三十七話 思い通りに世界は回る
「うぐっ!」
突然呻いたイズリアルがふらりと下がり、胸を押さえた。
「ど、どうしたの!?」
痛みにあえぐイズリアルの表情には戸惑いと苦しさが混じる。
「ああ、どうしよう。大変だわ! こんなに苦しそうにして……やっぱりまだ体調が万全じゃないのね」
「お嬢、さま……まって」
「すぐに医者を呼ぶから。あなたはここで安静にしていて」
イズリアルの返事を待たず、アリステアは駆け出した。
どく、どく、と心拍数が上がり、呼吸が浅くなるのは走っているだけが原因ではない。
――精霊術は、浄化の力を持つって言っていたじゃない。
意図した発動ではなかった。精霊の声に驚いて、反射的に使ってしまった精霊術は、言い訳すれば事故のようなもので。
――精霊術で傷つくなんてありえない!
アリステアは通りがかったメイドに医者を手配するよう頼み、自分の部屋に閉じこもる。
「エルヴェルトさまは……ううん、探しているうちにイズリアルと鉢合わせたら」
アリステアは扇を取り出す。
「ラシェルさまを、頼ろう」
ベッドに横になり、扇に精霊術を使う。くらり、意識が遠のいた。
はっと意識が戻ったとき、あたりは暗闇に包まれていた。手足の感覚はあるのに、目では確認できない。
「なに、これ……? 誰か、ラシェルさま、いませんか!? 精霊術師の方は、いませんか!?」
たしかに扇に精霊術を使い、箱庭へ入ったはずだ。けれどここには、音も、においも、風もない。
まったくの無である。
そのとき、ピシ、とひびが広がるような音がかすかに鳴った。
「なん、だっけ……?」
聞き覚えがある。懐かしい気さえした。けれど、思い出せない。
「今度はなに――」
パリン、となにかが割れる音のあと、青白い光が顔を照らした。
「……え?」
それは、前世で何度も見たゲーム画面。
「ひっ」
それは、『アリステア』が命を落とした瞬間を切り取ったもの。
「やめて、やめてよ」
一枚目、疑いもせず毒を飲み、死んだ。
二枚目、ともに崖から飛び降りて、死んだ。
三枚目、信じていた人に剣で胸を貫かれ、死んだ。
四枚目、濡れ衣を着せられて断頭台に乗せられ、死んだ。
五枚目、六枚目、七枚目――数えきれないほど、ピシ、パリン、と、前も後ろも右も左も上も下も、視界一面を覆いつくすほどに、死亡スチルが増えていく。
「もう、やめて……『アリステア』を殺さないで!」
喉が嗄れるような絶叫がむなしく響く。
ピシ、パリン。
◇◇◇
「初めまして、『お嬢さま』」
この世界をゲームだとアリステアが認識するよりも前の、二人。
「お父さま……この方は?」
父の背中に隠れ、足にしがみつく『アリステア』は不安げな表情で少年を見つめ、翡翠の目を潤ませる。
「この子は、今日からお前の身の回りを世話してくれる……『イズリアル』だ。諸事情で、うちで預かることになったんだよ」
敬意もなければ興味もない。それどころか、感情すらないように思えた。灰色の目に光はなく、立ちこめる煙のように、絶望に濁っている。
『アリステア』は、据わったその目が恐ろしかった。
「『お嬢さま』」
その日から、『イズリアル』は朝から晩まで『アリステア』についていた。『アリステア』が丁寧に拒否しても、『イズリアル』は仕事を理由に追いかける。
息をつく暇も、なかった。
「もう下がってくれる?」
あえてつんけんした態度をとったこともあったが、『イズリアル』は顔色を変えることなく執事としてぴったりと寄り添った。
後ろで足音が響くたび、歩く速度を上げた。
紅茶を淹れられるたび、目を離さなかった。
『お嬢さま』と呼ばれるたび、息を止めた。
「ついてこないで!」
ついに、気の休まらない日が続き、『イズリアル』に叫んで肩を押した。『アリステア』ができうる最大の意思表現であった。
叩いた手のひらはじんと痛んで、罪悪感から目尻には涙が滲んだ。
「ひ」
はっきりとした拒絶に、『イズリアル』は目を細めて満足げに笑うだけ。その瞬間、灰色の目にひどく危うい光が、たしかに灯る。
『イズリアル』の目が、怖かった。油断すれば取りこまれてしまいそうで、ずっと、『アリステア』は怖かった。
ピシ、パリン。
◇◇◇
「お前、『アリステア』に近づくなよ!」
びし、と十歳前後の『メイナード』がまだ新しい燕尾服に身を包んだ『イズリアル』に指先を向ける。
「申し訳ありません」
「お……も、物分かりがいいんだな、お前。じゃなくてっ。いいか、もう『アリステア』につきまとうな!」
ふん、と鼻を鳴らした『メイナード』は「兄貴の俺が守ってやらないと」と口のなかで言った。
「髪を結んでやるのも、本当は……俺の役目なんだから。お前、明日からしなくていい」
「ですが僕は、公爵さまに『お嬢さま』の身の回りのお世話をするよう仰せつかっています。それも僕の役目です」
「なっ」
「そもそも、『メイナード』さまは『お嬢さま』を避けられていますよね?」
図星を突かれ、『メイナード』はばつが悪そうに眉をひそめ、たじろいだ。
「それどころか、嫌っているのではありませんか?」
「は? そんなわけないだろ!」
『メイナード』は『イズリアル』の肩を両手で掴み、どん、と壁に押しつけた。
「言っていいことと悪いことの区別も――」
「だって、『お嬢さま』がお生まれにならなければ、今もあなたはお母さまと一緒にいられたのに」
痛みに顔を歪めることもなく、『イズリアル』は淡々とそれを口にする。
「『メイナード』さまは『お嬢さま』……『アリステア』を疎ましく思っている。『アルフレッド』さまも同じでしょう」
「『アルフレッド』も……? いや、違う、俺はっ」
「顔に出さないだけで、心のなかでは思っているのではありませんか? 『アリステア』さえいなければ……家族は家族のままでいられたのに」
『メイナード』はぎりりと肩に指先を食いこませ、ぶつぶつとなにかを繰り返す。
「お母さまを奪われて、悲しかったでしょう? お母さまを奪われて、寂しかったでしょう? お母さまを奪われて、苦しかったでしょう? お母さまを奪われて、つらかったでしょう? お母さまを奪われて――」
「お母さまを、うばわれ……?」
「憎いでしょう?」
ぞわり、『メイナード』は背筋が這うような悪寒に襲われた。
「『アリステア』が、うば……奪った……?」
「もう、大丈夫です」
「は? 大丈夫って、なにが」
『イズリアル』は肩に置かれた手に、優しく触れる。
本能的に、それが最善だと感じていた。
「かわいそうに。無理をしないで。自分の心に、正直になって。『お嬢さま』には僕がいますから、『メイナード』さまが話しかける必要も、笑いかける必要もありません。僕があなたの代わりに、そばにいますから」
だから、嫌いな相手に取り繕う必要はないのだと、『イズリアル』は囁いた。
「そう、か……? ああ、そうだよな? なんで俺が……お母さまを奪ったやつと仲よくしなくちゃいけないんだ?」
苛立たしげに舌打ちした『メイナード』とは対照的に、同意するようにうなずいた『イズリアル』はふわりと微笑んだ。
だって世界は、面白いほどに『イズリアル』の思い通りに回るのだから。
ピシ、ピシ、ピシ、パリン。




