四十話 どうして?
ピシ、パリン。
その城は、すべてが石でできていた。
壁も、床も、天井も。切り出された石を積み上げただけで表面は不格好なのに、建造物としての機能はしっかりと果している。
けれど、壁際には粗末な焚火が置かれるせいでいつも煙が充満してしまう。だから、窓は全部割った。大きな窓があったこの部屋は一番風通しがいいが、城のなかはずっと煙たい。
「オルデンさま……」
ここ数日、騒がしかった。
「息を、していません」
男が言った。その両腕に抱えた赤ん坊はずっと泣き喚いていたのに、とうとう静かになったらしい。
「助けてください……私たちの子を、たすけて」
男が膝をついた。
「どうして?」
「へ」
「それは、あなたに必要なもの?」
男と同じように膝をついて、目線を合わせる。
目を見て笑ってくれたから。同じようにした。
「なぜ、そのようなことを、おっしゃるのですか。あなたと、私の子なのに……」
うつろだった男の目に光が灯る。それは、怒りだった。
「どうして? どうして怒るの?」
「私を愛していると、おっしゃってくれたのに……」
「ええ。愛しているわ。あなたは私のものよ。私が唯一、愛する人」
再び、男の目から光が消える。怒りはなくなった。
「だったらこの子も、愛してください……。あなたの力で、救ってください」
差し出された赤ん坊の首ががくんとなり、こちらをじっと見つめた。黒い髪に、灰色の目。金色の髪に、金色の目ではない。男とは、似ても似つかない赤ん坊。
「どうして?」
「――」
「それは私の胎から落ちたけど、あなたでも私でもないわ。どうして私が、それを愛さないといけないの? 私の愛は、あなただけのものなのに」
男の頬を撫でると、口の端がぴくりと上がった。やっと、笑ってくれた。
「あなたも私を愛しているのだから。それはもういらないでしょう?」
「――」
「あなたの愛が、別のものにも分け与えられるのは、許せない」
男はなにも言わない。愛していると、いつだって囁いていたのに。
「――残念です、オルデン神。アステリオン殿」
男がはっと顔を上げ、窓の外に顔を向ける。バルコニーに、月光を背負った白銀の男が立っていた。否、月光だけではない。忌々しいものたちを引き連れている。
「エーヴェンタ殿……?」
男が掠れた声で白銀の名を口にした。どうして、他人の名を口にするのか。
「あ、ああ……っ」
男は床に頭を叩きつけて、ぼたぼたと涙をこぼした。床には赤色の混じった染みがじわりと広がる。深い悲しみと後悔だった。
「わた、しが、私が、間違っていました! 助けて、ください」
「どうして?」
「本当に、死んでしまいます……っ。私はどうなってもかまいません。この子だけでも、救ってくださいませんか!」
「どうして?」
男の目に、オルデンは映っていなかった。他人のことなど、見向きもしなかったのに。
「私が間違っていたのです! 目が覚めました! 私の目が、曇っていたのです! どうか、どうか!」
「どうして?」
それは、拒絶だった。
「愛し合い、夫婦として二人だけで生きていくのなら、精霊も目を瞑りました。だが、あなた方は子を成した。神と、人の子を。あなた方は一線を越えました。再三の忠告を受け入れず、欲望のままに生きることを選んだ」
白銀のまとう光が増していく。
「――どうして?」
ただ、愛しているだけなのに。ほしかっただけなのに。
「オルデン神。世界の均衡を崩すもの。あなたはこの地に、人の地に、降りてはならない存在だった」
「やめろ、やめろ! 忌々しい羽虫どもめ!」
「恨むなら、僕を恨んでください」
「エーヴェンタ――ッ!」
「……この命をもって」
稚拙な石の城に光の柱が立った。高く、高く、天まで届くほどに。
◇◇◇
「はっ」
「お目覚めですか?」
「おるで……っ!?」
「ああ、白々しい茶番はおしまいですか? やはり僕がオルデンの末裔であることをご存じなのですね」
夢のなかで見たオルデンとイズリアルは瓜二つだった。
――吐きそう。
あれは、この世界であった過去なのだろうか。
「……僕は、お嬢さまが精霊術師だろうとかまいません」
「え」
「精霊術というのでしたっけ。正直あれは苦しいですが、耐えられないわけでもないですから」
だから使っても無駄だと言うようにイズリアルは微笑んだ。
「ま、間違っているわ」
「間違っている? なにがでしょうか?」
「殿下に復讐したいのでしょう? でも、だめよ。殿下はとても強くて」
「やめてください」
すう、とイズリアルは目を細める。
「皇太子のことなど聞きたくありません。それに、復讐など考えていませんよ」
「じゃあ、なんで、こんなこと」
「僕はお嬢さまがそばにいてくれたらそれでいいのです。すべてが終わるまで、ここで待っていてください」
「どういう……待って、どこに行くの?」
「お水をお持ちします。喉が渇いたでしょう? くれぐれも大人しくしていてくださいね。手荒なことはしたくありませんので」
その日から、アリステアは軟禁状態となった。部屋から出ることは許されず、身支度は無口なメイドに淡々とされる。
「今日はどうなさいますか?」
「なにもしないで」
「では、梳かすだけですね」
着替えや化粧が終わると、イズリアルは必ず髪を整えにやってきた。必要ないと言っても最後の仕上げは譲らないらしい。
イズリアルは日がな一日、アリステアについていた。
――『アリステア』の気持ちが、今なら理解できる。
壁際に立ち、静かに命令を待っているイズリアル。自分の家、自分の部屋なのに、どこか閉塞感があった。
「お嬢さま。そろそろお食事をとられませんか? ここ二日、水しか飲んでおられないでしょう」
「いらない」
もとからいる使用人だけでなく、オルデン教の信徒も混ざっているのだ。食事になにか混ぜられる可能性だってある。
「そうですか。では、仕方ありませんね。料理人は全員解雇しましょう」
「どうしてそうなるの」
「仕事がないのですから、いなくてもかまいませんよね?」
アリステアは唇を噛む。
「勝手なことしないで。この家の主人はあなたじゃない」
「もちろん。僕の主人はお嬢さまです」
当然だというようにイズリアルはうなずいた。
「では、お食事を用意しましょうか?」
「……オルデン教の信徒にはなにも触れさせないで」
「承知しました」
甲斐甲斐しく世話をされ、錯覚しそうになる。
――忘れないで。
アリステアは今、軟禁されている。イズリアルは懐柔するため、親切に振る舞っているだけだ。目的が達成されれば殺されてしまうかもしれないのだから。
「なにか必要なことはありませんか?」
「外に出たい」
「それ以外でお願いします」
「だったら聞かないで」
何度、同じやりとりをしただろうか。極度の緊張状態のなか、たった数日で頭がおかしくなりそうだった。
「お嬢さま」
どれだけ冷たく拒絶しようと、イズリアルがあまりにも幸せそうに従事するから。
――ほだされてはいけない。
今は、この時間を耐え忍ぶしかない。助けは望めない。
メイドが部屋に来る時間。騎士が庭を巡回する時間。イズリアルが席を外す時間。すべてを、ひたすら頭に叩きこむのだ。
「今日は、どうなさいますか?」
今日も、恍惚と髪をすくうイズリアル。数多の生物を堕落させたというオルデンの姿と重なった。




