五十六話 誰かの記憶
「記憶障害、ですか……?」
そこは病院の面談室のようで、肩を寄せ合う夫婦らしき男女を前に、医者が静かに告げた。
「息子さんの話によれば、覚醒した際の状況から、事故以前の記憶の一部……いえ、かなりの範囲に障害が起きている可能性が高いです」
「それは、つまり……記憶喪失ということですか?」
「事故のショックによる急性ストレス反応で錯乱していただけかもしれません。今はまだ意識も安定せず、どれだけの記憶を忘れているのか、改めて確認する必要があるでしょう」
「も、もし記憶がないなら……いつ、いつ記憶は戻りますか!? あ、あの子……私たちのこともっ」
「お母さん、落ち着いてください。一時的なものかもしれませんから、まずは身体の治療を優先します。目を覚ましたら、よく寄り添ってあげてください」
医者からの説明を受け終わると、泣き叫ぶ女性の肩を抱きながら、男性は面談室を出た。患者や見舞い人の視線を痛いほどに感じながら、二人は娘が眠る病室へ向かう。
「母さん、父さん、先生はなんて……?」
静かに眠る娘を見守っていた息子がふらりと立ち上がる。
「事故のショックで、記憶障害になってしまったんだろうって。でも、大丈夫だ。それも一時的なものだって。まずは身体の治療を、って」
「大丈夫なんだ」
数日前に発生した自然災害により事故に遭い、一時は心停止に陥るも、その場にいた人たちの救命活動のおかげで一命を取り留めた。
それでも骨折などの外傷も負い、現在は入院を余儀なくされている。
「よかった。大丈夫なんだ。俺のこと、思い出してくれるんだよな?」
頬に涙が伝った息子に駆け寄って、三人は声を大きく上げて泣いていた。
◇◇◇
泣いている。その光景が、暗闇に浮かぶ画面のようなものに映っていた。
――なんで、こんなもの見せるの。
アリステアは青白い光を放つ画面に手を伸ばす。そこに映されていたのは紛れもなく、前世の家族の姿だった。
「お母さん、お父さん、お兄ちゃん。私、ここにいるよ。ここにいるのに……っ」
こっちを見てくれないか。気づいてくれないか。願いをこめて画面に振った拳は何度も空を切り、光景を一時的に歪めるだけだった。
「今日は、絵本を持ってきたよ。押し入れにしまってあったんだ。昔、読んでってよくせがんできたよな。俺も、まだ字があまり読めなかったときだ」
もどかしさに打ちひしがれるなか、画面が切り替わり、明るい声が響いた。
「久しぶりに兄ちゃんが読み聞かせでもしてやるか。昔みたいに」
前世の兄だ。医者も、両親も、兄も。見せられたすべての人物の顔はのっぺらぼうのようで、けれど家族だとすぐにわかった。
――お兄ちゃん! 私、ここにいるよ!
向こうにこちらの声は届かない。姿も見えていないのだろう。
「あれ、こんな内容だったっけ? ちっちゃいころの記憶って、やっぱり頭のなかで美化とか加筆とかされてるのかな」
明るい声に紡がれる物語はたびたび止まる。再開されるそれは無理に作られたような声で。
「じゃあ、明日……は、来れないんだった。次は、明後日かな。また掘り出しものを持ってきてやるから、楽しみにしてろよ」
――待って、行かないで。
無駄だと理解しても体は勝手に動いて、兄の背中を追った。すると、病室を出ていこうとした兄の足がぴたりと止まり、ゆっくりと振り返る。
気づいてもらえたと思ったのはぬか喜びであった。兄は自分の向こう側を凝視する。
「『――』?」
たしかに、名前を呼ばれた。だが、肝心の名前の部分にはノイズが走り、アリステアは強い不安を覚える。
――思い出せない。私の名前なのに。
名前も、声も、顔も。どんな形をしていたか。
「『――』、『――』! 聞こえるか!?」
兄はナースコールを押しながら、必死に呼びかける。
「……しにたく、ない。たすけて」
「大丈夫、大丈夫だよ! ちゃんと生きてるから!」
「っ……きゃあ!?」
目を開けた『――』は兄の姿を視界に捉えると悲鳴を上げ、手足をばたつかせて暴れ出す。かなりの重傷だ。そのせいで悲鳴が大きくなった。
「いたい、いたい! 助けて、お兄さま! お父さま!」
「落ち着け! 骨が折れてるんだから、暴れるともっと痛むぞ!」
「イズリアルなんて嫌い、大嫌いよ! もう、一緒にいたくないよぉ」
ぼろぼろ涙を流して苦しむ『――』と宥める兄の姿が、暗闇に消える。
――イズリアル?
ど、ど、と心臓が強く脈打ち始める。ここは、意識だけの世界のはずなのに。
――まさか、『アリステア』? いや、そんな……そんな、わけ。
ない。などとどうして言い切れるだろう。現に、『――』はこうしてアリステアのなかにいるのだから。
心の整理がつく前に、再び画面が現れていた。
◇◇◇
「母さん、『――』のお見舞いに行くけど、母さんは」
「ご飯の準備をしなくちゃいけないから」
毎日のように病院へ通っていた母は、妹が目を覚ましてからはぱったりと足を運ばなくなった。
お見舞いの準備を始めると、母はご飯の支度を始めたり掃除を始めたり、なにかと理由をつける。
「……まだ十四時だろ」
「お父さんは仕事を頑張っているんだから、帰ってきたら温かいご飯を用意してあげたいじゃない」
たしかに父は仕事の時間を増やすようになった。治療費や入院費のためであって、母のように現実逃避をするためではない。
なにより母はもっともらしいころを述べるが、たいていは父の帰宅間際に料理を温め直していた。
「本当に来ない?」
「今、手が離せないから」
「『――』も、寂しがるよ」
妹の名前を出すと、家のなかの温度が下がったような心地になる。
「そんなわけないじゃない」
「あるよ。『――』は心細いみたいで、俺や父さん、母さんを探して――」
「だから、それは私たちじゃないでしょう!?」
だん、とまな板に包丁が叩きつけられる音が響き、思わず息を詰めた。
「あの子は、『――』じゃない」
「記憶がなくたって『――』は『――』だよ。そうだろ?」
「まるで、別人よ。あの子は、『――』はもう、あの日に死んでしまったのよ」
「母さん! ……行ってくるよ」
母を咎める言葉は、台所から聞こえてくるすすり泣きによってぐっと飲みこんだ。
「暗くなる前に帰ってくるのよ」
「子どもじゃないんだから、大丈夫だよ」
震える声にそう返したことを、後悔する。
「『――』は帰ってこなかったもの」
地雷を踏んだ。そう自覚しながら、けれどこの母と向き合うことに疲弊してしまったが故に、なにも言わずに家を出た。
病院のベッドの上、『――』は今日も抜け殻のように動かない。きっともう、数えられる天井の染みもないだろうに。
「『――』」
驚かせないよう静かに名前を呼ぶと、微かに体が強張る。
「家に、帰してください……お父さまと、お兄さまにも、誰にも言いません。宝石も馬も、望むものはなんでも、差し上げますから。お父さまとお兄さまに、会わせて、ください。家に、帰りたいです」
まるで誘拐犯にでもなったかのようだ。
医者は妹を記憶障害と言い、幼児退行しているとも言った。本当に、そうだろうか。
「いずりあるって、人の名前か? 誰だ?」
また、地雷を踏んだ。さっと顔色の青くなった妹を見て、自己嫌悪に陥る。
「ひっ……いや、いやです。イズリアルはもういやぁっ!」
「あ、あ……ごめ、俺が、俺が悪かった! いずりあるって人はいないから! だから、暴れるな……体を、傷つけないでくれ」
「い、いない……? いない、ですか? もう、一緒にいなくて、いいのですか……?」
「あ、ああ……! いいよ、いいから」
記憶障害でも、幼児退行でもない。だってこの『――』の記憶には、明確に、確固たるなにかがあるのだから。
「別人でも、俺は、いいよ」
安心したのか眠りに落ちた妹の頭を、触れるか触れないかくらいの力加減で撫でた。
「お前が、生きてさえ、いてくれるなら。なんだって、いい」
誰がなんと言おうと、鏡の前で泣いていようと、『――』が大切な家族であることに変わりはないのだから。




