五十七話 エンドロール
「お兄さま、今日はこの本を読んでください」
「わかった。……って。これはもう読まなかったか? 新しい本じゃなくていいのか?」
「この本がいいのです。お兄さまが私のために初めて読んでくださった物語ですから」
『――』は献身的な兄に心を開いたようでよく懐いていた。
もともとメイナードやアルフレッドから距離を置かれていた彼女だ。兄を名乗り、甘やかしてくれる姿はさぞ魅力的で好印象なのだろう。
「『――』さん、リハビリの時間です」
「あ……」
本を読み終わったころ、看護師が顔をのぞかせる。
事故から数か月、『――』はリハビリができるようになるまで回復していた。いまだ、兄以外には慣れないようだが。
――お兄ちゃんが励まして、いつもの流れ。
それでも、自分の体が快方へ向かうのは悪い気はしない。実際、『――』は医療従事者の言うことを聞き、治療も大人しく受け、リハビリを拒否したことは一度もなかった。
「お兄さま」
『――』が兄をそう呼ぶことを好ましく思えなかった。彼女ではなく自分の兄なのだから。
けれど、よりどころを見つけたかのように、心の底から安心した顔で呼ぶようになった『――』を見ているうちに、ちくりとした胸の痛みはすっかり消えた。
むしろ今では、「がんばれ」と応援している自分がいるほどだ。
「『――』ちゃん」
入院を聞きつけてやってきたのは前世の友人たちだ。やはりもやがかかったようにのっぺらぼうだが、どうしようもなく胸の奥がきゅうと締めつけられた。
『――』は見知らぬ顔ぶれに戸惑いつつも、すぐに友人たちを受け入れる。その切り替えに、公爵令嬢であった彼女の面影を見た。
「『――』」
画面は何度か場面を変え、時間が経過していく。退院した『――』が家族と団らんしているところを画面は映し出す。
あれほど『――』の変貌ぶりに狼狽えていた母は、兄の懸命な説得により娘の変化を受け入れていた。
「お母さま。お父さま」
一般家庭には稀有な呼び方も訂正しようとはせず、多少のぎこちなさを残しつつも『――』の意思を尊重しているようだった。
――前知識もないのに。
自分にはゲームの世界に迷いこんだ自覚があり、誰が敵になりうるかなどの予測を立てられた。
『――』にはそれらが一切なかったはずなのに。
使用人のいる生活の癖がなかなか抜けないようだったが、異世界の帝国と現代日本とではまったく異なる文化だというのに、彼女は早いうちに適応してしまった。
そうして季節は巡っていき、画面のなかでは何年もの月日が経過していた。入れ替わったばかりの、怯えていた『――』はもういない。
大学も無事に卒業し、仕事にも就くほどの成長ぶりは、文字通り自分のことのように喜ばしい。けれど、言葉で言い表せられないようなしこりが心にあった。
――寂しい。
こちらの世界にいる家族や友人も大切であるように、現実世界の家族や友人もかけがえのない存在だった。
――でも、『アリステア』が孤独じゃなくてよかった。
家族や友人に囲まれる『――』は生き生きとしていて、とても幸せそうだ。
やがて、走馬灯のようでエンドロールのようなこれも終わりを迎える。
――さようなら、『――』。
画面の向こうでは、家族になる人と出会った『――』が映し出されていた。
純白のウェディングドレスとタキシードに身を包んだ二人が、花びらが舞う光のなかを歩んでいく。
二人の姿が光に消えるまで、喝采が響いていた。
◇◇◇
「え、も、戻ってきた!?」
目を覚ました瞬間、すっとんきょうな声が耳に入った。
「ご、ごめんなさい、わたくしったら。あなたが意識を失ったから、てっきりもとの世界へ帰ってしまったと思ったの。なにがあったのかはわからないけれど……たくさん、泣いていいのよ」
目の奥が熱く、視界が滲んでいる。涙をこぼすアリステアを、ラシェルはずっと抱きしめてくれていたのだ。
「う、あ、あああっ」
ラシェルの温かさに包まれながら、アリステアは泣きじゃくる。
『アリステア』が家族の愛情に触れ、幸せになれてよかった。そしてなにより、自分がこの世界から離れなくていいことに安堵していた。
「アリステア」
「はい、ラシェルさま。取り乱してしまって、ごめんなさい」
涙が引くまでラシェルは待ってくれていた。
「いいのよ。悪い涙じゃないものね?」
アリステアがうなずくと、ラシェルはふわりと微笑んだ。
「私、守られるわ」
「――」
「セオドアさまに、私の民も丸ごと、守ってもらうわ」
今度はラシェルが泣きそうだった。
「ラシェルさま、私」
ふいにラシェルが顔を上げる。その視線は階段に向いており、厳しかった目が驚きに染まる。
「間に合っ……いました、か?」
転がるように下りてきたのは、昏睡していたはずのエルヴェルトだった。目と目が合った瞬間、どうしようもなく胸が高鳴る。
「私、まだ夢を見ているのですか……?」
「奇遇ね。私も……ここは箱庭だったのかしら?」
アリステアとラシェルは顔を見合わせ、笑い合う。笑いながら、アリステアは止まったはずの、ラシェルは堪えていたはずの涙を溢れさせた。
「お二人とも大丈夫で――ぐっ」
エルヴェルトがふらりとし、アリステアとラシェルは慌てて支えに飛び起きる。
「大丈夫はこっちの台詞なのだけど!? あんなにも傷ついていたのに目を覚ますなんて! まだ治っていないじゃないっ」
ラシェルは精霊術を使いながらエルヴェルトを叱責する。
「無理してここまで来たのね?」
「死にはしません」
エルヴェルトの視線が泳いだまま、こちらを向く。
「精霊たちに叩き起こされ、教えてくれたのです。王女さまと公女さまがルミナラへ向かったと……」
「だからってどうして来たのよ」
「……二度と、公女さまに会えなくなると思ったのです。ここにいるということは、なにか……儀式を、しようとなさっていたのですよね?」
「あ、それは」
「そうよ。だからエルヴェルト、あなたは出ていって。それか隅で大人しくしていて。今は精霊術も満足に使えないでしょう?」
アリステアが口を挟む間もなく、話は進む。
「公女さまも、体調が万全ではないのではありませんか? 無理をさせられません」
「アリステアは公爵家で大事にされていたわ! ここまでの旅路だって、休息を取りながら安全に来たのだから。わたくしがアリステアに無理強いしているとでも言いたいの?」
「ま、まさか! ですが……危険、です」
「危険なことなどなにもないわ!」
強いて言うならば、このままでは見知らぬ体に魂を戻される危険はある。だが、『アリステア』がもとの世界で幸せになっているのなら、自分があちらへ戻る必要はない。
「ラシェルさま、私はもとの世界には」
「アリステアはもとの世界へ帰るのよ」
アリステアとラシェルの声が重なり、エルヴェルトの耳によく届いたのはラシェルの声だったようだ。
「もとの世界へ、帰る……?」
「十三年前、わたくしと儀式をしたでしょう。あれは、死者の魂を呼び寄せるためのものだったの。あなたは失敗したと思っていたようだけれど、成功していたのよ。完璧とは、言い難かったけれど」
最後、ラシェルの声が小さくなる。
――やっぱり、私は一度死んでいたのね。
呆然としたエルヴェルトが口のなかで「もとの世界へ、帰る」と同じことを繰り返す。
「アリステアの魂は本来、この世界には存在しないの。だから、もとに戻さないと――」
ラシェルの諭しがはたと止まる。
アリステアとラシェルの涙を引き継いだかのように、エルヴェルトが俯き、肩を震わせていた。




