第二話 二度目の測定
婚約破棄の翌日から、俺の学院生活は一層静かなものになった。
静か、というのは平穏という意味ではない。
「よお、落第。まだ学院にいたのか」
朝、教室に入ると、同級生の一人が通路に足を突き出してきた。
避けきれず、俺はつまずいて机の角に肩を打ちつける。
教科書が床に散らばった。
「悪ぃ悪ぃ。空気みてえな奴がいるとは思わなくてさ」
どっと笑い声。
俺は黙って教科書を拾い集めた。
反応しないのが一番いい。
「なあ、あいつまだ何か夢見てんのかな」
「まさか。ゼロはゼロだろ。三年経っても何一つ変わらなかったんだから」
「セリア様に捨てられて、次はどこの家に泣きつくんだろうな」
俺は席につき、窓の外を眺めた。
実技演習場では下級生たちが初級魔法の練習をしている。
詠唱一つで炎が舞い、氷が煌めき、風が的を撃ち抜く。
この世界では、あれが当たり前だ。
三歳の子供でも、才能があれば火花くらいは散らせる。
俺だけが、その当たり前の輪の外にいる。三年間、ずっと。
一限目は実技だった。
教官が生徒を一人ずつ当てていく。
俺の番が回ってくると、教官は名簿を見て一瞬言葉に詰まり、こう言った。
「ヴァンフォードは、見学でいい」と。
憐れみだった。
もう俺には詠唱すらさせない。
失敗するのがわかりきっているから、時間の無駄だから。
そういう憐れみが、嘲笑よりも深く胸に突き刺さった。
俺は演習場の隅に腰を下ろし、他の生徒たちが次々と魔法を放つのをぼんやりと眺めた。
炎、氷、風、光。
誰もが当たり前のように、手をかざすだけで世界に干渉していく。
俺だけがその輪の外で、石ころのように座っている。
もう羨ましいとも思わなかった。
羨望は期待の裏返しだ。
そして俺は、とっくの昔に期待を捨てていた。
ただ他人事のように、無感動にその光景を見ていた。
昼休み。
中庭の隅で一人、乾いたパンをかじっていると、不意に影が差した。
「あなたが、レイ・ヴァンフォードね」
顔を上げて、俺は思わず息を呑んだ。
クラリス・オルセン公爵令嬢。
学院に二人といない女子首席だ。
銀の髪を後ろで束ね、感情の読めない紫紺の瞳で、彼女は俺を見下ろしていた。
この学院で最も高貴で、最も近寄りがたい存在が、なぜ俺のような落第に。
「何か、御用でしょうか」
警戒しながら俺は立ち上がった。
高位貴族がわざわざ落第に声をかける。ろくな理由じゃない。
クラリスは前置きもなく切り出した。
「あなたの三年前の測定記録を見たわ」
「初回測定。学院最古の測定具《真理の水晶》が破損している。百年間無傷だったあの魔導具が。そして被験者はあなた」
俺の心臓が跳ねた。その話を他人の口から聞くのは初めてだった。
「あれは事故です。俺の体質か何かの。教官もそう処理しました」
「事故」
クラリスは俺の言葉を静かに遮った。
その瞳が氷のように冷たく光る。
「私はそうは思っていない。あの水晶を破壊するには、桁外れの魔力を一瞬で叩き込む必要がある。上級魔導士でも容易ではないほどの密度で。魔力ゼロの人間に、そんなことができるはずがない」
俺は身構えた。
高位貴族が、三年も前の記録をわざわざ掘り返す。
ろくな話であるはずがない。
「だから私はこう結論づけたの」
クラリスの声が、俺の思考を断ち切った。
「あなたは何らかの手段で、あの測定具に細工をした。魔導具を故意に破損させ、『測定不能』という極めて珍しい記録を意図的に作り出した。不正よ」
え。
「没落貴族の三男が周囲の注目を集める方法はいくらでもある。哀れみを買い、同情を引き、あわよくば有力な後ろ盾を得る。『あの測定器を壊した落第生』という奇妙な肩書きは、そのための演出。違って?」
俺は言葉を失った。
この人は、俺を詐欺師だと疑っているのだ。
三年間の落第生活すら、俺が仕組んだ芝居だと。
「違います」
やっと、それだけを絞り出した。
「俺は何もしていない。あの日、水晶に触れたら勝手に割れた。俺だってわけがわからなかった」
「証明できて?」
クラリスの問いは鋭かった。
返答を待たない。
「できるわ。今この場で、もう一度測定を受ければいい」
彼女は懐から一枚の書状を取り出した。
学院長の印が押された、特別測定の許可証。
用意周到だ。
最初からこれを突きつけるつもりで来たのだろう。
「予備の測定具を用意させた。あなたが本当に、意図せず魔導具を壊すような特異な存在なら、また何かが起きるはず。もし何も起きず、ただゼロと出るなら――あなたは記録を偽装した、ただの嘘つき。そういうことになる」
わかりました、と俺は頷いた。
断る理由もなかった。
どうせ結果は同じだ。
測定室へ向かう廊下は、やけに長く感じた。クラリスが先を歩く。
その背筋の伸びた後ろ姿を追いながら、俺は自分に言い聞かせていた。
期待するな。何も起きない。
三年間、ただの一度も起きなかったんだ。
今日だけ違うわけがない。
ゼロだと思っていれば、何が出ようと傷つかない。
ゼロのままでいろ。
測定室に着いた。
俺とクラリス、そして立会人の教官が揃う。
台座の上に新しい測定具が置かれている。
透き通った拳ほどの水晶球。
あの日割れたものより一回り小さいが、それでも相当な高級品だ。
「触れなさい」
クラリスが静かに言った。
腕を組み、俺を鋭く見据えている。
俺は水晶球に手を伸ばした。
指先が冷たい水晶に触れる。
何も起きなかった。
水晶球は透き通ったまま。
針は微動だにせず、光も宿らない。
ただ静かにそこにあった。俺の魔力を一切映さずに。
ほらな、と胸の内で薄く笑う。
これでいい。これが俺だ。
「もう一度」
クラリスが言った。
俺は一度手を離し、再び触れた。
何も起きない。
「もう一度」
三度目。四度目。
俺は何度も水晶に触れた。
そのたびに水晶はただ沈黙していた。
透明なその内側に、何一つ映さずに。
五度目に触れたそのとき、立会人の教官がふと腕をさすった。
「妙だな。急に部屋が冷えた」
教官は怪訝そうに窓の方を見た。
だが窓は閉まっている。
彼は首を傾げ、すぐに興味を失ったように視線を戻した。
クラリスはため息交じりに、手元の書状へと目を落とした。
沈黙が測定室を満たす。
「やはり、ね」
クラリスの声に、失望と確信が滲んだ。
「ゼロ。何も起きない。三年前の破損は、やはりあなたの細工だったのね」
違う。違うんだ。
でも証明する術がない。
現に水晶は何も示さない。俺の手のひらの下で、ただ沈黙している。
「見損なったわ」
クラリスは踵を返した。
その背中は氷のように冷たかった。
「同情を誘うために、貴重な魔導具を壊すなんて。貴族の風上にも置けない。二度と私の視界に入らないで」
彼女はそのまま測定室を出ていった。
教官も冷ややかな一瞥を残して。
俺は一人、測定室に取り残された。
ほら、見ろ。
心の中で諦めた自分が静かに嗤う。
だから言っただろう、期待するなと。
お前は空っぽだ。
三年前も今も、これからも。
水晶が割れたのは、ただの偶然。
二度目のこの結果こそが、正しいお前の姿だ。
俺はのろのろと水晶から手を離した。
目の奥が熱かった。
だが涙は出ない。
もう、そんなものはとっくに涸れていた。
俺はそのまま背を向け、俺は廊下へ出た。
扉が閉じる。
誰もいなくなった測定室で、水晶球が、ほんのわずかに曇った。
それはまるで、透明な器の奥に、何かが満ち始めたかのように。
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