第十六話 宰相の来訪
アレクが学院から連れ去られて、三日が過ぎた。
学院の空気は目に見えて変わっていた。かつて首席として崇められた男が、落第如きに手も足も出ず、逆上して禁呪具に縋り、失格の烙印を押されて消えた。
その一部始終を、生徒の半分がこの目で見ている。噂は燎原の火のように広がっていた。
そして、いつの間にかその噂の中心に俺がいた。
「なあ、あれが例の……」
「首席を指一本動かさずに黙らせたって」
「落第のくせに、いったい何者なんだ」
廊下を歩くたびに、押し殺した囁きが背中に刺さる。嘲笑ではなかった。
畏れと好奇と警戒の入り混じった、粘つくような視線だ。空気のように扱われてきた俺にとって、それはひどく居心地の悪いものだった。
その朝、食堂で妙なことが起きた。
いつも俺に足を突き出していた太った上級生が、俺の姿を見るなり慌てて席を立ったのだ。
手にした盆を危うく落としかけながら、俺と目を合わせないようにそそくさと出ていく。かつて俺を嗤いの的にして腹を抱えていた男だった。その男がいまは、俺を触れれば火傷する熱湯のように避けている。
守られているわけではない。恐れられているのだ。得体の知れない何かとして。
昼休み、いつもの中庭の隅で乾いたパンをかじっていると、下級生の一団が遠巻きに俺を眺めては、何かを囁き合っていた。
以前なら、こんなふうに視線を集めることなどありえなかった。俺は透明だった。誰の記憶にも残らない、灰色の背景だった。
それが今では、廊下の端を歩くだけで空気がざわめく。
悪い気はしない。だが油断もできない。
注目は、力を隠す者にとって最も厄介な敵だ。
目立てば目立つほど、俺の「空っぽ」の仮面には細かなひびが入っていく。三年かけて築いた完璧な無能の擬態が、この数日で静かに崩れ始めていた。
指導教官のモラン先生ですら、俺を見る目が変わっていた。三年間、俺の無数の失敗をいちばん近くで見てきた人だ。
その先生がいまは何か言いたげに、けれど何も言えずに俺の顔をそっと窺うようになっていた。
あの決闘で消えたアレクの魔法。実技評価の小さな火に込められていた異様な熱量。それらを繋ぎ合わせて、先生は真実の一歩手前で立ち止まっている。そんな顔だった。
『居心地が悪そうだな』
隣を歩くアイシャが涼しい顔で言った。
『まあ致し方あるまい。あの状況で見物人を見殺しにする男なら、私も契約相手には選ばなかった』
「褒めてるのか、それ」
『半分はな』
アイシャはいつもの調子で笑った。
だが、その横顔には拭いきれない緊張の影が差していた。
『問題は、あの男だ。査問官デュラン・ヴァイス。まだ帰っていない』
そうだった。決闘が終わっても、あの王室査問官は学院を去らなかった。表向きの理由は、禁呪具《穿ちの黒玉》の出所を調べるため。
だが、その灰色の瞳が時折、遠くから俺を捉えていることに俺は気づいていた。
その日の朝も、渡り廊下でデュランとすれ違った。
「やあ、ヴァンフォード君」
デュランは、あの穏やかな笑みで気さくに声をかけてきた。
「体調はどうかね。あんな大変な目に遭ったんだ。無理はしないことだ」
「……ご心配どうも」
俺は目を伏せて通り過ぎようとした。その一瞬、デュランの灰色の瞳が俺の全身をなぞった。
『閉じろ、レイ』
アイシャの声が鋭く飛んだ。
『器を深く。いまのお前は、ただの空っぽの落第だ』
俺は体の奥の「虚」を固く閉ざした。ゼロを。空白を。あらゆる測定器にそう映してきた完璧な「無」を。
デュランの視線が、やがてその鋭さを失った。
いつもの穏やかな笑みを浮かべ、彼は背を向ける。
その背中が廊下の角に消えるまで、俺は息を止めたまま動かなかった。
「力が消えたのに残滓がない。あの異常を、あいつはまだ忘れちゃいない」
俺は声を潜めた。
「猟犬は匂いを覚えたら、しつこいもんだよな」
『ああ。だが、いまのところあの男は動けん。確証がないからな』
アイシャは廊下の窓の外へ視線を向けた。
『それより、私が気にしているのは別の匂いだ』
「別の?」
『来るぞ、レイ。もっと大きな、もっと厄介なものが』
その言葉が終わるか終わらないかのうちに、学院の正門の方からけたたましいざわめきが湧き上がった。
俺は他の生徒に交じって、中庭の窓から正門を覗いた。
四頭立ての豪奢な馬車が、隊列を組んで乗り込んでくるところだった。護衛の騎士が前後を固めている。
磨き抜かれた黒漆の車体が、朝の光を鈍く跳ね返す。馬車の扉には金の紋章。剣と、天秤と、そして三つの星。
「あれは……宰相家の紋だ」
誰かが掠れた声で呟いた。
馬車から降り立ったのは、一人の壮年の男だった。
背が高く、痩身。銀の混じった黒髪を一分の隙もなく撫でつけている。仕立ての完璧な黒の礼服。その顔立ちはアレクによく似ていた。
ただし、アレクの傲慢さがこの男にはない。あるのは氷のような静かな威圧だけだ。感情の一切を奥深くに押し込めた、底の見えない静けさだった。
出迎えた学院長が深々と頭を下げる。その手が微かに震えていた。
「ようこそいらっしゃいました。宰相、ゴドウィン・フォンティス閣下」
宰相。この国の政の頂点。王家の下で、実質的にこの国を動かす最高権力者の一人。アレクの父親だった。
『……あれか』
アイシャの声が低くなった。
『気をつけろ、レイ。あの男はアレクとは格が違う。魔法の力ではない。あれが振るうのは、法と金と人だ。剣で斬りかかってくる相手より、よほど始末が悪い』
ふと、俺のそばに人の気配が寄った。クラリスだった。彼女もまた、窓の外の宰相を鋭い目で見つめていた。
「……フォンティス宰相が直々に、ね」
彼女は俺にだけ聞こえる声で呟いた。
「愚息の不始末を詫びに、なんて綺麗な話であるはずがない。あの人が動くのは、いつだって失うものを取り戻すためよ」
俺は横目でクラリスを見た。この頑固な猟師は俺を疑いながらも、あの権力者の危うさを正確に嗅ぎ取っていた。
「気をつけることね、レイ・ヴァンフォード」
クラリスはそれだけ言うと、静かにその場を離れた。
その日の夕刻、俺は学院長室へ呼び出された。
嫌な予感しかしなかった。だが、断れる立場ではない。俺は重い足を引きずって、その扉を叩いた。
中には学院長と、ゴドウィン・フォンティスが待っていた。学院長は部屋の隅で、まるで自分がそこにいることを詫びるように小さくなっている。この部屋の主がもはや誰であるのかは明らかだった。
「君が、レイ・ヴァンフォードか」
宰相は俺を椅子に座らせもせず、静かに切り出した。その声は低く、よく響いた。
「はい」
「愚息が世話になったようだ」
ゴドウィンは感情のない声で言った。
「あれは生まれてこのかた、挫折というものを知らずに育った。だからこそ、あのような無様を晒した。親として恥じ入る限りだ」
殊勝な言葉だった。だが、その目は少しも恥じてなどいなかった。
「もっとも、私が解せぬのは、その先だ」
ゴドウィンは続けた。
「魔法の使えぬ落第生が、なぜあの禁呪具の暴走を無傷で切り抜けられたのか。まるで力そのものが、君の前で消え失せたかのように」
俺の心臓が跳ねた。だが、俺は顔色を変えなかった。三年間で、それだけは得意になっていた。
「……運がよかっただけです。あの黒い玉が、勝手に壊れて」
「運、か」
ゴドウィンは薄く笑った。その笑みは氷の刃のように冷たい。彼はゆっくりと俺の周りを歩き始めた。まるで獲物の逃げ道を確かめるように。
「よく覚えておくといい、少年。この世に運などというものはない。あるのは、力とその使い方だけだ。そして、説明のつかぬ幸運というのは、往々にして誰かが仕組んだ力の産物だ」
彼はふと足を止めた。
「取引をしようか」
ゴドウィンは声色を少しだけ和らげた。だが、それは蛇が獲物に囁くような柔らかさだった。
「君があの決闘で用いた『手管』を、私に明かせ。誰に教わったのか。何を隠しているのか。正直に話すのだ。そうすれば、君の没落した家に、再興の道を用意してやってもいい。男爵家の三男が二度と手の届かぬ栄達をな。悪い話ではあるまい?」
餌だった。甘い、甘い餌。
だが、その裏に鋭い釣り針が隠れている。俺が少しでも「手管」の存在を認めれば、それはそのまま罪の自白になる。
「……何も隠していません」
俺は目を伏せた。
「俺はただの落第です。手管なんてあったら、三年間こんな目には遭っていません」
「そうか。強情だな」
ゴドウィンは失望した様子も見せずに言った。
「だが、覚えておけ。私は答えを待つ男ではない。手に入らぬなら取り除くまでだ。君も、君の家族も、な」
脅しだった。だが、その口調はあくまで穏やかで、まるで天気の話でもするようだった。それがかえって背筋を凍らせる。
この男にとっては、一人の落第生の命も、その家族の未来も、盤上の駒を払うほどの意味しか持たないのだ。
俺は家族の顔を思い浮かべた。落ちぶれてなお俺の帰りを待っている、あの人たち。三年間、細々と仕送りを続けてくれた母。俺をこの学院へ送り出してくれた父。
あの人たちを、この男の気まぐれで失うわけにはいかない。だからこそ、ここで折れるわけにはいかなかった。折れれば俺の秘密は暴かれ、家族もろとも狩られる。
ゴドウィンは目を細めた。餌に食いつかなかったことへの、静かな値踏みだった。
「そうか」
彼は興味を失ったように俺に背を向けた。
「近く、あの決闘について正式な査問委員会が開かれる。何が起きたのか、包み隠さず明らかにするためだ。真実は必ず白日の下に晒される。せいぜい、残り少ない日々を大切に過ごすことだ」
俺は一礼して部屋を出た。
学院長室を出ると、廊下の空気が一変していた。
宰相の来訪は、わずか半日でこの学院の空気を一変させていた。フォンティス家に連なる家柄の生徒たちが、廊下の要所にたむろしている。
俺を見つけると、露骨に敵意のこもった視線を投げてきた。首席の失脚。その報復の矛先が俺に向くことは、もはや公然の空気だった。
教官の何人かでさえ、俺と目が合うと気まずそうに目を逸らす。宰相の不興を買うことを恐れているのだ。
俺はずっと透明な存在だった。誰も俺を見なかった。だがいまや俺は、権力者の敵としてはっきりと標的にされている。皮肉なものだ。存在を認められることがこれほど危ういとは。
『分かるか、レイ』
アイシャが隣で静かに言った。
『あの男は剣を抜いていない。にもかかわらず、この学院の空気そのものを、お前を潰す方向へ傾けた。それが権力というものの恐ろしさだ。査問委員会が開かれる頃には、この空気は動かしがたい「世論」に育っているだろう。そして世論こそが、あの男の最強の武器になる』
「じゃあ、俺はどうすればいい」
『真正面から抗おうとするな。世論も法も、あの男の土俵だ。そこで戦えば必ず負ける』
アイシャの声に静かな確信が宿った。
『だが、あの男にも決して人に見せられぬ、腐った急所が必ずある。今日、甘い餌を撒いてまでお前の口を封じようとした。あの焦りが何よりの証拠だ。表で潰されそうになったら、裏の急所を掴んでやればいい』
俺は頷いた。胸の奥の恐怖が、少しずつ冷たい決意へと変わっていく。
その夜、地下の広間で俺は深く息を吐いた。
「三年前の俺なら、あんな男に睨まれただけで震え上がってただろうな」
俺は暗い天井を見上げて呟いた。
「詐欺師と疑われて、婚約を破棄されて。ただうずくまって、嵐が過ぎるのを待つことしかできなかった」
「今は違うだろう」
アイシャが静かに言った。
「ああ。今はこうして反撃を考えてる。あんたが隣にいるからだ」
アイシャは少し驚いたように目を瞬かせた。それから、ふん、とそっぽを向いた。金色の瞳が暗がりの中で照れたように揺れる。
「……礼を言われるほどのことはしていない」
彼女はぶっきらぼうに言った。
「私はただ、退屈しのぎに付き合っているだけだ」
「そういうことにしといてやるよ」
俺は笑った。この五百年ぶんの孤独を抱えた相棒は、優しさを素直に見せるのがどうにも苦手らしい。だが、その不器用さが今の俺には、何よりの支えだった。
個人は片づいた。だが今、その背後にいたもっと大きなもの――腐った権力そのものが、静かに、確実に俺を押し潰しにかかっている。
それでも構わない。腐ったものには、必ず腐った匂いの出所がある。俺はその匂いを辿ると決めた。




