第五話 欠陥品の器
恐らく本日分最後です。
『レイ。一つだけ、方法がある』
消え入りそうなアイシャの声が、俺の中に響いた。
『私を消えさせない方法。だが、お前に大きな危険が伴う』
「危険?」
『契約だ。私と魂の契約を交わす。そうすれば私は消えず、お前の器の中で生き永らえることができる。私の全てを、お前に注ぐことになる』
水晶の光がまた、ふつりと弱まる。時間がないのだ。
『だが、私の力は途方もない。生半可な器では、注がれた瞬間に焼き尽くされる。魂ごと燃え尽きる。普通の人間なら、間違いなく死ぬ』
「普通の人間、なら?」
『お前は違う。お前の器は深い。私の全てを注いで、なおあふれぬほどに。だが、これはあくまで私の見立てにすぎん。もし私が間違っていれば、お前は死ぬ』
俺は黙り込んだ。
ほら、きた。諦めた自分が、心の奥で静かに嗤う。
結局これも「お前は特別だ」の焼き直しじゃないか。
お前の器は深い? 何度その言葉に騙された。
信じて契約して、もし違ったら、お前は焼け死ぬんだぞ。
三年間、ただの一度も報われなかったお前が、なぜ今回だけ特別だと思える?
その通りだ。
俺は空っぽだ。深い器なんて、あるわけがない。
契約すれば、きっと俺は焼き尽くされて死ぬ。
三年間のあらゆる期待外れが、そう告げている。今、手を引けば、命だけは助かる。
でも。
俺は、水晶の中の消えかけた少女を見た。
輪郭が、もう半分、光に溶けている。
あと少しで、この少女は消える。永遠に。五百年の孤独の果てに、誰にも知られず、たった一人で。
そして契約すれば、俺は死ぬかもしれない。
俺は自嘲した。
空っぽの落第として、誰にも必要とされず、嗤われ蔑まれながら生きていく人生と、得体の知れないこの少女を助けるために賭けて、死ぬかもしれない人生と。
どっちがマシだ?
答えは、考えるまでもなかった。
「アイシャ」
俺は水晶に両手を押し当てた。
「契約、する」
『レイ……!? 待て、よく考えろ。お前は死ぬかも――』
「考えた」
俺は笑った。三年ぶりに、心から。
頬の筋肉が動き方を忘れかけていて、ぎこちなかったけれど。
「どうせ空っぽの人生だ。あんたを助けるために使えるなら、上等だよ。それに」
俺は少女の、閉じかけた金色の瞳を見つめた。
「あんたを一人で消えさせるのは、寝覚めが悪い。それだけだ」
沈黙。そして。
『……ありがとう』
アイシャの声が震えた。
『では、手を水晶に。魂を開け。お前のいちばん深いところを』
俺は水晶に押し当てた手に意識を集中した。
魂を開くなんて、どうすればいいのかわからない。
だが、不思議と体が知っていた。胸の奥のいちばん深いところ、三年間空っぽだと信じてきたその虚ろの底を、俺はそっと開いた。
次の瞬間、水晶の柱が砕け散った。
閃光。そして光の奔流があふれ出す。
膝を抱えていた少女の体が、その光の中でふわりと解けて、俺の中へと流れ込んできた。
熱い。いや、熱いなんて言葉じゃ足りない。
灼熱の奔流。
星の海。生命の理そのもの。
五百年分の途方もない何かが、決壊した堤防のように俺の体へと注ぎ込まれていく。
「ぐ……ッ、あ……あああ……!」
膝が崩れる。
あまりの情報量に、意識が焼き切れそうだった。
骨が、血が、魂が、内側から灼かれていく。
ああ、やっぱりだ。薄れゆく意識の中で、俺は思った。
俺は空っぽだった。
こんな力、受け止められるわけがない。
ここで焼き尽くされて死ぬんだ。
アイシャの見立ては間違っていた。
俺は特別なんかじゃなかった。最後まで――
だが、その時。
俺の中の虚ろの底が。三年間、空っぽだと信じ込まされてきた、その底なしの虚無が。
静かに、口を開けた。
そして、注がれる全てを飲み込んでいく。
第一の波が来た。
視界が真っ白に灼けた。
全身の血が沸騰するかと思った。
ここで死ぬと覚悟した。だが、俺の中の虚無がそれを静かに飲み干した。まだ底は見えない。
第二の波。
さっきの比ではなかった。
骨が軋み、意識が白く飛びかける。
今度こそ駄目だと思った。
だが虚無は、さらに深く口を開けてそれを受け止めた。あふれない。まだ余裕がある。
そして、第三の波。
五百年分の力のすべてが、堰を切って押し寄せる。
星が砕けるような、世界が生まれ変わるような、想像を絶する奔流。
もう駄目だ。今度こそ本当に、俺は跡形もなく焼き尽くされる。
俺は目を閉じ、その瞬間を待った。
だが、俺の器はびくともしなかった。
どれほど流れ込んでもあふれない。どれほど注がれても底が見えない。
灼熱の奔流が、俺の虚ろの中へ、際限なく静かに吸い込まれていく。
焼き尽くされるはずだった。
なのに俺の器は、その全てを受け止めきった。余裕すら、あった。
やがて、光が収まった。
俺は荒い息をつきながら、ゆっくりと立ち上がった。
体が軽い。いや、軽いなんてものじゃない。世界が、まるで違って見えた。
砕けた水晶の破片。
壁の石の一つ一つに宿る微かな魔力の残滓。
松明の炎が燃えるその理。
虚空を静かに流れる魔力の流れ。
空気の微かな揺らぎ。その全てが、手に取るように視える。
これが力なのか。三年間どれほど焦がれても、指の間から砂のようにこぼれ落ちていった、あの力が。今、俺の中に静かに、確かに満ちている。
ふと、俺は自分の手を見た。
さっき水晶を殴り、こじ開けようとして、皮が破れ爪が剥がれたはずの手。血だらけのはずの指先。
それが、みるみるうちに塞がっていく。
破れた皮膚が繋がり、剥がれた爪が元に戻る。
滲んでいた血がすうっと引いていく。まるで、時が巻き戻るかのように。
痛みが消えていた。
俺は呆然と、その手のひらを開いたり閉じたりした。
傷ひとつない。三年間、何をしても動かなかったこの体に、今は確かに何かが通っている。
嘘みたいだった。
だが、これは紛れもない現実だった。
『……驚いた』
声が聞こえた。
水晶の中で眠っていた、あの少女の声だった。
「……アイシャ?」
『そうだ』
姿は見えない。
振り返っても、そこには誰もいなかった。
だが、不思議とわかる。
あの少女は消えていない。
今も確かに、俺の中にいる。
『私の全てを注いで、なおあふれぬどころか余りある。お前の器は、私が見立てたよりも遥かに深い』
アイシャは俺を見上げて、静かに微笑んだ。
「レイ。お前は空っぽなどではなかった。この世界の誰一人として受け止められなかった私を、お前だけが受け止めた」
俺は自分の手のひらを見つめた。
三年間、何をどうやっても不発だった、嗤われ続けた「落第」の証。
空っぽだと信じ込まされてきたこの体。
空っぽで、よかった。
ふいに、そんな言葉が胸に浮かんだ。
もし俺が普通の器だったら。
他の連中みたいにそこそこの魔力を持っていたら。
俺はアイシャを受け止められなかった。彼女は消えていた。誰にも知られぬまま。
俺が空っぽだったから。
俺の器が、誰にも注げないほど深かったから。
だから俺は、彼女を受け止められた。
欠落は、欠陥じゃなかった。
それは、この世界の誰も抱えきれなかったものを抱きしめるための、たった一つの資格だったんだ。
「アイシャ。聞かせてくれ。あんたがなんで五百年封じられていたのか。俺がなんでこんな器なのか。この世界の本当のことを、全部」
アイシャはしばし俺を見つめた。
そして、遠い虚空の彼方――俺たちが戻るべき、あの世界のある方角を、静かに見上げた。
「長い話になる」
ここまで読んでいただきありがとうございます。
本日の分はここまでになりますが、すでに完成している話もありますので、反響が大きければ追加投稿いたします。ぜひご感想やブックマークをお願いします。




