第十四話 化けの皮
「フォンティス、やめなさい! 魔導具の使用は明確な反則よ!」
クラリスが鋭く叫んだ。
だが、アレクにはもう、その声が届いていなかった。
「うるさい……」
アレクは震える手で、頭上に黒い宝玉を掲げている。
「うるさい、うるさいうるさいうるさい!」
その顔からは、これまでの余裕も誇りも消え失せていた。
そこに浮かんでいたのは隠しきれない焦燥と、抑えきれない憤怒だった。
「これは、フォンティス家に代々伝わる秘蔵の宝だ!」
黒い宝玉が、脈打つように明滅する。
「これさえあれば……!」
アレクの口元が歪んだ。
「こんな落第如き、一瞬で消し炭にできる!」
その瞬間だった。
ぞくり、と背筋に悪寒が走った。
宝玉から溢れ出した魔力が、アレクの腕へと絡みついていく。
黒い蛇のような魔力が皮膚を這い、肉体の内側へと潜り込んでいく。
『……愚か者が』
アイシャの声に、これまでにないほどの怒りが滲んでいた。
「アイシャ?」
『あれはただの魔導具ではない』
アイシャが低く唸る。
『術者の器を無理やり抉じ開けて、本来なら扱えない量の力を引きずり出す。術者の命を燃料にしてな』
「……そんなものを?」
『あの男は、自分が何を使っているのかすら理解していない』
俺はアレクを見る。
その身体は、すでに限界を超え始めていた。
血管が浮き上がり、顔は苦痛に歪んでいる。
それでも、アレクは笑っていた。
「見ろ……! これが力だ!」
その声には、狂気すら混じっていた。
「これが本物の力だ! 僕が……僕こそが、この国を背負う人間なんだ!」
観客席から悲鳴が上がった。
誰かが逃げようとして、人の波が崩れる。
だが、それでも間に合わない。
俺は周囲を見渡した。
演習場の外には、大勢の生徒たち。
教官もいる。
そして――
「……セリア」
円のすぐそば。
逃げ遅れたセリアが、地面に座り込んでいた。
顔は真っ青だった。
目の前で起きているものが、何なのか理解する暇すらないのだろう。
『レイ』
アイシャの声が響く。
『まずい』
「何が」
『暴発する』
短い言葉だった。
それだけで十分だった。
「どれくらいだ」
『このままなら、円の中だけでは済まない』
「……」
『あの威力なら、周囲にいる人間も巻き込む』
俺の喉が鳴った。
アレクを見る。
黒い宝玉が、さらに強く輝いていた。
その輝きは、すでにアレクの意思とは関係なく膨れ上がっている。
『レイ。次に来る』
俺は拳を握った。
逃げる?
無理だ。
あれだけの人間がいる。
俺一人が逃げたところで、後ろにいる人たちは逃げられない。
なら――
「アイシャ」
『ああ』
「全部、飲み込めるか?」
一瞬の沈黙。
『……やるしかないだろう』
俺は両手を前に突き出した。
そして、体の奥にあるものを開く。
虚。
三年間、俺を「何もない」と判定し続けた、空っぽの器。
その底を。
限界まで。
開く。
「消えろ!」
アレクが叫んだ。
「消えろおおおおおおお!」
黒い宝玉から、どす黒い光が噴き出した。
轟音。
空気が震える。
大地が揺れる。
巨大な魔力の奔流が、俺へ向かって殺到した。
視界が黒に染まる。
誰かが悲鳴を上げた。
誰かが俺の名前を叫んだ。
だが。
俺は動かなかった。
逃げる必要なんてない。
なぜなら。
――俺には、何もないからだ。
黒い奔流が、俺の身体へ触れる。
その瞬間。
音が消えた。
光も消えた。
熱も。
衝撃も。
何もかもが。
俺の中へ落ちていく。
底の見えない井戸へ、水を注ぐように。
一滴。
また一滴。
巨大な魔力が、俺の中へ吸い込まれていく。
「……え?」
アレクの声が聞こえた。
黒い光が、急速に細くなっていく。
俺はただ、両手を前に出しているだけだった。
何もしていない。
ただ、そこに「虚」がある。
それだけだった。
『レイ、まだだ!』
アイシャの声が響く。
『残った力が暴れる!』
俺はさらに虚を広げた。
溢れ出そうとする魔力を、一つ残らず引きずり込む。
漏らさない。
誰にも触れさせない。
俺の中だけで終わらせる。
やがて。
最後の一欠片が、俺の中へ消えた。
静寂が訪れた。
風の音さえ、妙に大きく聞こえる。
俺はゆっくりと腕を下ろした。
周囲を見渡す。
誰も倒れていない。
誰も傷ついていない。
セリアも、無事だ。
そして。
アレクの手の中には――
ひび割れた黒い宝玉だけが残っていた。
「……あ」
アレクが、それを見つめる。
宝玉に、無数の亀裂が走った。
パキッ。
小さな音。
次の瞬間。
黒い宝玉は、砂のように崩れ落ちた。
「……僕の」
アレクの唇が震える。
「僕の……フォンティス家の秘宝が……」
その顔には、もう怒りすらなかった。
理解できないものを見ている顔だった。
「なぜ……」
俺を見る。
「なぜだ……?」
俺は答えなかった。
答えようがなかった。
俺だって、詳しいことを説明できるわけじゃない。
ただ。
あの力が、俺の中に消えただけだ。
「僕は……負けたのか?」
誰に聞くでもなく、アレクが呟く。
その声を掻き消すように、凛とした声が演習場に響いた。
「――そこまでよ!」
クラリスだった。
彼女は演習場の中央へ歩み出ると、崩れ落ちた黒い宝玉を指差した。
「決闘は、ここで終わりです!」
そして、アレクを真っ直ぐに見据える。
「アレク・フォンティス。あなたは決闘の規則に違反し、禁じられた魔導具を使用した」
「ち、違う……!」
「しかも、その魔導具を制御できず、決闘場の外にまで被害を及ぼしかけた」
「違う! 僕は――」
「黙りなさい!」
クラリスの一喝が、演習場を震わせた。
「あなたが何を言おうと、事実は変わらないわ」
ざわめきが広がる。
それまでアレクを称賛していた生徒たちも、今は誰一人として声を上げない。
視線が変わっていた。
憧れ。
羨望。
尊敬。
そのすべてが消えている。
代わりにあるのは、困惑と恐怖。
そして――侮蔑。
「そ、そんな……」
アレクが周囲を見る。
「違う……違うんだ……」
誰も答えない。
「僕は悪くない!」
アレクが叫ぶ。
「悪いのはこいつだ! この落第が何か卑怯なことをしたんだ!」
指を向けられる。
「僕は被害者だ! 僕は――」
「見苦しいわよ、フォンティス」
クラリスが冷たく言った。
「反則を犯したのは、あなた。それだけが事実よ」
アレクの顔が歪む。
それでも、もう誰も彼を擁護しなかった。
完璧無欠の首席。
宰相家の嫡男。
学院の模範。
誰もがそう思っていた男の化けの皮が、今、完全に剥がれ落ちた。
そこにいたのは。
ただ一人の男だった。
負けを認められず。
力に縋り。
その力すら制御できず。
無関係な人間まで危険に晒した男。
それが、アレク・フォンティスの本当の姿だった。
やがて教官たちがアレクの両脇を固めた。
「離せ!」
アレクが抵抗する。
「僕を誰だと思っている! フォンティス家だぞ!」
だが、その言葉も今は空しく響くだけだった。
教官たちは構わず、アレクを連れていく。
最後に。
アレクが俺を睨んだ。
憎悪に満ちた目だった。
「……お前のせいだ」
掠れた声。
「全部……お前のせいだ……!」
俺は何も答えなかった。
そのまま、アレクが演習場から消えていくのを見送った。
――終わった。
そう思った。
三年間、俺を見下し続けた男が。
今は誰にも見向きもされず、連れていかれている。
少しくらい、胸がすくものだと思っていた。
けれど。
実際に胸の中に残ったのは、妙に静かな感覚だけだった。
『……嬉しくないのか?』
アイシャが尋ねる。
「どうだろうな」
俺はしばらく考えてから、首を横に振った。
「……もう、どうでもいいのかもしれない」
三年前の俺なら、きっと違った。
こいつに勝てたなら。
こいつを見返せたなら。
そう思っていたはずだ。
けれど、実際に勝ってみれば。
思っていたほど、大したことではなかった。
アレクは勝手に力に縋り、勝手に道を踏み外し、勝手に転がり落ちた。
俺は、ただそこに立っていただけだ。
殴る必要もなかった。
罵る必要もなかった。
俺が手を下すまでもなく、あいつ自身が、自分の正体を皆の前に晒したのだから。
「……これで、終わりだ」
俺は小さく呟いた。
『そうだな』
アイシャが静かに答える。
『少なくとも、あの男との因縁はな』
「……ああ」
俺は演習場を見渡した。
騒ぎはまだ収まっていない。
教官たちが状況を確認し、生徒たちは興奮したように言葉を交わしている。
俺はその喧騒から一歩離れた。
これで、三年間続いたものが一つ終わった。
それでいい。
そう思った。
だが、俺はまだ知らなかった。
この日、俺の決闘を見ていた者の中に。
アレクとは比べものにならないほど厄介な存在が、もう一人いたことを。
演習場の端。
人の流れから離れた場所で、一人の男が立っていた。
王室査問官、デュラン・ヴァイス。
彼は崩れ落ちた黒い宝玉の残骸を見つめていた。
やがて、ゆっくりと顔を上げる。
灰色の瞳が、真っ直ぐに俺を捉えた。
その表情には、いつもの穏やかな笑みが浮かんでいる。
だが、その瞳だけは、笑っていなかった。
俺は、なぜか背筋に冷たいものを感じた。
デュランは何も言わない。
ただ、俺を見ていた。
まるで何かを確かめるように。




