第四話 目覚めぬ声
俺はその場に凍りついた。
水晶の柱に走ったひびが少しずつ広がっていく。
中の少女の瞼が震えながら開こうとしている。
今まさに目覚めようとしている。
心臓が破裂しそうなほど鳴っていた。
俺は水晶に駆け寄った。
「おい、あんた……! 聞こえるか。目を覚ましてくれ……!」
水晶越しに、俺は必死に呼びかけた。
少女の瞼がわずかに開く。
その奥に、金色の瞳が微かに覗いた。
夜明けの太陽のような、深く澄んだ金。その瞳が、俺を映した。
「あ……」
少女の唇が動いた。声を発しようとしている。
何かを俺に告げようとしている。
「ようやく……見つ……」
だが、そこまでだった。
金色の瞳から光がすうっと薄れていく。
開きかけた瞼が力なくまた閉じていく。
水晶に走ったひびの広がりが、ぴたりと止まった。
「おい……! 待ってくれ、待てって……!」
俺は水晶を両手で叩いた。少女は答えない。
再び深い眠りへと沈んでいく。
膝を抱えた、あの孤独な姿のまま。
「なんでだよ……! もう少しじゃないか……!」
俺は水晶を拳で殴った。何度も、何度も。
手の皮が破れ、血が滲んでも構わず叩き続けた。
ひびの入った割れ目に指をこじ入れ、無理やりこじ開けようとした。
爪が剥がれ、激痛が走る。
「開け……! 頼むから……!」
だが、水晶はびくともしなかった。
あれほど簡単に走ったひびが、今は鋼のように固く、俺の必死の足掻きを冷たく拒んでいる。
やがて、俺の手が力なく滑り落ちた。血だらけの指先が、水晶の表面に赤い筋を引く。
俺は水晶の柱にすがりついた。
まただ。俺があと一歩手を伸ばせば届くというところで、いつも世界はそれを取り上げる。
三年間、ずっとそうだった。
期待させて、寸前で奪う。詠唱が発動しかけた気がして、不発に終わる。
測定器が反応しかけて、沈黙する。
あと少し。いつもあと少し。その、あと少しが、俺には永遠に届かない。
俺は水晶の柱に額を押しつけた。
冷たい感触が、火照った額に沁みる。
馬鹿だ、俺は。この期に及んで、まだ期待していたのか。
この少女が目覚めて、俺に何かを与えてくれると。
俺の空っぽの人生に意味をくれると。
あるわけないだろう。
俺は落第だ。空っぽだ。この世界の誰にも必要とされない――
『……諦めるのか』
声が聞こえた。俺ははっと顔を上げた。
水晶の中の少女は目を閉じたまま。
だが、その声は確かに、俺の頭の中に直接響いていた。
澄んだ、けれどひどく消耗した声。
『五百年、待った。ようやくお前が来た。それなのに――お前は諦めるのか』
「あんた、起きてるのか?」
『半分だ。もう体を動かす力も、まともに声を出す力も残っていない。この声をお前に届けるだけで、精一杯だ』
少女の声だけが、途切れ途切れに俺の中へと流れ込んでくる。
『レイ。レイ・ヴァンフォード』
「なんで、俺の名前を」
『お前の魂に刻まれているからだ。私はずっと、この地の底で、お前を待っていた。私の全てを受け止められる、たった一つの器を』
器。その言葉に、俺はびくりと身を強張らせた。
また、それか。
『お前は空ではない』
少女の声は優しかった。
『お前は深すぎるのだ。お前の器はあまりにも広大で、底が見えない。だから、今のまがいものの魔法程度では、汲み出すことも注ぐこともできなかった。測定器が壊れたのも、詠唱が不発だったのも、すべて当然のことだ』
「やめてくれ」
俺はゆっくりと首を振った。
「その話は、もうたくさんなんだ」
『レイ……?』
「聞き飽きたんだよ、そういうのは……!」
俺は思わず声を荒げていた。
三年分の行き場のない何かが、堰を切ったように喉を突いて出た。
「お前は特別だ。お前には隠れた力がある。そんな言葉、何度も何度も自分に言い聞かせたよ! 詠唱を千回繰り返した夜も、図書館で朝を迎えた日も。いつか報われる、俺には何かがあるはずだって信じて――そのたびに現実に叩き潰された!」
俺は水晶を睨みつけた。目の奥が焼けるように熱い。
「モラン先生には諦めろと言われた。セリアには空っぽだと嗤われた。クラリスには詐欺師だと疑われた。測定器は二度と俺を映さなかった。期待して、裏切られて、また期待して、裏切られて。そうやって三年、生きてきたんだ! もう、うんざりなんだよ……!」
声が震えた。
「さっきだって同じだ。あんたが目を覚ますって期待した。また駄目だった。いつもそうだ。俺が手を伸ばした瞬間に、全部消える……!」
俺はその場に崩れ落ちるように膝をついた。血だらけの手を握りしめて。
「期待するってことがさ、どれだけ怖いか、あんたにわかるか。何も期待しなければ、裏切られることもない。痛みもない。だから俺は、心を殺して生きてきたんだ。何も望まず、何も期待せず、道端の石ころみたいに空っぽのまま。そうやって、やっと息ができるようになったんだよ」
「なのに、あんたはまた俺の心を動かす。目覚めるって期待させて、真実を見せるって期待させて。そのたびに、殺したはずの心がまた勝手に動き出す。そして動き出した心は、裏切られたとき、前よりずっと痛いんだ」
「だからもう、期待させるな。優しい言葉で俺をまたあの高いところまで連れて行って、そして突き落とすのは、もうやめてくれ……」
情けなかった。
得体の知れない声に向かって、地下の暗闇の中で、俺はいったい何を言っているんだ。
沈黙が流れた。やがて。
『……辛かったのだな』
少女の声は静かだった。
責めるでも憐れむでもなく、ただそっと寄り添うように。
『すまない。お前がそれほどの痛みを重ねてきたとは知らなかった。私は、私自身の五百年の孤独ばかりを抱えていた』
少女の声は、少しだけ震えていた。
『だがな。期待することの怖さは、私にもわかるつもりだ』
「え……」
『五百年だ。この暗い地の底でただ一人、誰かが来るその日を待ち続けた。だが来る日も来る日も、誰も来ない。何も変わらない。ただ静寂と闇だけが続く』
『何度、思ったか。もう諦めようと。私を受け止める器など永遠に現れない。私はこのまま、誰にも知られず消えるのだと。そう思って、心を閉ざそうとした。閉ざした方が、楽だからな』
その言葉は、まるで俺自身の心をそのまま代弁しているようだった。
『それでも私は、最後の最後で諦めきれなかった。もしかしたら明日こそ、もしかしたら次の百年こそと、そう思ってしまう。期待はな、レイ。何度裏切られても、ゼロにはならんのだ。それがどれほど辛くても』
俺は、水晶の中の少女をじっと見つめた。
この少女も、俺と同じだったのか。
期待しては裏切られ、それでも期待するのをやめられなかったのか。
その声に、俺は言葉を失った。
「あんた、名前は」
俺は、ようやくそれを尋ねた。
『アイシャ』
その声は静かだった。
『そう呼ばれていた。ずいぶんと昔の話だがな』
「アイシャ……」
『信じてもらえぬのは無理もない。ならば、見せよう。私の目に映ったものを。この世界の本当の姿を』
次の瞬間、俺の脳裏に断片的な光景が流れ込んできた。
豊かに実る黄金の大地。星の巡りを読む人々。
手をかざすだけで傷を癒す女。大地に語りかけ、水を湧かせる老人。
誰もが穏やかで、誰もが光を纏っていた。
これが、真なる魔法。
そして、その光景に、剣を持った軍勢が――
「ぐ……!」
だが、そこで映像がぶつりと途切れた。
まるで燃え尽きる寸前の蝋燭のように、それ以上を映す力がアイシャには残っていなかった。
『すまない。もう、これ以上は見せてやれない』
消えかけの声が詫びる。
『だが、レイ。一つだけ聞いてくれ。信じなくていい。期待もしなくていい。ただ聞くだけでいい』
アイシャの声が、消え入りそうに細くなっていく。
『私はもう消える。この体は五百年の封印で限界だ。私の力を、私の存在を受け止める器がなければ、私はここで誰にも知られぬまま消えていく』
水晶の柱の光が、少しずつ弱まっていく。
膝を抱えた少女の輪郭が、淡く滲んでいく。
『それでも、私は来てくれたお前に、礼を言いたかった。五百年ぶりに、私の言葉を聞いてくれた。それだけで、もう十分だ』
「――待て」
気づけば、俺はそう口にしていた。
消える。この少女が消える。五百年、たった一人でこの地の底で俺を待ち続けて、そして誰にも知られぬまま。
それだけは。
俺は、水晶の中の孤独な少女を見つめた。
その姿が、なぜか俺自身と重なった。
誰にも必要とされず、誰にも見向きもされず、ただ静かに世界の隅っこで消えていく。
俺は、こいつを放っておけない。
力が欲しいからじゃない。
特別になりたいからでもない。
期待しているからでもない。
ただ、この孤独な奴を、一人で消えさせたくない。それだけだった。
「消えるな」
俺は水晶に両手を当てた。
「まだ、あんたの名前しか聞いてない。あんたがなんで五百年もここにいたのか。なんで俺を待ってたのか。この世界の本当のことも、何も聞いてない。消えるのは、全部話してからにしろ」
弱まりかけていた水晶の光が、ほんのわずかに揺れた。
『……お前は』
アイシャの声に、微かな驚きが滲んだ。
『本当に、変わった男だな』
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