちは沢に寝っ転がって火を消した。
かたわらでカップが満面の笑顔だ。
メルルの肩に手を載せると、もう片方の手で親指をぐっと上げてみせた。
ペイピールは槍を振り上げながらケドルに躍りかかっていた。
ケドルはとっさにボウガンで槍の一撃を防いだ。
ボウガンから「ビーン」という音とともに矢が地面に落ちる。
ペイピールの槍が、ボウガンの弦を断ち切ったのだ。
「くそっ! めんどくせぇ!」
ケドルはボウガンを放り投げると背を向けて走り出した。
向かった先には、何頭もの馬が沢の水を飲んでいた。
「沢伝いでここまで来たのか」
ペイピールが納得したように声をあげた。
ケドルはすばやく馬にまたがると、今度はメルルたちめがけて馬を走らせた。
馬の巨体がメルルの眼前に迫る。
メルルはとっさにカップの身体にしがみつくと、そのまま沢へ倒れこんだ。
ケドルを乗せた馬は、さっきまでふたりが立っていたところを駆け抜けて沢を下っていく。
「野郎、逃げる気か!」
ペイピールは槍を振り上げながら怒鳴った。
メルルが沢から立ち上がると、残りの用心棒たちも馬に向かって走り出している。
人数では上回っているのに、メルルの魔法で戦意を喪失したらしい。
馬にまたがると、次々とこの場から逃げ出していく。
瞬く間に、沢にはメルルたち3人だけになってしまった。
「やりましたね、撃退できました」
メルルはカップが立ち上がるのを手伝いながら声をはずませた。
「違うぜ、魔法使いのお嬢ちゃん。
あいつらは仲間を呼びに戻ったんだ」
ペイピールが槍を背中のフックに戻しながら言った。
「俺たちを諦めるわけがねぇんだ。
俺たちは言わば、やつらを死刑にできる生き証人だ。
だからこそ、確実に殺しにかかる。
おっさん、悪いがもう少し頑張ってもらうぜ。
脚が痛いの歩けないの、泣き言を受け付けられる状態じゃないからな」
カップも真顔に戻っていた。「わかった。いざとなったら俺を置いて行って構わん」
ペイピールはカップの胸をこぶしで軽く殴りつけた。
「それはもう言いっこなしだぜ、おっさん。
あんた、レトを裏切るつもりかい?」
「やれやれ。若いやつらは『配慮』の意味を知らんと見える」
カップは嘆息しながらも自ら歩き始めた。
「でも、ペイピールさん。
頑張るって、どう頑張るんです?
逃げるんですか?
戦うんですか?」
メルルはペイピールに話しかけた。
助かったと思っていたのに否定されて、メルルは何をどうすればいいかわからなくなっていた。
「逃げるに決まってる」
ペイピールは困ったような顔で答えた。当たり前だろと言わんばかりだ。
「あいつらは味方を呼びに戻ったんだぜ。
圧倒的な数の暴力でこられたら、いくらお嬢ちゃんの魔法が強力でも敵わないだろう?」
そう言われれば返す言葉もない。
「沢を抜けてもプライネス領までは遠い。いや、あいつらのことだ。
プライネスへ逃げ込んでも、目撃者がいなけりゃそこまで追ってきて殺しにかかるかもな」
一時はウルバッハ家がカルロス・プライネスを暗殺しようとしている話も出ていた。
そのことを思えば、自分たち3人を殺すのに、領内、領外など関係ないだろう。
「とにかく、みんながいるところへ逃げ込むしかない、ということですね」
「そういうこった」
ペイピールはメルルの手をとった。
「そこでだ、お嬢ちゃん。
お嬢ちゃんの出番になるんだが……」
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レトは岩に寝そべり、空を見上げていた。
……死に損なったから思うわけじゃないんだろうけど……。ありきたりな空だよな……。
空は、かなり赤みを帯びている。夕方になろうとしているのだ。
『厄獣』との対決前には美しく尊いものだと思っていたものが、こうもあっさり感慨もわかないものになろうとは。
自分はつくづく薄情なものだと思う。
……魔力は空っぽになったけど、それ以外に深刻なダメージはなかったな。
あの大岩をぶつけられたときは危ないと思ったけど、検めてみると打ち身程度で済んでいるし……。
レトは剣を左手で持ち上げて眺めた。
……増強の効果は想像以上だ。
耐久値もケタ違いに跳ね上がっていた。
いや、デーモン族の耐久力がそれだけ高いってことか……。
レトは視線を剣から左腕の鎧へ移す。
……僕の手に宿るデーモン族の力はどれほどのものなんだろう?
増強すれば、オリジナルに近い能力が発揮されるだろうことはある程度実証できた。
そして、増強の効果が切れたとき、僕は元の姿に戻っているか心配だったけど、現時点では問題なしと言っていいのかな……。
レトは顔をしかめた。
……カッコつけたはいいけど、見逃してもらう形で生き残ってしまった……。
アルキオネが見ていたら、何て言ってきたかな……。
レトが見上げ続けている空に黒い点のようなものが飛んでいた。
それはやがてみるみる大きくなり、レトの眼前へ舞い降りてきた。
「かぁああああ」
レトの胸に舞い降りたのは、一羽のカラスだった。
レトは仰向けの姿勢のまま、カラスを見つめた。
「やぁ、アルキオネ。元気だったかい?」
すると、カラスはぎゃあぎゃあ言いながらレトの顔を激しくつつき出した。
容赦のないくちばし攻撃だ。
「痛っ!
痛い!
痛いよ、アルキオネ!
勘弁してくれ!」
レトは右手で必死に振り払おうとする。
しかし、アルキオネは許す気配を見せない。
しきりにつつきまくっている。
「本当に痛い! もうやめてくれ、アルキオネ!」
レトの絶叫に満足したのか、アルキオネはレトから飛び立つと、すぐ近くの岩に降りたった。
それから何ごともなかったように羽繕いを始める。
「まったく、君ってやつは……」
レトは身体を起こしながらぼやくと、目のはしに近づくものが入った。
すばやく視線を向けると、それは馬に乗った集団だった。
先頭の馬から誰かが手を振っている。
「おおーい、探偵。無事だったか?」
「まさか……」
レトは目を丸くした。そして、今度はアルキオネに目を向ける。
「まさか、君が連れて来たのか?」
レトに呼びかけた人物はひとり馬を走らせた。馬が歩きにくい岩場を器用に渡ってみせる。
ついにはレトのすぐそばまで馬を進めてみせた。
かなりの乗馬の腕だ。
「おいおい、こっちには挨拶なしかい、探偵」
呆れた口調の主は、ルピーダだった。
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「じゃあ……」
レトはアルキオネに目を向けた。
「本当に彼女が連れて来たんだ……」
「結果的に、だけどね」
ルピーダは頭をかきながら言った。
「お嬢のもとへ、このカラスが飛んできて、しきりに騒いでいたんです」
ゴーゴリーがアルキオネに視線を向けて言った。
「お嬢も私も、このカラスが、あなたが連れているカラスだとわかったので、カラスに導かれるままに後を追ったのです。
てっきり、あなたが帰ってきたと思ったものですから。
ところが、カラスが案内したのは、チョプスという男が死んでいた場所でした。
カラスは、とある樹をさかんにつついて騒いでいたのです。
お嬢も私も訳がわからずに樹へ近づいたのですが、そのとき、その樹の洞に一通の手紙が入っていることに気がついたのです。
その手紙は、プライネス領主およびギデオンフェル王国ルチウス王太子にあてたものでした。
差出人はチョプスです。
開封するか悩んだのですが、急を要する可能性を鑑みて、お嬢が開封して読むことにしたのです。お嬢が全責任を負うつもりで。
手紙の内容は、ウルバッハ家の非人道的な行動を告発するものでした。
証拠として、この谷の真実と、その所在を示した地図が同封されていたのです。
ご領主様は、すでに王都にあてて王国軍の派遣を要請していたので、我々は近くに駐屯する王国軍へその手紙と地図を届けたのです」
「それで、王国軍が動いて、この谷に現れたというわけですね」
レトはルピーダとゴーゴリーの背後に見える兵士たちに視線を向けた。
兵士たちは正規の王国軍の軍服を身に着けていた。
「たいしたもんだよ、あんたのカラス。
あんな芸当をどうやって仕込んだんだい?」
ルピーダは腰に手を当てて、感心したようにアルキオネを見つめている。
レトは苦笑を浮かべて首を振った。
「僕は何も仕込んでいません。
ただ、彼女は、本当に賢いのです。
どうすれば王国軍をここへ送り込めるのか、彼女なりに悟っていたのでしょう」
……チョプスの手紙の存在に気づいていたのに、それを初めから教えようとしなかったのは彼女らしいところだけど……。
レトもまた、羽繕いを続けるアルキオネを見つめながら思った。
兵士の中から、少し形状の異なる軍服の男が近づいてきた。
この中の指揮官らしい。
指揮官らしい若者は、レトに向かって敬礼した。
「第8連隊、特別騎馬分隊所属のバートン大尉であります。
このたびは、『厄獣』の討伐および、ウルバッハ領の領民虐殺の告発にご協力いただき、感謝いたします」
……カルパ中将の部隊か……。
敬礼を返しながらレトは思った。
軍閥貴族の代表で、ルチウス王太子とは馬が合わないと聞いている。
しかし、その配下にいるのは礼儀正しく、誠実そうな人物だ。
「討伐も告発も……。今回、僕は何もできていません。
その感謝はほかの方へしてあげてください」
レトは正直に返した。
「そうでありましょうか。
私はあなたが連れているカラスによって、この谷のことが明らかになったと聞いております。
あなたが、あのカラスと心が通じていなければ成しえなかったことでございましょう」
レトは呆れたように首を振った。
まったく軍人というのは融通が利かない……。
バートン大尉はレトから視線を外すと、あたりを見渡した。
あちこちで兵士たちが岩場にかがみこんでいる。
そこら中に散らばっている骨の状況を確かめているのだ。
ある程度、調べがついたのかひとりの兵士が近づいて、バートン大尉の前で敬礼した。
「報告します。
任意で10メルテ四方の範囲を捜索したところ、実に10体分と思われる人骨が見つかりました。
この現場の範囲をざっと2千平方メルテと見積もった場合、少なくとも2百体もの遺体が廃棄されているものと思われます」
「最低で2百体か……。
でたらめな数字だな」
部下からの報告を聞いて、さすがのバートン大尉からも不快の表情が現れた。
「現領主の、30年に渡る罪の大きさがわかる数字です」
レトは冷静な声で言った。
バートン大尉はうなずく。
「ウルバッハ家の戦力は各地から集めたならず者の用心棒およそ50名。
その中に魔法使いは含まれておりません。
我々2百名で対処可能と思われます」
別の部下がバートン大尉に新たな報告をした。
「よし。いったん、捜索は中止し、これより、カイン・ウルバッハの屋敷へ進軍する。
目的は主犯カイン・ウルバッハの逮捕およびウルバッハ一党の武装解除と確保。
いずれも武力で抵抗ある場合は軍の総力でもって制圧する」
バートン大尉はすばやく指示を出すと、もとは岸だったところへ歩き出した。
そこには大尉の馬があるじを待っていたのだ。
「ほら、探偵。あんたはあたしの馬に乗りな。一緒に行くだろ?」
ルピーダは馬上からレトに手を差し出した。
「急転直下の展開ですね」
レトはルピーダの手を取りながら言った。
「問題あるかい?
もともと、あんたがこうしようと考えていたんだろ?」
ルピーダは笑顔で返した。




