三十五話 本当は
「まさかこのまま別邸に残るつもりじゃないだろうな?」
狩猟大会から数日、ベルジック家の面々は別邸に留まっていた。
公爵は政界から離れているため、会議と称した宴会へここぞとばかりに引っ張りだこで、アルフレッドも何度か顔を出している。
メイナードは狩猟大会の後始末に奔走しており、アリステアは長年暮らした別邸の住みやすさにだらりと過ごしていた。
「先に帰ろうとする私を引き留めたのはお父さまではありませんか」
アリステア以外には別邸へ残る理由がある。一人で本邸へ帰るよりも家族のそばにいるほうが安全だと考え、公爵の願いに便乗した形だ。
「今日は予定がないのですか?」
「なんだ。先にいたのは私だったはずだが」
暇つぶしにふらりと入った図書室には先客がいた。お互いに存在を認識しても特に挨拶をすることもなく、しばらくページをめくる音が響いての今である。
「そういえば、メイナードお兄さまが捕まえたあの鳥はどうなさったのですか?」
「あれならばお前が席を離れたあと、声をかけてきた令息に譲った。運営の一人が獲得するより、純粋な参加者の手に渡ったほうが建設的だからな」
「そうだったのですね。その令息も想い人へ譲渡したのですか? それとも自分で飼おうと?」
「来月、他国へ嫁ぐ姉への餞別にしたいだそうだ」
温かく、穏やかな声だった。
――まるで別人ね。
出会ったころの険はすっかりなくなり、狩猟大会の一件を経てからは向けられる表情も態度もさらに柔らかい。
こうして自然に会話できるようになったことには感動するくらいだ。
それもあり、アリステアの胸中には大きな不安が一つ、際立っていた。
――イズリアルのことが、頭から離れない。
恋焦がれているわけではない。イズリアルもアルフレッドと同様、狩猟大会後から変化があったように感じる。
これまでは必ずと言っていいほど一日に何度も顔を合わせていたが、そばにいるどころか姿を見ない日まであった。
体調もだいぶ回復したようだが、それでも心配と不安は残る。
「公女さま。こちらにいらっしゃると窺ったのですが……」
ノックのあと、扉を開けたのはエルヴェルトだった。彼もまた、別邸に留まっている。
狩猟大会のために放たれ、狩られなかった動物を、メイナードを筆頭としたベルジックの騎士が回収するまで精霊術を維持するためだ。
ほかの精霊術師はセオドアがすでに連れて帰っていて、作業はエルヴェルト一人で行っているらしい。
「アルフレッドさまもいらっしゃったのですね」
「作業は終わったのか? メイナードのペースに合わせず、適度な休息をとるように」
「ご心配ありがとうございます。リストと照らし合わせながら、動物の回収は完了しました」
「そうか。ご苦労だった」
会話の区切りがついたところで、エルヴェルトはアリステアを向く。
「公女さま、お時間をいただけないでしょうか? お伝えしておきたいことがあるのです」
「私はいつでも大丈夫です。作業が終わったのなら、近いうちにメイナードお兄さまと帰ることになりそうなので、今からはいかがですか?」
「では、よろしくお願いします」
アリステアはエルヴェルトを連れて庭園に出る。
主人がいなくても、別邸の庭師は最高の仕事をしてくれていたようだ。
「ここなら開けているので誰かが近づいてきてもすぐに気づきます。使用人が通っても声も届かないでしょう」
「ご配慮に感謝いたします。殿下から襲撃のことを詳しく聞きました。狙いは殿下だったようですが、災難でしたね」
「殿下が助けてくださいましたので大事には至りませんでした。狩猟大会も無事に終わりましたし、しばらくは静かに過ごそうと思います」
エルヴェルトはこくりとうなずいた。
「そうですね。しばらくは……自分の身を第一に行動されたほうがよいでしょう」
神妙な面持ちのエルヴェルトに、じわりと不安が広がる。
「手を、触れていただけませんか?」
「わかりました」
差し出された手に、アリステアは手を重ねる。
「今からマナを流します」
少しだけ体が強張ってしまう。エルヴェルトは苦笑したあと、「いきます」とつぶやいた。
体中にマナが巡る感覚がする。くすぐったさはあるが、不快感はない。
『オルデンに気をつけて』
精霊の声が聞こえ、アリステアははっとエルヴェルトを見上げる。
「ここのところ、精霊は同じことを繰り返します。もし、万が一にも、封印が解かれるようなことがあれば……公女さまは迷わず逃げて、隠れてください」
「え?」
「公女さまは、生きてください」
エルヴェルトは泣きそうな顔で笑った。
「な、なぜ、そのようなことを? それでは、まるで……」
死ににいくようではないか。
封印が解かれるということは、ラシェルの身が危うく、エルヴェルトも太刀打ちできなくなったということなのだろう。
「これほど精霊が警告したことは過去にないのです。なにかが起きていることは間違いありません。……これはあくまで私の勘ですが、どこかで風向きが、変わった気がします」
エルヴェルトはラシェルとともに、オルデンに最前線で抗う精霊術師だ。
失うかもしれないと思った瞬間、胸の奥がつきりと痛む。
『災難でしたね』
命の危機を、たったそれだけで片づけるようになってしまうほど、エルヴェルトは麻痺している。いっそのことみんなで逃げてしまえばいいと思ってしまう。それが、今も戦い続ける精霊術師にどれだけ失礼なことだとわかっていても。
「オルデンとは……それほど」
言葉が続かず、息が詰まる。
「仕方ありません。オルデン教の信徒にとって悪は私たちですから」
「世界の、ためなのに」
「公女さま。私はしばらく、エレスト帝国を離れることになります。私のことを……忘れないで、ほしいです」
「――」
「だから、私は今から、ずるいことをします」
ぐっと奥歯を噛んだエルヴェルトに翳りがさす。
「以前、母が私をドゥーカス侯爵夫妻に託し、快く受け入れてくれたと言いましたね。……本当は、違うのです」
エルヴェルトの顔色は心なしか白く、紫紺の目もどこかうつろである。
「本当は……母が、ドゥーカス侯爵夫妻が乗る馬車の前に飛び出し、命と引き換えに、私を託したのです」
「……え?」
「私の両親は精霊術師でした。二十年前、オルデリア王国からの侵攻から、母は逃げたのです。最初は戦っていました。ですが、勝機を見出せなくなると、私を抱いて逃げ出しました。その後、父は、聖国とともに眠りにつきました」
平坦な声だが、隠し切れない震えがあった。
「すべては精霊から教えてもらったことです。この国へ亡命した母は、馬車に乗っているのが帝国の有力貴族であることも知ってうえで、命を懸けたのです。狙い通り、侯爵夫妻は罪悪感から私を引き取り、育ててくださいました」
これがエルヴェルトの闇だと、アリステアは直感する。
紫紺の目はほの暗く、罪悪感で濁っていた。
「公女さまにも言いましたね。我々は誰を犠牲にしても生きなくてはならないと。私は、侯爵夫妻の優しさを踏みにじり、犠牲にし、生き延びました」
「エルヴェルトさま……」
そんなことはないと否定するのは簡単だ。けれど、それではエルヴェルトは救われない。心はちっとも軽くならないだろう。
「そのようなことを私なんかにお話ししてくださり、ありがとうございます。正直、かける言葉が見つかりません」
「ええ。でも、忘れられないでしょう? たとえあなたに軽蔑されようと」
「だから、覚えています。エルヴェルトさまがお話してくださったこと、心を打ち明ける相手に選んでくれたこと、うれしく思います。忘れません」
「――」
「だから、エルヴェルトさまも生きてくださいね。私もいつか、心を打ち明ける相手が必要になるかもしれませんから」
「……ああ、あなたは、本当に」
流れるマナは、ずっと温かかった。




