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八話 目撃

「油断した」


 夜風に吹かれて数分、手の震えは止まったが、まだ胸がどきどきしていた。


 エルヴェルトは攻略対象の一人だ。公爵の体面を考え、安易に接触している場合ではなかった。


 アリステアは己の浅はかさを悔やむ。


 どれだけ仲を深めようと攻略対象たちには『殺す』という選択肢があり、いつかそれを実行する実力も決断力も備わっているのだ。


 ――時系列も関係性も、ストーリーはすでにめちゃくちゃなのよ。


 アリステアは額を押さえ、深く息を吐いた。


「ん?」


 バルコニー下の庭に人影があった。いかがわしい考えがよぎる。


 ――秘密の逢瀬ってやつ?


 皇女が主役のパーティーでよくやるものだと思いながら、好奇心が勝ったアリステアはバルコニーから少しだけ身を乗り出した。


「――ぁ」


 アリステアは息を呑み、硬直する。


 ただ、黄金を溶かしたような髪を持つ男が佇んでいるだけだと思った。だが、足元には複数人が倒れていた。


 振り抜かれた剣からびしゃりと血が飛び、芝生の一部を赤く染める。


 ――ばか、なんて愚かなの私は!


 脳が警鐘を鳴らしていた。しかし、体は動いてくれない。


 もたもたしているうちに、怪しげに光る群青色の目がこちらを見上げた。アリステアはなんとか悲鳴を噛み殺し、身を引いた。


「――」


 人は、驚きすぎると声が出なくなる。


 ――ま、まさか。


 どういうわけか、庭にいたはずの男がバルコニーに上がってきた。


 アリステアの口から悲鳴が飛び出ることはなかったが、それを危惧した人物は咄嗟にアリステアの腰を抱き寄せ、口を手で塞いだ。


「んぐっ」


 ――下から、跳んできたの!?


 腰に腕を回され、がっしりと抱えられている。逃げようと身じろぎしても、びくともしなかった。


 やがて口を塞いでいた手が、今度はさらりと髪をすくい、背筋が凍る。


「あ、あの」


 頬に返り血をつけた男が口を開こうとした瞬間、アリステアは我先にと被せた。


「わ、私……誰にも言いません。だ、だからどうか、見逃して……」

「人違いだったようだ」


 必死の懇願をよそに、男はすぐに解放してくれた。そして、寂しげな声を残してバルコニーから飛び降りていった。


 ――わ……わけがわからないけど、逃げるなら今!


 アリステアは慌てて踵を返し、会場内へと戻る。幸い、姿の見えないアリステアを探していたメイナードとすぐに合流することができた。


「お前、なんでそんなに髪が乱れてんだ? 全力で走ったわけでもあるまいし」

「言わないで、ください」


 危うく敬語を外してしまうところだった。


「ちょっと、こっちに来い。整えてやるから」

「あっ」


 ぐい、とメイナードに手を引かれる。


 人目が届きにくい場所まで来たメイナードはアリステアの後ろに立つと、手で丁寧に髪を梳いた。その手つきがあまりに優しくて、手慣れていて、状態を確認するために正面に立ったメイナードに信じがたいものでも見るかのような目を向けてしまった。


「また、その目」

「私はどのような目をしているというのです?」

「ったく、お前は俺をなんだと思っているんだ。ほら」


 そう言ってメイナードはカーテンを少しだけ持ち上げた。窓に反射した会場が映り、乱れていたという髪は綺麗に整えられていた。


 ――がさつそうなメイナードに、こんなことができるなんて。


 目を瞬かせるアリステアの後ろに、むっと顔をしかめるメイナードも映っていた。反射したメイナードと目が合った瞬間、ばさりとカーテンがもとの位置に戻った。


「お兄さまにこんな才能があったなんて知りませんでした」

「才能なんてたいそうなものじゃねえよ」


 ぼそりと呟かれた言葉をアリステアは聞き逃さなかった。


「母さんが、できるようにしとけって言ってたから」

「お母さまが?」


 聞かれていると思わなかったのか、メイナードは顔をそらした。


「……そうだよ。妹ができたら、髪を結んでほしいってお願いされるかもしれないから。それでできなかったら格好よくない兄だと思われるかもしれないから、できるようにしておいたほうがいいって母さんが……っ、この話はいいだろ!」


 メイナードは恥ずかしさをごまかすためにがしがしと後頭部をかいた。


 ――なによ。べらべらと話したのは自分なのに。


 でも、突き放していたはずの『アリステア』のためにこれほど上達させたとは。衰えを感じさせない手つきは、もしかしてアリステアが公爵家を出ていってからも練習を続けていたのではないか。


「次は、こうやって俺の手を煩わせないようにしろよ。お前は……これから、ベルジックの公女として……」


 だんだんと語気が弱くなるメイナードに追い打ちをかけるように、鼓膜を震わせるラッパが高らかに鳴った。


「やべっ」


 メイナードはアリステアの手首をぱしっと掴み、器用に人混みのなかをすり抜けていく。掴まれたところは、あの日のように痛くはなかった。


「今までどこにいたんだ?」


 公爵と一緒に立っていたアルフレッドにじろりと睨まれる。


「間に合っただろ?」


 アルフレッドはため息をつきながらメイナードにシャンパンが入ったグラスを渡し、アリステアも公爵から同じものを受け取った。


「お前はまだ十九歳だから、飲むふりだけでいい」


 耳元でそう囁かれてすぐ、広間の扉が開け放たれた。


「ラインハルト・イシュトヴァーン皇帝陛下、セシル・イシュトヴァーン皇妃殿下、リーゼロッテ・イシュトヴァーン皇女殿下の入場です」


 壮大な音楽が演奏され、参列者たちは礼をもって皇家を迎える。


 広間に用意された玉座に腰を下ろした三人。皇女の横にある空席は、本来は皇太子が座るものだったのだろう。


 ――皇太子が最後の攻略対象だけど、この場には現れないのかな?


 皇女の攻略対象に兄である皇太子が入っている理由は、彼らが異母兄弟だからである。


 病で亡くなった前皇后と皇帝の間に生まれたのが皇太子であり、皇妃と皇帝の間に生まれたのが皇女であるリーゼロッテなのだ。


 ――父親が同じなら血も繋がっているのに……悪趣味な作者ね。


 主役である皇女の挨拶に続き、皇帝が歓談を再開するようにと貴族たちを見渡した。


 音楽も落ち着いたものへと変わり、皇族の登場にやや張りつめていた空気も穏やかに戻っていた。


「皇帝陛下、皇妃殿下、皇女殿下にご挨拶申し上げます。このような節目に皇女殿下を祝福する機会を賜り、光栄に存じます」


 片手で数えられる順番に、ベルジック公爵家は皇族に頭を垂れた。


「本日のために、公爵領で採れた獣の毛皮をお贈りいたします」

「ありがとうございます、ベルジック公爵。今年の流行は早くも決まりそうですね」


 明るい金髪に鮮やかな薔薇色の目。目と同じピンク色の豪勢なドレスに身を包んだ皇女は、アリステアの知る『皇女』そのものである。


 ――彼女が、主役。


 にこやかに微笑む皇女に悪役らしさはない。


「そちらの令嬢が公爵の娘だな? 幼いころは何度か目にしたが……愛らしさだけでなく美しさまで兼ね備えるとは」

「もったいないお言葉にございます」


 皇帝は顎を撫でながら、口元に笑みを浮かべた。


「もっとその顔をよく見せてくれ」


 天上の言葉に逆らうことなどできず、アリステアは息を止めてすっと背筋を伸ばした。


 ――なんでこんなに……早く解放して!


 ぞくりと背筋が凍る。さりげなく皇女を見れば、色のない表情でじっとこちらを見つめていた。それだけでなく皇妃までが冷ややかな視線を向けている。


 当たり前だ。今日は――今日だけでなくいつだって皇女が主役なのに、皇帝が脇役ばかりを褒めるのだから。いい気はしないだろう。


「名をなんといったか」

「アリステアと申します」

「どうだ、皇太子妃の座に興味はないか?」

「陛下!」


 皇女は目を細くし、皇妃は目を見開いた。


 公爵が口を挟まなければアリステアの心臓が縮み上がるところであった。


「陛下といえどお戯れがすぎます」

「だが、名立たる公爵家の子どもたちは誰一人として、婚約者すら迎えていないだろう。冗談として流すには早計ではないか?」

「だとしても……」


 公爵が押されかけたとき、会場の入り口がやけに騒がしくなった。真っ先に顔を向けたのは皇帝であり、おかげで話がうやむやになる。


「何事だ?」


 皇帝が近くの侍従に尋ねるが、答えを返したのは騒ぎを起こした張本人にほかならなかった。


「お待ちください! いくら皇太子殿下でも、そのような蛮行が許されるはずが……っ」


 静止の声などお構いなしに、こちらにまで音が響くほどの強さで入口の扉が開け放たれた。


「きゃー!」


 入場曲の代わりと言わんばかり、貴婦人たちの悲鳴が添えられて。

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