第十五話 空っぽの勝者
「少し、いいかな。ヴァンフォード君」
決闘の後始末が済み、見物人が散り始めた頃。
俺は、演習場を出ようとしていた足を止めた。
振り返る。
そこに立っていたのは、王室査問官デュラン・ヴァイスだった。
「……何でしょうか」
「いやなに。少し気になることがあってね」
デュランはいつものように、穏やかな笑みを浮かべている。
だが、その笑みの奥にあるものを、俺はもう知っていた。
油断できない。
この男は、アレクのように感情のまま動く人間ではない。
何かを疑えば、証拠を集める。
必要なら、何年でも待つ。
『気をつけろ、レイ』
アイシャの声が、頭の中に響いた。
『あの男は、おそらく今回の件より、お前自身に興味を持っている』
「……何が気になりますか?」
俺は平静を装って尋ねた。
「先ほどの決闘だよ」
デュランは演習場を見渡す。
「いや、正確には……あの魔導具についてだ」
「《穿ちの黒玉》ですか?」
「知っているのかい?」
「さっきクラリス先生たちが話していたのを聞いただけです」
「なるほど」
デュランが頷く。
それから、足元へ視線を落とした。
そこには、黒い宝玉が崩れた跡が残っている。
「随分と大きな力を放った」
「……そうですね」
「だが、不思議なんだ」
デュランの声が、少しだけ低くなる。
「あれほどの魔力が、この場所で消費された。それなのに――」
彼は周囲を見渡した。
「残滓が、ほとんどない」
心臓が跳ねた。
だが、顔には出さない。
「禁呪具だからじゃないですか?」
「そうかもしれない」
デュランはあっさりと頷いた。
その答えが、逆に怖かった。
「魔導具というものは、時として我々の理解を超える現象を起こす。特に禁じられたものなら、なおさらだ」
「……はい」
「ただね」
デュランが俺を見る。
「私は、そういう説明をあまり好まない」
灰色の瞳が、じっと俺を捉える。
「分からないことを、分からないままにしておくのが嫌いでね」
背中を冷たい汗が伝う。
だが、俺は俯いた。
「すみません。俺には、何も分かりません」
「ふむ」
しばらく沈黙が続いた。
デュランは俺の顔を見ている。
俺も、余計なことは言わない。
ただの落第生。
魔力もない。
魔法も使えない。
三年間、ずっとそうだった。
それ以外の何者でもない。
『器を閉じろ』
アイシャが囁く。
『深く。静かに。三年間そうしてきたようにな』
俺は体の奥にある「虚」を閉ざした。
何もない。
空っぽ。
測定すれば、いつだってそう出る。
それが俺だ。
それだけは、絶対に崩さない。
「……なるほど」
やがて、デュランが小さく呟いた。
「確かに君からは、何も感じない」
「……そうですか」
「本当に奇妙だ」
デュランは笑う。
「これほど何もない人間というのも、珍しいものだね」
胸の奥がざわつく。
だが、デュランはそれ以上追及しなかった。
「まあ、いい」
彼は踵を返す。
「今日は疲れただろう。もう行っていいよ」
「……失礼します」
俺は頭を下げた。
そのまま歩き出す。
背中に視線を感じながら。
演習場を出て、廊下を曲がる。
さらにもう一つ角を曲がる。
人の気配がなくなったところで、俺は壁に背を預けた。
「……はぁ」
ようやく息を吐く。
膝から力が抜けそうになった。
『ぎりぎりだったな』
「ああ」
『あの男、確信は持っていない』
「でも、疑ってる」
『間違いない』
俺は天井を見上げた。
「厄介だな」
『そうだな』
アイシャが珍しく素直に同意した。
『だが、まだ大丈夫だ。あの男はお前が何をしたのか知らない』
「……なら、これまで通りだ」
『ああ』
そう。
俺は今まで通りでいい。
落第生。
魔力なし。
何も持たない男。
その仮面を被り続ける。
それが、一番安全だ。
そう思った。
――少なくとも、その時までは。
その日の夕方。
俺は中庭へ向かった。
人の少ない場所で少し休みたかった。
決闘で思った以上に疲れている。
肉体的な疲労というより、精神の方が重かった。
だが。
いつもの場所には、先客がいた。
「……あ」
栗色の髪。
見慣れた顔。
セリアだった。
彼女は俺を見ると、一瞬だけ驚いたように目を見開いた。
「レイ……」
「何してるんだ?」
「待ってたの」
「俺を?」
「うん」
セリアは俯いた。
両手を胸の前で握っている。
何かを言おうとしているのに、なかなか言葉が出てこない。
「……今日は」
やがて、小さな声がした。
「今日は、本当にありがとう」
「何のことだ?」
「決闘のとき」
セリアが顔を上げる。
「私、あのままなら……」
そこで言葉が止まった。
俺は何も言わなかった。
「あなたが助けてくれなかったら、私……」
「気にするな」
「でも」
「たまたま近くにいただけだ」
セリアが少しだけ目を細めた。
「……たまたま?」
「ああ」
「あなたって、昔からそればっかりね」
「そうか?」
「そうよ」
セリアが、ほんの少し笑った。
けれど。
すぐに、その笑顔は消えた。
「……ねえ、レイ」
「何だ?」
「私、間違えたのかな」
俺は黙った。
「アレクを選んだこと」
その名前が出た瞬間、三年前の記憶が蘇る。
大勢の前で告げられた言葉。
お前は弱い。
そんな人と一緒にいる意味がない。
あの時の痛みは、もう消えたわけではない。
ただ。
以前ほど、鮮明ではなくなっていた。
「あなたを捨てて、アレクを選んだこと」
セリアの声が震える。
「私、ずっとあの人は正しい人だと思ってた」
「……」
「強くて、頭もよくて、誰からも認められていて。だから、あの人の隣にいれば、私も正しい場所にいられるんだって」
セリアは唇を噛んだ。
「でも、今日見た」
拳を握る。
「負けそうになった途端、あんなものに手を出して……。周りに人がいることも忘れて、自分の勝つことしか考えてなかった」
涙が、目の端に浮かんだ。
「あんな人だったなんて、知らなかった」
俺は、しばらく彼女を見ていた。
「……私、何を見ていたんだろう」
その言葉に、俺は静かに答えた。
「セリア」
「うん」
「お前が、あの日俺を選ばなかったこと」
セリアの肩が僅かに揺れた。
「間違いじゃないよ」
「……え?」
「あの日の俺は、本当に何も持ってなかった」
魔力も。
才能も。
未来も。
少なくとも、周囲からはそう見えていた。
「お前が、より強い相手を選んだ。それだけのことだろ」
「でも……」
「貴族として生きていくなら、当然の判断だったと思う」
「そんな……」
セリアが悲しそうに首を振る。
「あなたは、そんなふうに考えてたの?」
「考えるも何も、事実だからな」
俺は苦笑した。
「だから、今さら自分を責める必要はない」
「じゃあ……」
セリアが顔を上げる。
「今のあなたを見て、私が後悔するのは?」
「それも、やめた方がいい」
「どうして?」
「俺を勝手に美化するな」
セリアが目を見開く。
「今日、俺が勝てたからって。何か特別な人間になったわけじゃない」
「でも、あなたは――」
「俺は、俺だよ」
俺は静かに言った。
「三年前と同じ、レイ・ヴァンフォードだ」
「……」
「ただ、少しだけ変わった。それだけだ」
セリアは黙って俺を見ていた。
やがて。
「……ずるい」
「何が?」
「そうやって、全部許すみたいなこと言うの」
「許す?」
「私、自分がもっと悪いことをしたって言ってほしかった」
「なんで」
「その方が、楽だから」
その言葉に、俺は少しだけ目を伏せた。
なるほど。
そういうことか。
「俺がお前を責めれば、お前は罪悪感を俺に預けられる」
「……」
「でも、俺はそんなものを受け取るつもりはない」
セリアが息を呑んだ。
「お前が選んだんだ」
俺は言った。
「俺も、今の俺を選んでる」
「……レイ」
「だから、もう気にするな」
俺は彼女の横を通り過ぎる。
これ以上、話すことはなかった。
「待って」
背中から声がした。
俺は足を止める。
「……いつか」
セリアの声。
「いつか、また……」
その先は聞かなかった。
俺はそのまま歩き出した。
『冷たいな』
アイシャが言った。
「そうか?」
『あの女、泣きそうだったぞ』
「……」
『少しくらい、優しくしてやってもよかったんじゃないか?』
「優しくしたら、もっと面倒になる」
『まあ、それはそうだが』
アイシャが少し笑った。
『でも、随分と変わったな』
「何が?」
『お前だよ』
俺は黙った。
『三年前なら、あの女に戻ってきてほしいと思っていたんじゃないか?』
「……そうかもしれない」
『でも今は?』
少し考える。
「……もう、必要ない」
『ほう』
「俺には、やることがあるから」
俺は中庭を抜け、夕暮れの空を見上げた。
赤く染まった空。
学院の塔が、その向こうに伸びている。
今日一日で、いろんなものが変わった。
アレクは、自分で化けの皮を剥いだ。
セリアは、自分が信じていたものを失った。
そして俺は。
ようやく、自分がどこへ向かうのかを考え始めていた。
「俺は、強くなりたいわけじゃない」
『ほう?』
「ただ、知りたい」
『何を?』
「この世界のことを」
俺は空を見上げた。
「なぜ、魔力がない人間が落第になるのか」
「なぜ、魔法を使えることだけが、人間の価値になるのか」
「そして――」
一度、言葉を切る。
「なぜ、俺だけが何もないのか」
胸の奥。
普段は閉ざしている場所。
そこにある「虚」を感じる。
空っぽの器。
俺は三年間、それを欠陥だと思っていた。
何もない。
だから落第。
だから価値がない。
そう思っていた。
けれど、今は少し違う。
あの黒い奔流を飲み込んだ時。
俺の「空っぽ」は、初めて意味を持った。
何もないからこそ。
何でも受け入れられた。
「……空っぽでも、いいのかもしれないな」
『最初からそう言っているだろう』
アイシャが笑う。
『お前の器は、何かを持つためにあるんじゃない』
「じゃあ、何のためだ?」
『それを知るために、これから生きるんだろう?』
俺は、少しだけ笑った。
「……そうだな」
その時だった。
遠くから鐘の音が聞こえた。
夕刻を告げる鐘。
学院中に響き渡る音を聞きながら、俺は歩き出した。
アレクとの決闘は終わった。
だが。
俺の戦いが終わったわけじゃない。
むしろ。
ようやく始まったのだ。
俺を落第と決めつけた、この学院。
魔力の有無だけで人間の価値を測る、この社会。
そして、その価値観を当たり前のものとして支えている者たち。
いつか。
そのすべての根に、俺は手を伸ばす。
ただ、そのためには。
まず知らなければならない。
この世界が、何を隠しているのかを。
俺は夕暮れの学院を歩いていく。
背後には、もう振り返らない。
かつて俺を捨てた少女にも。
今日、俺に敗れた男にも。
今は、もう。
振り返る必要を感じなかった。
ただ一つ。
俺の中にある「虚」だけが。
静かに、確かに。
次の何かを待っていた。




