四十七話 かわいそう
「初めまして、お嬢さま」
五歳になったころから一年以上の時間をかけて教育された主従関係を、ようやく口にする。真新しい使用人の服は自分のためにあつらえられたもので、少し重かった。
「お父さま……この方は?」
安全圏からこちらの様子を窺う令嬢こそがアリステア・ベルジック。自分がこれから生涯を捧げ、仕える主人である。
「この子は、今日からお前の身の回りを世話してくれる……イズリアルだ。諸事情で、うちで預かることになったんだよ」
彼女と初めて目が合ったとき、嫌いだと思った。
青みがかった白銀色の髪は物珍しさもあって目を引く。父親譲りの翡翠色の目は、まるで不審者でも見るかのように揺れていた。
言葉にするのは難しい。ただ、なんとなく、どこか、いやな感じがした。その正体が嫌悪感だということに気づいたのは、働き始めてすぐだった。
「お嬢さま」
徹底的に叩きこまれた礼儀作法と忠誠心。いくら名立たる公爵家のご令嬢とはいえ、慎重というには念入りすぎるほどで。
いっそのこと、早々に粗相だなんだと騒がれて、殺してくれたほうが楽になれるのではないかとさえ思った。
「とても、おいしいです。淹れてくれてありがとう」
目に見えて減っていない紅茶のカップを置いた彼女は、まったくおいしそうには見えない顔で平凡な感想をくれた。
――公爵令嬢が、使用人ごときの顔色を窺っている。
最高品質の温かな食事に、金に糸目をつけない高価な衣装と装飾を惜しみなく与えられ、父親だけでなく使用人からも愛される彼女が、どうして。
その疑問は、あっさりと解消された。
「あ、お兄さま……」
「っ……ほら、今日はやっぱり剣の稽古がいいって言っただろ?」
「勝負はお前の負けだった。約束を違える気か?」
ばったりと廊下で出くわした彼女の兄たちはこちらを一瞥しただけで、挨拶をする彼女などいないかのように行ってしまった。
「――」
きゅっと唇を噛みしめてうつむく彼女は兄たちから疎まれている。一目瞭然だった。
――哀れだな。
自分よりもかわいそうな人間がいることが心地いい。イズリアルの腹の底でじくりとなにかが疼いた。
◇◇◇
イズリアルは自分の運のよさを知っていた。一度や二度は偶然、三度目ともなれば必然である。
展望もなく無責任に繋がれた命は都合よく、思い通りに世界を回すようになっていた。イズリアルがお願いすれば、たいていの要望は通った。
「ついてこないで!」
けれど、どうにも彼女だけはうまくいかない。手籠めようにも相変わらず拒否され続け、けれど以前よりも態度は軟化していた。手応えは、たしかにある。
――もっと、孤立すればいい。
彼女が折れないのなら、周りの支えを崩すだけ。
――僕だけを。
イズリアルは彼女が唯一手に入れられないものに目をつけた。窺っていた機会は、向こうから転がりこんできていた。
ほんの少し藪をつついただけで、蛇は勢いよく飛び出した。
それはみるみるうちに毒を吐き散らし、彼女を蝕んでいく。
「お嬢さま。本日は雲一つない快晴です。ここのところずっとお部屋におりますから……たまには散歩でもしませんか? 先日、庭師が手塩にかけて育てていた花が開花したそうです。ぜひお嬢様にご覧になってほしいと」
やがて、傷つかないことを選んだ彼女は手の届くものを選ぶようになった。
「私に?」
「はい、お嬢さまに。いかがですか?」
少し迷ったあと、彼女は久しぶりに庭へと出た。
「見て、イズリアル」
彼女は羽ばたいていく蝶を見上げた。
「捕獲しましょうか?」
「え?」
どうやら間違えたらしい。彼女は信じられないとでも言うように眉をひそめた。
「……冗談です」
「なんだ。イズリアルも、冗談を言うのね」
ふっと表情を和らげた彼女の顔を、ぶわりと白銀が覆った。
「わあっ」
風になびいた髪がびたりと張りつき、彼女はわたわたとかきわけた。
「失礼します」
「イズリアル?」
「花びらが。じっとしていてください」
白銀に絡まった紫色の花びらをそっとつまむ。ぱっと手を開けば、それはあっという間に風に乗っていってしまった。
「ありがとう、イズリアル」
「いつでも僕を頼ってください。僕はあなたのためにいますから」
彼女は照れたように笑みをこぼした。
――歪だな。
きっと周囲からは仲睦まじく見えているだろう。献身的で健気な少年の思いが通じたのだと。
だが、越えられない壁が、埋められない溝が、自分たちを隔てていた。こうして笑っていても彼女は心を許していない。決して、踏みこませなかった。
「今度ね」
イズリアルはすっと意識を向ける。
「メイナードお兄さまが剣の大会に出るのよ」
「帝都で行われるのでしたね」
「そうよ。だから、アルフレッドお兄さまが、私も一緒にって」
「……はい?」
どくん、と心臓が大きく跳ねた。
「お兄さまが、誘ってくれたの。公爵家の一員として――」
彼女の話はまったく頭に入ってこなかった。
もしかして態度が軟化したのは、心のよりどころを見つけたからではないか。
――だめだ。
取りこみやすかった双子の弟だけでなく、兄のほうにも働きかけておくべきだったのではないか。
――僕よりも。
今からでも、間に合うだろうか。
――かわいそうでいてくれないと。
ぐるぐると思考があふれる。
「イズリアル? どうしたの? すごい汗――」
「行かないでください」
「え?」
「忘れたのですか? メイナードさまとアルフレッドさまはお嬢さまを邪険にされているではありませんか。きっとなにか企んでいるのでしょう。僕は不安です。お嬢さまが再び彼らに傷つけられないか」
彼女の手を握り、頼れるのは自分だけだと思い出せるように、精一杯しおらしいふりをする。
「でも……」
「きっと僕はついていけません。あなたの、執事なのに。僕を一人にしないでください。お願いします。どうか、行かないで」
「やめて……っ、お兄さまが誘ってくれたのだから!」
振り払われた手は、むなしく行き場を失って。
「お嬢さま……」
彼女だけ、思い通りにならない。
――どうして。
どろりと濁った感情が胸の奥で煮詰まっていく。
――どうして?
逃げていく彼女を追いかけて、必死にその手を掴む。
「やめてってば!」
なにもかもを失った、自分に与えられたものなのに。
――僕の。
自分のものにならないのなら、いらない。脳裏をよぎったその一瞬、イズリアルの指先からふっと力が抜けた。
「――ぁ」
抜け出そうと力んでいた彼女の体がぐらりと傾いて、ごっ、と鈍い音が響いた。
初めて、彼女から伸ばされた手を、ただ、見送った。
「――」
じわじわと彼女の白銀が赤くなって、地面に血だまりを広げていた。彼女の目から光が失われていく。
「あ、あ……ちが、ちがう。こんな、こと」
イズリアルは上着を脱いで、彼女の頭の下に敷く。医者を呼ぶため、踵を返したときだった。
「――え、ここどこ!?」
振り返れば、彼女は上半身を起こし、その目を丸くしていた。
「あっ?」
ふらり、再び彼女が倒れる。
「――」
きっと、幻覚だ。ショックのあまり、殺していないという思いが見せた幻だと、イズリアルはひたすらに走った。
それから、彼女が目を覚ましたのは三日後のことだ。
彼女が起きたとメイドから聞いて、イズリアルは不安でいっぱいだった。自分が、彼女を傷つけたことが露見することへの恐怖。
わき目もふらず、彼女のもとへと走った。
「いやだ、殺されるなんて……死ぬなんていや!」
メイドが閉め切らなかった扉の隙間から、彼女の声が漏れてきた。
――僕が殺そうとしたと思って。
早く口封じしなければとドアノブに手をかける。
「わけもわからず異世界に転生して、皇女の気分でいたずらに殺される!? 私がなにをしたの!?」
涙をこぼし、息を荒くする彼女は、まるで別人だった。
――いせかい? てんせい? こうじょ?
あの日、花壇の石に頭をぶつけた彼女が鮮明に蘇る。
「――もとの世界に、帰りたい」
その言葉を聞いた瞬間、彼女が自分の知るアリステアではないのだと理解した。
――じゃあ、あれはなに、彼女はどこへ……いや、そんなのもう、どうでもいい。
イズリアルはわんわんと泣く彼女に、その場をあとにした。
「僕の、僕だけの」
手放すものか。こんなにも心沸き立つものを。
――アリステアお嬢さま。
どこにも、帰さない。




