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こちらメリヴェール王立探偵事務所 5 ~狩人は闇に潜む~  作者: 恵良陸引


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狩人は闇に潜む 12

Chapter 12


52


 屋敷の外へ連れ出されたとき、あたりは昼になっていた。


 緑に囲まれた穏やかな場所で、小鳥が梢でさえずっているのが見える。


 メルルは思わず涙がこぼれそうになった。


 目の前に広がる景色はこんなにも美しいのに、ここを我がものとしている人間の何て醜いことか!


 きっと、梢で戯れる小鳥たちに、メルルがこれからどのような目に遭わされるのか想像もつかないに違いない。

 つぶらで、無邪気な瞳をただ向けるだけだ。


 メルルはさるぐつわを強く嚙んだ。

 決して嚙み切れるとは思っていないが、メルルから言葉を奪うさるぐつわがいまいましくて仕方がなかった。


 「こいつに乗れ」


 メルルを地下牢から出した男は、メルルの背中を押した。

 メルルの目の前には一台の荷馬車が停まっていた。

 白い布で荷台を覆った幌馬車だ。

 荷台からは前と後ろしか外の景色は見られない。

 荷台には後ろから乗り込むための階段が備え付けられていた。


 メルルは抵抗しようとしたが、後ろから持ち上げられるように、無理やり馬車へ乗せられてしまった。

 身体が小さくて軽いメルルを馬車に放り込むなど、ウルバッハの用心棒たちにとっては労働と呼べるものですらなかったようだ。


 馬車はメルルを乗せるとすぐに走り始めた。


……どこへ連れて行かれるのだろう……。

 メルルは不安を押し殺すこともできずに荷馬車の後ろを見つめた。


 広大なウルバッハ家の屋敷は背の高い樹々に隠れて、すぐ見えなくなった。

 門を出る様子はないので、まだ屋敷の敷地内を走っているのだろうか。

 いや、この土地を支配している者からすれば、門や塀など不要なのに違いない。



 馬車は東に向かって走っている――。



 幌に当たる陽の光から、メルルは推し量った。

 考えようによっては、これは逃げる可能性が生まれたと言える。


 屋敷の地下では、メルルに逃げるすべはもちろん、助けが来てくれる可能性は皆無だった。


 しかし、馬車が向かっているのは緩衝地帯の近くだ。

 もし、ここへ逃げ込むことができればプライネス領か、カーペンタル村まで逃げることは不可能でないはずだ。

 場合によっては誰かに救い出される可能性だってある。


 しかし――。


 なぜ、ウルバッハの連中は、そんな『獲物』に逃げられる危険がある場所を選んで狩りをするのか?


 おそらく、領内の奥で『人間狩り』を行なうと、領民に目撃される危険が高いのだろう。


 緩衝地帯はもともと領民に近づくことを禁じているので、少なくとも領民に目撃される心配はない。


 ウルバッハ家とのトラブルを避けるために、プライネス領の領民も緩衝地帯に近づくことはないようだ。


――では、カーペンタル村の人びとは?


 いや、カーペンタル村でも同様のはずだ。

 村出身のレトが『うわさ』と表現しながらも、ウルバッハ領のキナ臭さに気づいている様子だった。

 村の者であれば、誰もが知っている『秘密』であり、危険に違いない。

 そうであるなら、村の人びとも緩衝地帯に足を踏み入れたりはしていないのではないか。

 緩衝地帯のほとんどにひとの手が加わった様子が見られなかったのは、それが理由に違いない。


 そうであれば、たとえ緩衝地帯に逃げ込めたとしても、誰とも出会えず、助けてもらえないかもしれない。


 そうだ。チョプスも緩衝地帯に逃げ込むことはできたが、結局、誰からも助けられることはなく、プライネス領に入ったところで力尽きてしまったのだ。


 希望の光が差したかに思えたが、現実は限りなく厳しいようだ。

 メルルは落胆してうつむいてしまった。


 馬車はがらがらと音を響かせながらしばらく走ると、唐突に停まった。


 心構えのできていないメルルは荷台の上に転がってしまった。


 額を少しすりむいてしまったが、後ろ手に縛られた状態では自分で撫でることもできない。


 メルルが痛みと悔しさで目のはしに涙を浮かべていると、荷台の後ろからケドルが顔をのぞかせた。


 「お嬢ちゃん、出番だぜ」


 メルルは続いて顔をのぞかせた用心棒のひとりに担ぎ上げられ、馬車から降ろされた。



 これといって特徴のない場所だった。


 ここが森の中であるということ以外、メルルには場所がわからなかった。


……ここが第一区……。


 第一区という呼び方があることは、ほかにもカイン・ウルバッハ専用の『狩り場』がある、ということなのだろう。

 しかし、それ以外に自分が今いる場所についてわかる情報はない。


 いや、これがレトであったら、もう少し何かを見つけているのではないか。

 すでに、この危機を脱する手を見つけているのではないか。


 メルルはこんな想像をする自分に悔しいと思った。


 すでに自分のことを諦めている気がするからだ。


 「お嬢ちゃん。何考えているんだい?」


 ケドルが顔を寄せて尋ねる。

 口の利けないメルルは思いっきり眉をしかめてやるだけだった。


 その様子を見て、ケドルは愉快そうに笑い声をあげた。


 「おい、犬どもを連れてこい」


 ひとしきり笑ったあと、ケドルは部下に命じた。

 部下はすぐに3頭の犬を連れて戻ってくる。


 「こいつの匂いを覚えさせろ」

 ケドルは慣れた様子で指示を出す。実際にそうなのだろう。


 犬たちはメルルに鼻をこすりつけるようにして匂いを嗅いだ。

 メルルは自分の脚が震えるのを抑えることができない。

 犬たちはいずれも身体が大きく、メルルの胸ほどの高さがあった。

 もし立ち上がったら、自分より大きいだろう。


 充分に匂いを嗅いだのか、犬たちはメルルから離れていく。

 メルルはほっとして、思わずへたり込みそうになった。


 「おいおい、お嬢ちゃん。休憩はなしだぜ。

 お嬢ちゃんはこれから、この森でかけっこをしてもらうんだからな」


 ケドルは身体のよろけたメルルを優しく抱きとめると、メルルをしっかりと立たせた。


 「準備はできましたぜ、ご領主様」

 ケドルは後ろを振り返って報告した。


 メルルも振り返ると、馬に乗ったカイン・ウルバッハの姿を見つけた。

 カインは貴族らしい瀟洒な狩猟服に着替え、大きなボウガンを手にしていた。

 ボウガンにはすでに一本の矢が装てんされている。


 カインは無表情にうなずいた。「獲物を放せ」


 「了解しました、ご領主様」

 ケドルはメルルを先に立たせると、その背中を思いきり叩いた。


 「そら、逃げろ! 全力で走れ! 百数える間に逃げないと、その場で終わりだぜ!」


 メルルは両目を見開いて駆け出した。

 背後から犬の吠える声が聞こえる。

 しかし、まだ抑えられているらしく、犬たちが追ってくる気配はない。


 メルルは目の前に見える細道を、ただひたすら走った。

 すでに失われているかもしれない、『生』の可能性のために――。


53


 レトは空を見上げていた。


 三方を崖に囲まれ、狭い空だが青く清々しい。


……もしかすると、これが最期に見る、美しい光景かもしれない……。


 レトは空を見つめながら思った。


 自分でも馬鹿をやっていると思う。

 『厄獣』と対するために、仲間を逃がし、ひとり残るなどとは。


 あのふたりを裏切る手もある。


 レトもまた離脱魔法イクストリケーションで、この場を脱出すれば、『厄獣』は足を痛めて動きの鈍くなったカップと、それを支えて歩くペイピールのふたりを追う可能性が高い。

 その間にレトは逃げ切ればよいのだ。


 だが、レトはその選択はできないと思った。

 たとえ、自分が助かる方法だとしても、それだけはしたくない。

 もし、そんなことをして生き延びたとき、夢の中のアルキオネは何て言うだろう。いや、二度と会えないかもしれない。


 「つくづく呪いだな……」


 レトはため息をついた。


 そのとき、レトの耳が砂利を踏む小さな音をとらえた。

 レトはゆっくり音のしたほうへ顔を向ける。


 「やぁ、待っていました。

 ずいぶんと慎重ですね。

 いきなり襲いかかろうとせず、ゆっくり近づこうとするなんて」


 レトは近づきつつある相手に声をかけた。

 声をかけられた相手は返事をするように「グルルル」と喉の奥から唸り声をあげる。

 レトに近づいているのは、牙をむき出しにして迫る『厄獣』だった。


 「戦う前に、少し話を聞いてもらえますか。

 実は、僕はあなたを罠にかけるため、ここへおびき寄せようと考えました。

 ここへ誘い出したあと、両側の崖を爆砕魔法ブラスティングという魔法で破壊して、あなたを生き埋めにするという作戦です。

 ですが、ご安心ください。

 その魔法は仕掛けていません。

 ここの秘密を知り、その作戦は断念しました」


 レトは落ち着いた様子で話し続ける。

 『厄獣』は足を止め、レトの話に耳を傾けているようだった。

 しかし、ほんのわずかだが、足をずらすように進めて、レトとの距離を縮めている。

 隙あらば、突然襲いかかってレトを仕留めるつもりだ。


 「なぜ、罠を仕掛けるのを諦めたのか?

 それは、この場所の状況のせいです。

 あなたの足もとをご覧ください。

 大きな岩に紛れるように、白くて丸いものがあるでしょう?

 何だと思います?

 それはですね、『しゃれこうべ』です。

 そこにあるのは人間の頭蓋骨なんですよ……」


 レトは両腕を広げた。


 「この谷には大小さまざまの人骨が転がっています。

 おそらく、ウルバッハ家によって命を奪われた方がたのものでしょう。

 ウルバッハ家は、虐殺した人びとの遺体を、ここに捨てていたのです。

 ここは、遺体捨て場なのです」


 谷は大小無数の岩で一面を覆われていた。

 それらに紛れるように、ところどころ白いものが散らばっている。

 白く見えるもの……それはすべて人間の骨だった。

 『厄獣』の足もとに転がっている白くて丸いものは、レトの言うとおり誰かの頭蓋骨だった。


 「人間の遺体は放置すると危険です。ご存知ですか?

 この世界では人間の遺体を放置すると、屍霊化グールかして、ひとを襲う化け物になってしまうんです。

 そうさせない方法はふたつあります。

 ひとつは荼毘だびに付すこと。これが一般的です。

 遺体を灰にすることで、屍霊化を防ぐのです。

 もうひとつは首を切断すること。

 首を切り離された遺体は屍霊化しません。

 ただ、この方法は死者に対する冒涜的な行為とされています。

 よほどの事情がないかぎり、この方法は採りません」


 レトは自分の足もとに目をやった。

 そこにも何らかの骨らしいものが見える。


 「荼毘に付すことは、死者に対する僕たちの礼儀ですが、手間や経費がかかります。

 ウルバッハの連中は、その手間や経費を省くため、遺体の首を切断して谷底へ投げ捨ててきたのです。

 ここはウルバッハ領の人びとさえ足を踏み入れない場所です。

 本来は誰にも見つからなかったでしょう」


 レトは『厄獣』に視線を戻した。

 『厄獣』は先ほどより半歩近づいたようだ。

 その距離およそ20メルテ。

 通常のギガントベアであれば、すでに獲物めがけて襲いかかっている距離だ。


 「今回、あなたの登場によって、彼らの秘密が暴かれる危険が生じました。

 あなたを討伐するため、この谷にウルバッハ家以外の者が近づく恐れが出たのです。

 ウルバッハ家はケドルを討伐隊に送り込み、支援とは名ばかりの妨害行動をすることにしました。

 どうにか、討伐隊の行動を操作して、谷に近づけさせないというものです。

 ある程度は成果を出しました。

 討伐作戦の実行場所に、この谷は含まれなくなりましたから。


 ただ、これもあなたによって滅茶苦茶になりました。


 討伐隊は壊滅的な被害を受け、ケドル自身も撤退を余儀なくされたからです。

 まぁ、彼らにしてみれば、討伐の成否などどうでも良かったのでしょうが。


 しかし、あなたという異物によって、僕たちが彼らの秘密の場所に逃げ込むなど、想像もしていなかったでしょうね。


 ケガの功名というか、奇妙な運命のように思えます」


 レトは岩から立ち上がった。

 レトの動きを警戒してか、『厄獣』は再び足を止めた。


 「ですが、このせいで僕も予定を変えざるを得ませんでした。

 崖を爆破すると、彼らの罪も埋めてしまうからです。

 それで、僕は、あなたを待つことにしたのです。

 本当に『最後』の手を使うために」


 レトは腰に手を伸ばすと、剣を抜き放った。

 美しい白銀の剣は、陽の光を受けて鋭い光をきらめかせた。


 「この剣は、魔国マイグランで製造された『魔剣』です。

 もとの所有者はガニメデスという、魔候アルタイルの息子でした。

 ガニメデスが討ち取られたあと、僕は魔法も使える剣士として、この剣を譲られました。

 いわゆる戦利品ってやつです。


 『討伐戦争』が終わっても、僕はこの剣とともに戦い続けました。

 銘すら知らない剣ですが、今では僕の一部になりつつあります。

 そういうことを言うのには理由があります。


 実は、この剣は装備しているだけで敏捷度アジリティなど能力値ステイタスを底上げする効果があります。

 それだけでも充分使えるものですが、この剣には一時的にその能力値ステイタスを極限にまで上昇させる能力も備わっていたんです。

 そのことを知ったのは最近ですけどね。

 『最後』の手というのは、これのことです」


 レトは自分の左腕に視線を移す。

 レトの左腕を覆う白銀の鎧も、剣と同様に鋭い光を放っている。


 「もし、僕が『討伐戦争』に出る前の僕のままであったなら、たとえ能力を極限まで増強ブーストさせても、大して効果はなかったかもしれません。

 ですが、現在、僕の左手には、あるものが宿っています。

 人間とは別の存在、魔族の手です」


 レトは左手の鎧をカチャカチャ鳴らした。


 「僕はもともと魔力のない人間で、魔素のないところでは魔法が使えませんでした。

 ですが、魔族の手を宿したことにより、僕はこういう魔素のない土地でも魔法が使えるようになりました。

 これもまた、ケガの功名というものですね」


 レトは剣を左手に持ち換えた。

 剣の切っ先を『厄獣』に向ける。


 「僕の左手に宿る魔族は、もうこの世には存在しないデーモン族です。

 勇者ラファールによって討伐されるまで、この世界の支配者でもありました。

 身体能力はどの魔族よりも強いと言われ、魔力も最強だったとのことです。

 まぁ、僕の左手には、それを思わせるほどの力はありませんが。

 ですが、魔剣の能力により、この魔族の力を解放させたらどうなるでしょう?」


 レトがそう言い終えると、レトの全身に変化が起きた。

 全身が赤く燃え上がるように光り出したのだ。


 さらに数メルテ近づいていた『厄獣』は驚いたように数歩後ずさり、唸り声をあげた。


 レトの髪は天に向かって逆立ち、褐色に近い肌色は赤黒いものへと変わっていく。

 両目の色は白と黒が反転し、白目部分が黒く染まり、黒目部分は金色に近い白へと変わった。

 額から真横に亀裂が生じて、そこから新たな目がのぞきだした。


 その姿は、もう書籍や絵でしか見ることのできないデーモン族の姿そっくりであった。


 「さて……」


 レトはざらざらした声で言った。


 「人間の愚かさの象徴と言うべきこの場所で、人間の姿を捨てた僕と人間を殺戮するあなたとで決戦といきましょうか。


 これが本当に、最後の戦いです!」


 『厄獣』は大きな咆哮をあげると、レトめがけて突進をはじめた。


54


 『厄獣』はレトのすぐそばまで一気に距離を詰めると、そのまま前肢を振り抜いた。


 レトはその前肢を右手で受け止める。


 『厄獣』の動きが一瞬止まり、レトは左手の剣を突き出した。レトの剣は『厄獣』の左肩を刺し貫いた。


 「ウォオオオオオ!」


 『厄獣』は驚いたように飛びずさる。一瞬で10メルテ近い距離を跳んだ。


 『厄獣』は、姿勢を低くして唸りながら様子をうかがった。

 すぐ攻撃に転じないのは、レトを警戒しているからだろう。

 これまで『厄獣』が襲った人間は一撃で吹っ飛んでいた。

 『厄獣』の一撃を受け止めた人間など皆無だったのだ。


 今度はレトが動き出した。

 一気に間合いを詰め、さきほどと同じ突きを食らわせたのだ。


 しかし、『厄獣』はさらに飛びずさり間合いを取った。

 レトの攻撃を覚えたのだ。


 強烈な一撃をかわされたが、レトもそれは想定済みだった。

 『厄獣』が間合いを取って跳んだ瞬間、レトもまた跳躍して切っ先を『厄獣』に向けたのだ。


 「火炎剛球インフェルノ!」


 剣から炎が噴き出し、『厄獣』の肩を焼いた。先ほど剣を突き立てられた箇所だ。


 『厄獣』は大きく吠えると地面を回り込むように走った。

 その吠え声は初めて聞く苦痛の声だった。


 「まだだ!」

 レトは叫び声とともに地面を蹴った。


 高く剣を振り上げて『厄獣』に迫る。


 「ウォオオオオオオ!」


 『厄獣』は大きく吠えると、足もとの岩を持ち上げるやそのまま放り上げた。


 「何っ!」

 レトから驚きの声があがる。


 岩はレトの身体に激突し、レトの顔が苦痛で歪んだ。


 レトの身体は空中で態勢を崩し、そのまま岩だらけの地面に激突した。


 『厄獣』はすぐに襲いかかろうとせず、続けてもうひとつの岩を投げつける。

 熊の手では岩をつかむことはできないが、両前肢で器用にはさんで持ち上げたのだ。


 岩は横たわるレトの腹に落ちた。


 「ぐはぁ!」

 レトは岩の下で苦痛の声をあげる。


 『厄獣』はそのままレトに向かって突進した。

 大きく口を開けて、身動きできないレトの喉を狙う。


 「ちぃいい!」


 レトは剣の切っ先を『厄獣』に向けた。

 すぐそばまで迫った『厄獣』はすばやく後ろへ飛びずさる。


 「岩を武器にすることを覚えましたか……。厄介ですね……」


 レトは身体に載った岩をどかしながら立ち上がった。

 全身がバラバラになったような痛みがレトの身体を襲う。


……どこか骨をやったかな?

 いや、今ので内臓のどこかが潰れたかもしれない。


 苦痛に顔を歪めたまま、レトは自分の身体の状況を探った。


 これまで、自身を『魔族化』して戦ったことはない。

 それぞれの能力値ステイタスが極限まで高められることはわかっていても、魔族化した身体の耐久値まではわからない。


 痛みは強烈だが、実際にどれほどのダメージを受けたのか、レトにはまったく見当もつかなかった。


……だが、身体は動く。

 だったら、僕のすることは変わらない!


 レトは『厄獣』めがけて突進すると、剣の切っ先を『厄獣』の眼前に突き出した。


 「火炎剛球インフェルノ!」


 『厄獣』は炎を避けようと頭を伏せた。すでにこの攻撃は見切られている。


 しかし、レトもまた『厄獣』の動きを予測していた。


 レトは『厄獣』の頭上を跳ぶと、そのまま剣の切っ先を脳天めがけて振り下ろした。


 ガキン! と剣が岩とぶつかる音が響く。


 『厄獣』はかろうじて頭をずらして剣をよけた。しかし、剣は『厄獣』の頬を切り裂き、そこから血が噴き出した。


 「外した!」レトは叫んだ。


 瞬間、レトの身体は空中を高く飛び、崖に激突した。

 『厄獣』の前肢が、今度はレトの身体を正確にとらえて弾き飛ばしたのだ。


 レトの身体はずり落ちるように崖下に転がり落ちる。


 『厄獣』はレトの状態を確かめることもなく突進する。この瞬間こそがレトを仕留める機会だとわかっているのだ。


 レトは迫る『厄獣』の姿を目のはしにとらえていた。

……そこだ!


 「矢よ空へ!」


 レトは叫び声をあげた。


 すると、地面の岩陰から、何本もの矢が空中に飛び出した。

 そのうちの一本が『厄獣』の腹に突き刺さる。


 「グゥ、ウ、ウォオオオ」


 『厄獣』は動きを止め、地面にくずおれた。


 カップの毒矢が刺さったのだ。


 レトは、はぁはぁと息を吐きながら身体を起こした。

 「矢に、術式を仕込んで、地面の岩に埋もれさせました。

 合図に合わせて宙を飛ぶ術式です。

 自在に操ることはできないので、あなたが矢の真上を通る瞬間にしか使えませんでした。

 念のための仕掛けですが、どうにか使えました……。

 卑怯だと思いますか? こんなだまし討ちみたいな策など。

 でも、こうでもしなければあなたには勝てないと思いましたよ……」


 レトは崖に身体を預けるようにもたれかかる。

 戦闘はわずかな時間でしかなかったが、今や全身を覆っているのは苦痛だけではない。立ち上がるのもつらい疲労が、レトの全身を覆っていた。


 「む、無茶は、するものでは、ない、ですね……。

 か、身体が、う、動かなくなってきました……」


 さらに身体がガクンと揺れる感覚とともに、レトの全身から力が抜けていった。

 肌の色や目の色が元通りになり、額からのぞいていた『第3の目』も額から消えていた。


 「こ、効果が、切れて、しまい、ましたか……」


 レトは倒れないように片手を崖について身体を支えながらつぶやいた。


……持てる魔力すべてを引き換えに増強ブーストする技だけど、時間切れ……、いや、魔力切れか……。

 まさか、これぐらいしか持たないなんて……。


 今日、レトは魔力を大きく消費する離脱魔法イクストリケーションを3回も使用した。

 魔力の残量がこれまで以上に少なかったのだ。


……もう、まともに戦える状態じゃないな……。

 でも、最後に相手を出し抜いてやった。これで、『厄獣』が動かなくなれば……。


 しかし、『厄獣』は死んでいなかった。

 よろよろとしながらも四肢を踏ん張って起き上がったのだ。


 「毒が効いていない……?」


 矢は『厄獣』の柔らかい腹に突き刺さっている。

 矢に塗られた毒は、間違いなく体内に流れ込んだはずだ。

 それでも起き上がれるということは……。


 「あなたは毒の耐性を獲得していたのですか……」

 レトは悟ったようにつぶやいた。


 『厄獣』はレトを睨みつけていた。

 魔獣の感情などわかるはずもないが、レトは『厄獣』の目にまぎれもない殺意を感じ取った。


 「まだ、やる気ですか。けっこう。僕もそのつもりでした……」


 レトは崖にもたれたまま剣をかまえた。

 細身で軽いはずだが、切っ先がすぐ地面に向いてしまうほど剣を重く感じる。


……だめだ。もう、剣をかまえることもつらい。

 おそらく、あと一回、剣を振ることができれば上出来だ。

 そのあとの僕にできることは何もない。

 ただ食い殺されるだけだろう。


 『厄獣』が動き出した。

 一歩、また一歩、レトに近づいてくる。

 レトがまた何かをすると警戒してるのか、ゆっくりとした足どりだ。


……ありがたい。

 向こうから近づいてくれるのなら、戦いようがある。

 本当に最後、混じりけなしの最後の攻撃を狙う……。


 『厄獣』はレトとの距離をさらに詰めた。

 その距離、10メルテ。


……『厄獣』は前肢をケガしている。

 僕へのとどめは、あの大きな牙で直接くるだろう。

 つまり、急所の首も、僕の手に届く距離まで迫るということだ。


……僕はあいつの首にこの剣を突き立てる。

 あいつの牙が僕のどこを噛み千切ろうがかまわない。

 それと引き換えにあいつを仕留める!


 レトは腹をくくった。


……さぁ、来い、『厄獣』!

 さすがのお前も、こちらが相打ち狙いだと想像できないだろう。

 動物は何を差し置いても自分の生存を考える。

 自分の死と引き換えに勝利を得ようなど、そんな狂った考えをするのは人間だけだ。

 さすがのお前も、僕のそんな考えは読めまい。

 人間というのは、それだけ恐ろしい生き物だってことさ。

 いや、だからこそ、お前は人間を殺戮するのか?

 お前から見れば、人間は存在自体が許されないものなのか?


 レトはなおもゆっくりと迫る『厄獣』を見つめながら、心の内で首を振った。


……いや、それは考え過ぎだろう。

 それに、どうでもいいか、もう。

 僕は、あいつが間合いに入った瞬間に最後の一撃を放つ。

 もし、それで生き残れればありがたいが、ほぼ間違いなく、あいつの牙は僕に届く。

 僕は死ぬだろうが、あいつも道連れにするんだ……。


 『厄獣』は慎重にを進めている。レトとの距離はすでに5メルテを切っていた。

 もし、『厄獣』が思い切り地面を蹴れば、一瞬でその牙がレトの身体を噛み砕くだろう。


……さぁ、来い。さぁ、来い。さぁ、来い。

 早く、来い!


 レトは剣を握る手に力を込めた。

 もう間もなく最後の瞬間が来る。


 『厄獣』の鼻先がレトとわずか1メルテの距離にまで迫った。


……来るか!


 しかし、そこで『厄獣』は足を止めた。

 じっとレトの顔を見つめ続けている。

 さきほど感じた禍々しいほどの殺意も今は感じられない。


 「どう、した、『厄獣』……。

 僕は、まだ、生きて、いるぞ……」


 『厄獣』に挑発が効くのかわからないが、レトは声を振り絞って挑戦的な言葉を吐いた。


 すると、『厄獣』はくるりと背を向けると、ゆっくりとした足どりでその場を去り始めた。

 ゆっくりではあるが力強い歩みだ。


 レトは荒い息を吐きながら崖から身体を離した。


 「ま、待て、『厄獣』。

 どうした?

 僕は、ここにいるぞ。

 お前の敵だ。お前が憎む人間だ。

 こっちへ来い。僕と戦え……。

 おい、待てよ……」


 『厄獣』はレトの言葉が聞こえないかのように遠ざかっていく。

 まるで、レトと刺し違えるのはごめんだと言うように。


 「ま、待ってください、『厄獣』……。

 僕の、最後の策を、見抜いたって、言うんですか?

 それじゃあ、それじゃあ、まるで……」


 レトは息を継いだ。「僕の完敗じゃないですか……」


 それに応えるように、『厄獣』は大きく咆哮した。

 まるで、勝利の雄叫おたけびのように。

 その咆哮は谷全体に響き渡り、レトの全身をびりびり震わせたほどだった。


 『厄獣』はそのまま悠々と歩き続け、谷の向こうへ姿を消した。


 ひとり残されたレトは、呆けた表情でその場にくずおれて膝をついた……。


55


 メルルは脇目もふらずに走り続けていた。


 何か深い考えがあるわけではない。


 ただ、生き延びるためには走り続けるよりほかはないとわかっていただけだ。


 メルルはある程度、森の小道を走り続けたあと、唐突に脇へ向いて茂みに飛び込んだ。


 茂みを力任せに踏み分けながら森の奥へと進んでいく。


 どうすれば助かるのか。いや、逃げ切ることができるのか。


 明確ではないものの、メルルにはぼんやりと考えていることがあった。


……チョプスさんは私と同じように追手に追われながらもどうにかまいてみせた。

 同じ状況なのかはわからないけど、まく方法はあるんだ!


 メルルは茂みがガサガサ音を立てるのもかまわず先を急ぐ。

 どこかへ身を隠すより、今はとにかく距離を稼ぐのだ。


……私は猟犬に匂いを覚えられている。

 どこかに身を隠してもすぐに見つけられてしまう。

 だから、犬の足でも追いつけないほど遠くへ逃げるんだ。

 隠れることはそれから考えればいい!


 メルルはふいにチョプスの遺体の状況を、正確には衣服の状況を思い出した。

 ヒラリーのそばで検死のメモを取っていたときに見た光景だ。


……たしか、チョプスさんの遺体はひどく傷んでいたけど、衣服は血にまみれた程度であまり破れていなかった。


 そうだ。あれを見たとき、少し不思議に思っていたんだ。どうして、チョプスさんの服は食い破られていなかったんだろうって。


 チョプスさんが食べられていたのは頭や首、腕に脚。胴体部分は食べられていなかった。

 いわゆるむき出しになっていたところがほとんどだ。

 普通、獣は獲物の内臓を食べようとする。肉食動物は内臓が好物だから。

 でも、チョプスさんの場合は違っていた。

 私は、そのことをどことなく疑問に思っていた……。


 チョプスさんの服……。

 チョプスさんの服には何か植物の汁が染み込んでいた。

 普通の緑と違う、もっとどす黒い色の……。

 そうだ。そんな植物の話を、私はどこかで聞いていた……。


 メルルはそこで思い出した。


……まさか!

 まさか、チョプスさんは『あれ』を使って……。


 メルルは急停止すると、森の中を見渡した。


 森には、背の高い樹々がそびえたっているが、背の低い植物によっていくつもの茂みもつくられている。


……ここに、このあたりにはないの? あの植物は!


 ひとつの茂みを探ったあと、メルルは次の茂みに飛び込む。両腕が使えないので、頭ごと草むらに突っ込むしかない。


……ここにもない。

 たしかに私はそれを見たことがない。

 でも、その形状のことは聞いているからわかる!


 メルルはある一点に吸い寄せられた。

 探し求めていたものが見つかったのだ。


……あった!


 メルルはその草むらへ駆け寄る。


 星形に広がる可憐な葉の植物。

 毒草として有名なトリカブトに似た形状だが、種類はまったく別物の植物……。


……あった。『クマギライ』!


 拠点とした小屋の中で、ゴーゴリーが教えてくれた植物の名前。

 たしか、臭いが独特で熊除けに利用される、という話だった。

 しかし、それであれば、嗅覚の鋭い猟犬の鼻にも効くのではないか。


 メルルは足でその植物を踏み潰した。

 もし、この植物がトリカブトであれば、その汁は黒い色にはならない。

 チョプスが猟犬からの追跡をかわすのに『クマギライ』を利用したのであれば、彼の服が妙にどす黒く変色していた理由もわかる。

 今、踏み潰した草の汁が黒い色であったら、これは間違いなく『クマギライ』だ。


 メルルは踏み潰した草の色を確かめた。

 メルルの靴は黒く変色していた。

 間違いない。メルルは確信した。これは『クマギライ』だ。


 メルルは勢いよく茂みを踏み荒らすと、そこに倒れこむようにして身を投げた。

 千切れた草をまき散らしながら、全身を踏み荒らした茂みにこすりつける。


 メルルは地面を転がりながら独特の芳香が鼻を突くのを感じていた。


……この匂いか……。

 この匂いで熊さんを撃退するのですね……。


 メルルはこの匂いに覚えがあった。


……『厄獣』に襲われたとき、バット・ダガーさんが投げつけた臭い袋と同じ匂いだ!

 そうか……。

 あれは『クマギライ』の匂いだったんだ……。


 メルルは身体を起こすと、今度は慎重にあたりをうかがいながら歩き始めた。


 これは一種の賭けだ。しかし、まるで大博打というわけでもない。

 いくらか裏付けのある、充分に勝算のある賭けだ。


 この賭けを自分の下手な行動で台無しにしてはならない。

 メルルは猟犬だけではなく、用心棒たちにも見つからないように樹々に隠れながら進んだ。


 上を見上げれば、樹々の間からわずかに太陽が見える。時刻は昼をだいぶ回っているから、自分が歩いているのはおおよそ東のはずだ。


 このまま東へ進めば、緩衝地帯、そして、プライネス領だ。


 メルルは足音にも注意を払って森の奥へ進んでいった。


 * * * * * * * * * *


 「小娘を見失っただと?」


 カイン・ウルバッハは報告に現れた用心棒を見下ろしながらつぶやいた。

 用心棒は犬をともない、恐縮した様子だ。

 犬は犬でうなだれた様子で、そちらも恐縮しているように見える。


 「犬どもの鼻がやられたんですよ」


 ケドルが続けて報告した。


 「あのお嬢ちゃん、薬草の知識があると言っていました。

 どうやら、犬どもの鼻を利かなくさせる植物を見つけて、それを利用したようなんです」


 「どうするつもりだ?

 このままでは小娘に逃げられてしまうぞ!」


 カインは不機嫌な口調で怒鳴った。


 用心棒たちは首をすくめながら顔を見合わせる。


 この事態を招いたのは、カイン自身の悪趣味だ。

 メルルが地下牢にいるときに殺しておけば、そもそもこんな事態は起きようがなかったのだ。

 それを差し置いて自分たちが叱責を受けるいわれはないはずだ。

 もっとも、それを口する者などひとりもいないのだが。


 「意外と簡単に見つけられるかもしれませんよ」


 ケドルは落ち着いた様子で答える。カインはケドルに顔を向けた。

 「どういうことだ? 詳しく説明しろ」


 「あのお嬢ちゃんは思っていたより頭がいい。

 機転も利くようです。

 ですが、考え方が素直だ。


 『猟犬に追われているから匂いに細工した』。


 『犬を封じたから身を隠した』。


 いずれも常識的です。

 ってことは、次に考えるのはどこへ逃げればいいのか、でしょう?


 今日は天気がいいから太陽の位置でおおよその方角はつかめる。

 なら、あの子が向かうのは、プライネス領のある東でしょうね。

 ちょうど、チョプスの野郎が目指していたように、です」


 カインはケドルの考えにうなずいた。


 「お前の言うとおりだろう。

 よし、お前たちは街道を使って先回りし、プライネス領の前で網を張れ。

 私は、猟犬どもとケドル、ほか数名で小娘を追い詰める。

 もし、お前たちが先に見つけたら取り押さえるのだ。

 とどめは私がさす。いいな?」


 カインは用心棒たちに指示を出すと、ケドルたちをともなって森へ足を踏み入れた。

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