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「こんにちは」
仕事柄身についた営業スマイルを浮かべながら千果が挨拶すると、
「こんにちは」
ご婦人は品の良い声で挨拶を返してくれた。自前のお弁当を持参しているにもかかわらず、東京の人だなと千果は思った。都会的な印象を受けたのだ。背が高く痩せ型で、背筋がピンとしている。綺麗にお化粧をしていた。
千果が持参したチョコを勧めると、卵焼きを一つお裾分けしてくれた。なんとなく隣に座ってお喋りをする流れになる。聞いてみるとやはり東京の人で、ご主人の地元であるこの地に、訳あってしばらく滞在しているとのことだった。この山はご主人と昔よく登った山で、足の悪いご主人は連れてこられなかったが、懐かしくてどうしても登りたくなったのだそうだ。
「実はここへはね、家を探しに来たの」
本山と名乗ったその女性は、おにぎりを頬張りながら意外なことを言った。
「お引っ越しを考えてらっしゃるんですか?」
「そうなの。今は豊島区のマンションに住んでいるんだけど、エレベーターがなくて、主人がほとんど外出できていないのよ」
聞けば五階建てのマンションの四階にお住まいなのだという。健脚の本山にとっても、今後年を重ねていけば、何かと不自由になるだろう。
「娘も嫁いだので広い家でなくても良いのだけど、東京だと予算が合わなくてね。それで、主人の実家のこちらに引っ越そうかと話していたのよ。でもなかなか良い物件がなくて」
「では、うちの店舗にもお越しになったのかもしれませんね。実は私、不動産会社で働いているんです」
脳裏に、昨日代金納付をした競売物件が浮かんだ。内覧はしていないが、条件的にはぴったりだ。
「近々ご期待に添える物件が売りに出ると思います。バリアフリーの平屋で、お安くご案内できると思いますよ。いつまでご滞在されますか? 連絡先を教えていただければ、ご連絡差し上げます」
千果は逸る気持ちでスマートフォンを取り出した。営業根性に火がついたわけではない。彼女にとってこんな運命的な偶然は、二度と訪れないのではないかと感じたからだ。このタイミングは、逃せない。
お弁当を片付けていた本山は、少し困った顔で笑った。それから千果のメールアドレスを登録し、「ありがとう」と言って慌てた様子でお弁当を片付けた。そしてそそくさと、その場を立ち去っていった。
しまった、と千果は思った。迷惑だったかもしれない。大体初対面の人間に営業をかけるなんて、非常識だ。本山は不審に思って、逃げていったのかもしれない。千果は急激に恥ずかしくなった。後悔の波が押し寄せる。恥をかいたと感じた。
そして本山と話していた間どこかに潜んでいたネガティブな思考が、電光石火で千果の頭に戻ってきた。
千果は万が一にも本山に再会しないように、たっぷり五分は時間を潰してから下り口に向かった。
実際、「そそくさとその場を立ち去った。」というのは千果の印象で、お弁当を食べ終えていた本山が山を下りるタイミングとしては、そんなに不自然ではなかったのかもしれない。しかし戻ってきたネガティブな感情は、そんな楽観を千果に許してくれなかった。
ほらほらやっぱり、お前はだめな人間なんだ。
ゴツン。
おでこが何かにぶつかった。目を上げると、木の枝が張り出している。こんなところに木の枝なんてあっただろうか。
――わしじゃよ、わし。神様じゃ!
耳元でおじさんの声がした。
あまりに明瞭に聞こえたので、千果は一度振り返り、それからあたりを見渡した。誰もいない。




