四十九話 分水嶺
「ほしいものはほしい。それが摂理だもの」
それは黒い煙のようだった。イズリアルを包むようにまとわりついて、やがて形を成していく。
オルデンの顕現にぞわりと全身に鳥肌が立ち、血の気が引いていく。その存在を本能から嫌悪していた。
「いらなかったけれど、あの人は私のためにこれを必要としてくれていたのね。今、もらいましょう」
「がふっ」
黒い煙がイズリアルの口に入っていく。必死に引っ張り出そうともがいているが、実態がないようですり抜けていた。
「逃げるぞ」
「でも、イズリアルが……っ」
「知るかよ! ルミナラに行かなきゃいけないんだろ!?」
アリステアの目的はイズリアルと倒すことではなく、ルミナラ聖国にいるエルヴェルトのもとへ行くことだ。
メイナードに腕を引かれるが、動悸が治まらない。うまく呼吸ができなかった。
「そう。あれがほしいの?」
イズリアルの声で、イズリアルではないものが喋る。
靄のような黒い煙をまとったイズリアル――オルデンはじっとこちらを見つめていた。
「でも、あれはだめよ」
心臓をぎゅっと握られたような感覚があった。
そしてそれは、アリステアだけではなかったらしい。隣にいたメイナードも膝をついて胸を押さえ、転がっていた騎士たちも呻き声を漏らし始めた。
「忌々しい羽虫の協力者なのだから」
いたるところで悲鳴が上がり、地面をのたうち回るものもいる。
「ぅえっ」
寒気と吐き気に襲われ、がちがちと歯が鳴った。
「助けて、助けてえっ、死にたくないぃ」
「家に帰りたい! 妻に会いたい、娘に会いたい!」
「だからいやだったんだ! 騎士になんてなりたくなかった! くそ、本当だったら俺が当主になるはずだったのに、俺のほうが相応しいのに」
あちこちで悲痛な叫びが飛び交う。
「鬱陶しい。邪魔よ。その白銀はあれを思い出す。不愉快だわ」
つらつらと向けられる憎悪にアリステアは押しつぶされそうになる。
「まずはお前を消しましょう」
声を上げるよりも早く、アリステアはメイナードに拘束された。
「それは、いらないわ」
後ろから回された手はぐっと肩を押さえ、首筋にひやりとした刃を添えられる。
「お兄さま、やめてください!」
「……悲しかったんだ……母さんが、死んで……アリステアまでいなくなったから……俺は……」
「――」
「さびし、かった……? 俺は、どうして、あんな……っ。アリステア、俺、は……?」
メイナードの手はひどく震えていた。
「殺してしまいましょう。それがあるから悲しいのね。だったらなくしてしまえばいいの。かわいそう。無理をしているのね。欲望に正直になれば、幸せになれるのに」
畳みかけるようなオルデンにメイナードが低い声でうなる。
「お兄さま……」
メイナードの口からぽたぽたと血が垂れ落ちる。噛みしめる唇が切れたのだ。
「どうして? それはお前を苦しめるものなのに」
「だま、れ。俺は、アリステアは……くるし、み、なんかじゃ」
「どうして?」
「うるせえ!」
首筋に鋭い痛みが走る。メイナードの反抗とは裏腹に刃が肌を滑った。
「あ、あ……違う、アリステア、違う、俺は……っ。早く、血を」
「大丈夫です、お兄さま。これくらい、私は大丈夫ですから!」
錯乱するメイナードをアリステアは宥める。傷が痛い。だらだらと血が流れている感覚があった。
「大丈夫――」
光の柱が立っていた。皇宮を、玉座がある大広間をすっぽり覆ってしまうほどの光の柱。それがなにを意味するのか、アリステアは瞬時に理解する。
「俺が、お前を、殺すかよ」
「え」
ほっとしたのも束の間、アリステアは突き飛ばされた。
顔を上げたときには、メイナードは自分の太ももに剣を深く突き刺していた。
「な、なにして、お兄さま!?」
「これで俺は、追えない。早く行け。エルヴェルトを――ッ」
「愚かな人間。どうして、素直にならないの」
オルデンがぽつりと吐き捨てるように言う。
「それを望んでいないからです。たとえ体を支配し、操ることができても――心の根底にあるものまでは支配できない。捻じ曲げられない」
「あ……」
喉の奥から声が漏れる。
光の柱を伴って現れた白銀は目に眩しくて、視界がぼやけた。
「世界の均衡を崩すもの」
ぴたりと動きを止めたオルデンの足元から風が舞い、花びらを巻き上げる。
「エーヴェンタ――お前さえ、お前さえいなければ!」
キーンと耳鳴りがして、どこからともなく悲鳴が上がった。
「ごふっ」
白銀は盛大に血を吐いてふらついた。
「お前さえいなければ! あの男の愛は、今も、すべて! 私の!」
「偏りを均し、循環を正します。一度は出し抜かれましたが、もう二度と、あなたを見失わない。再び眠るのです、オルデン。あなたは人の地に、降りてはならない存在です」
「エーヴェンタ! 忌々しい人間が!」
オルデンに押し倒されたエルヴェルトが黒い煙に包まれていく。光は遮られ、弱くなった。
「エルヴェルトさま!」
アリステアは咄嗟にオルデンをはがしにかかる。けれど力は到底足りず、振り払われるだけで終わった。
「エルヴェルトさま、エルヴェルトさま! いやです、やめて、やめてよ、イズリアル! 目を覚まして!」
『祈って。力を貸して』
ふいに聞こえた声にはっとし、アリステアは目を見張る。
――死なないで。
両の指を組み、額に当てる。
「アリステア……」
「お兄さま、祈ってください……」
「祈るって」
アリステアは最後の力を振り絞り、倒れている騎士たちに精霊術を使う。
発狂していた騎士たちの声が治まり、正気を取り戻せば今度はメイナードから受けた傷にのたうち回っていた。
「なんでもいいです、願いを。精霊の力となるように祈りを捧げてください! ここが世界の分水嶺なのです!」
アリステアはひたすらにエルヴェルトの無事を祈る。精霊術師の王女に特別な存在だと言わしめた彼が、死ぬわけがないのだと。
「生きて、ください、エルヴェルトさま」
だらりと口から血が流れた。喉が焼けるように熱くなって、鼓動は激しさを増していく。
膝をついても祈ることをやめないアリステアの姿を見て、周りの騎士たちも両の手を組み始めた。
「死にたくない、死にたくない、まだ死にたくない」
「不甲斐ない。家族に顔向けできない……」
「領地のものたちの幸せを願うなら」
ぽつり、ぽつりと願いがこぼされる。そのたびに周囲のマナが濃くなっていくような気がした。
「ぅ、ぐっ」
「アリステア!」
メイナードがずるずると足を引きずってくる。オルデンから庇うように、先ほどとは違って優しく抱きしめられた。
「ごめん、ごめんアリステア! 俺が悪かったんだ。無視してごめん。アルフレッドと同じように肩を組んだらお前は泣いたから」
メイナードは叫ぶように謝罪を口にする。
「傷つけるのが怖くて、距離を取るうちにどう接すればいいかわからなくなって……俺が愚かだったんだ。ごめん、アリステア! こんな……お前を失いたくない! 精霊でもなんでも、助けてくれ! 俺に、罪を償う機会を……っ」
「おにい、さま。泣かないで、ください」
「な、泣いてない!」
アリステアはメイナードの頬をそっと撫でる。
――ごめんなさい、『アリステア』。あなたの分まで、私がこれからを生きるから。
寂しさを抱えたままこの世界から消えてしまった『アリステア』に哀悼を捧げる。ようやく得た機会をアリステアは噛みしめるように受け入れた。
「ああああッ、うるさい羽虫どもが!」
耳をつんざくような絶叫が響いた。
エルヴェルトにまとわりついていた黒い煙が、うちからあふれる光によって霧散していく。
「聞くに堪えない恨み言ですね」
罵詈雑言を浴びせながら、オルデンが倒れる。ごぼり、オルデン――イズリアルが黒い煙を吐き出した。
再び光の柱が立った。高く、高く、天まで届くほどに。




