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呼吸も鼓動も整ったので、千果は再び歩き出した。岩場になると、登りやすい岩を選びながら歩を進めるので、しばらく無心になる。しかし十分も歩くと慣れてきて、再びマイナス思考が頭を支配し始めた。

作家になりたいが、出版社に持ち込みもできない千果がとった手段は、文学賞への応募だった。まだ電子出版が認知されていない時代である。世間知らずの若かりし日の千果は、大きな賞でも受賞すれば、職業作家としてやっていけるだろうと短絡的に考えたのだ。大学在学中に応募したとある文学賞で、最終選考まで残ったのが良かったのか悪かったのか。千果の描いた未来予想図に俄然リアリティが増してしまった。以来毎年その文学賞に応募し続け、現在に至っている。結果は、一次予選止まりであったり、二次予選を通過したり。今年ももうすぐ締め切りがやってくる。

千果にとっては二十一回目の挑戦だった。正直、当初のような情熱はもうない。いつからかは覚えていないが、ここ数回は惰性で義務のように応募していた。ネタも尽きて、こうして神頼みをするところまで追い詰められている。

鎖場まで来た。さび付いたその鎖を手にする前に、千果はペットボトルを開け、喉を潤した。昨日の支店長の言葉が浮かんだ。

――三浦さん、今日は営業は良いから、これ裁判所に持って行って。そのまま、直帰してもらって構わないから。

期待の新人土橋君とパソコン前で議論しながら、支店長は千果の方を見もせずに封筒を差し出した。何の期待も籠もっていない声。定年三年前にして事実上リストラされた富田林に対するトーンと同じ口調だった。ぼんやりと傷ついた。もともと仕事に情熱を傾けていない千果には、正式に傷つく資格はないのだが。

千果のいる支店で、裁判所の不動産競売物件を扱ってはどうかと提案したのは土橋君だ。主に抵当権のついた不動産が差し押さえられた現状のまま売りに出るのでリスクもあるが、それでも市場価格よりはかなりの低額で買入れが可能なので、うまく扱えばかなりの利ざやが出る。

結果的にこれが当たって、千果のいる支店では積極的に不動産競売の入札に参加することになった。昨日の千果のお使いも、先月落札した物件の代金納付の手続きだった。千果もインターネットで当該物件の情報を見たが、なかなか良い物件だった。バリアフリーの平屋で、綺麗に掃除されていたし、権利関係もシンプルだった。最低売却価格で落札できたので、うまくリフォームすれば、落札額の二倍以上の金額で取引できるかもしれない。

裁判所での手続きは、ものの五分で終わった。結果としていつもより一時間近く早く帰宅できたのだが、千果はもやもやした気持ちを抱えていた。

もともと腰掛けの仕事だった。作家を目指していない人でも知っているような有名な文学賞を受賞して、二、三年で華々しくやめる予定だった。今にして思えば、幼稚な発想だ。毎日二時間は創作に費やすつもりだったので、残業のない今の仕事を選んだ。先輩の隣でニコニコしていれば良い時期は過ぎ、後輩ができ、優しいけど頼りない先輩で許される時期も過ぎ、出世コースには望んで乗らないことを選び、自分の立ち位置を見失った。いっそ怖いけれど仕事のできるお局さんキャラでいれば多少の存在価値はあったのかもしれないが、千果には性格的に無理だった。第一威張れるほど仕事ができない。

背中を丸めて、逃げるように退職していった富田林の姿が浮かんだ。それでも彼には優しい奥様と、しっかり者の息子さんがいる。まとまった額の退職金を手土産にすれば、それなりに生きている価値は見いだせるだろう。

自分は社会の役に立っていないという罪悪感と無価値感。

ときどき、孤独を感じるより強く、千果はその気持ちに押しつぶされそうになった。しかも昇進していないのも、結婚していないのも、すべて自分が選んだ選択の結果だ。言い訳はできない。



仕事で活躍している同僚は仕事を頑張っているし、妻として母として輝いている友人は、家事や育児を頑張っている。千果はそういったもの全てから逃げていた。

会社の金を横領したり、子供を虐待したり、妻子ある男性を寝取ったり、SNSで人を中傷したり、積極的に悪いことをしたわけではない。だけど千果は、消極的なほうの悪い人間なのだ。何もせずに、こんなことをうじうじ悩んでいること自体に、世間様は怒りを覚えるだろう。

卑屈な思いが頂点に達したころ、千果の目の前に山頂の景色が広がった。おにぎり山のてっぺんは、さほど広くないが平らにならされていて、小さな祠が三つと山の名前が刻まれた石柱が建っている。どちらも比較的新しく、最近整備されたもののようだった。右手前と左奥に石でできたベンチがあり、手前の方には同じく石でできたテーブルがあった。いつもは近所のリタイア組がここで井戸端会議をしているのだが、今日は曇り空のせいか、先客は一人しかいなかった。先ほど前を歩いていたご婦人だ。石のベンチに腰掛け、テーブルの上にお弁当を広げている。



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