三十三話 ほしい
「運命ってー、信じますかー?」
時間はさかのぼり、正午。
イズリアルが鉛のように重い体に鞭打って給仕をしていたところ、グラスを渡した男にそう問いかけられた。
それなりに身なりのいい若い男だ。にこにこと無垢な笑顔を浮かべていて薄気味悪い。
「……信じますよ」
こんなにも体調不良が続いたことはなく、判断能力も少しばかり鈍っていた。適当にあしらえばいいものを、正直に答えてしまった。
ただ、その問いに嘘をつきたくなかったのかもしれない。
「失礼します」
「あー、待ってくださいー」
一礼して踵を返したところ、肩を掴まれた。なかなかの力に足を止めてしまう。
「僕もー、信じていてー。だってー、まさか会えるなんてー、思わないじゃないですかー」
男の白い歯がのぞいた。
「ねー、オルデンさまー?」
ぞわりと鳥肌が立つ。肩の手を振り払っても、男はにこにこと笑うだけ。
「ついてきてくれますかー?」
アリステアは昼食のために天幕へ戻っている。公爵も一緒のはずだ。
ならば、男の興味がそちらへ向く前に、処理してしまったほうがいい。だから、イズリアルは従順なふりをして男についていくことにした。
自ら、ひと気のない場所まで案内してくれるのだから。
しばらく森を進むと、男が手を大きく振った。
「連れてきたよー」
涼やかな小川のほとり、ローブの人物が待っていた。当然、背中の紋章はオルデン教のものである。
「はー、落ち着くー」
ローブの人物から同様のローブを受け取った男は、嬉々として袖を通した。
「お目にかかれて光栄です、我らが神。オルデンさま」
そう恭しく頭を垂れ、身を起こす。その動きに合わせてフードが外れ、しわがれた老婆の素顔があらわになった。
「僕をオルデンと呼ぶのはやめてください。不愉快です」
「なんとお呼びすればよろしいでしょうか?」
「あなた方に名乗る名前はありません」
「では、好きに呼ばせてもらいましょう」
食えない老婆である。引き続き『オルデンさま』と口にした老婆は、男に顔を向けた。
「お前は周囲を監視していなさい」
「わかりましたー」
老婆は大きな石に座り、腰をさすった。
「オルデンさまもさぞおつらいでしょう。座ってお休みください」
平常心のつもりでいたが、体調不良を見抜かれたらしい。正直、動かずにこうして立っているだけだとかなりしんどかった。
だが、オルデン教の信徒の言うことなど素直に受け入れられるものでもない。イズリアルは近くの木に背中を預け、腕を組んだ。
「なんの用があってあなた方は僕に近づくのですか?」
老婆は顎をさすって思案する。
「あなたはなにも知らないようですな。それとも知らないふりをしておいでで? であるならば、なにも恐れることはございません」
老婆は静かに目を伏せた。
「十五年前、オルデリア王国はエレスト帝国の皇子よりしかけられた争いの末、じわじわと滅びの一途を辿りました。その最後が、どのようなものだったか……ご存じですか?」
「知るわけがないでしょう」
「ええ、ええ。そうですとも。あのとき、あなたはとっくに逃げ出しておりましたから」
どこか満足げな老婆に、イズリアルは眉間にしわを寄せる。
「その事実を知ったのは敗走を余儀なくされ、さらに時間が経ってからのことでしたが。御身の存在をこの目で確認し、運命だと思いました。我々にはまだ、神がいたのだと」
老婆の話は頭の痛みをひどくした。ずきずきと鋭さを増すそれは、底にしまっていた記憶を刺激した。
かすかに残る、もっとも古い記憶。誰かの腕に抱かれ、揺られ、ひたすらに「大丈夫」と、大丈夫には見えない表情で声をかけられ続けた。
誰かの腕に抱かれる前、母は泣いていた。泣くくらいならば、手放さないでほしいと幼心に思ったのではなかったか。
「あの方々の最期は、それはあっけないものでした」
老婆の冷ややかな失望に、再び記憶に蓋をした。
「オルデンさまより受け継がれた欲を支配する力を扱いきれず、あまつさえ己の欲に溺れて死んでいったのだから。実に嘆かわしい」
忌々しそうに、老婆は体を震わせる。
「だが、あなたはどうだ!」
「――」
「あの戦火を生き延び、エレスト帝国の公爵家に取り入るとは……ああ、あなたこそが王だった。あなたこそが……我々の神にふさわしい!」
老婆はよろよろとこちらに歩み寄り、その目を爛々と輝かせた。
「オルデン神の末裔よ、オルデン神の現し身よ!」
「……ご期待に沿えず申し訳ありませんが、僕は王でもなければオルデンでもありません。あなた方の妄言で、戦争の首謀者に担ぎ上げられるわけにはいきませんので」
「ぐっ」
イズリアルは今にもひざまずきそうな老婆の首に手をやり、力を入れる。苦しそうに腕を掴まれるが、この枯れ木のような体で逃れられるものか。
――くだらない話などに耳を傾けず、さっさと殺せばよかった。
老婆から力が抜けていくのを感じたときだった。
「教祖さまー。見てー。帝国のー、皇女さまー!」
「きゃあ! 痛い!」
あの男が、皇女を連れ立って戻ってきた。後ろ手に拘束された皇女だったが、イズリアルをその薔薇色の目に捉えると動きがぴたりと止まる。
信じられないものでも見るかのような目を向けられたのは心外だ。だが実際、目を疑うような光景ではあるだろう。
「げほっ」
老婆がどさりと手から落ちる。
「あれー? 喧嘩ですかー? まー、そういうこともー、ありますよねー」
「あなた、オルデン教と繋がりが……?」
なぜ、こうも厄介な事象は重なるのか。イズリアルは頭だけでなく、胃まで痛くなるようだった。
「こ、れは……反逆よ。かのベルジック家がオルデン教と結託し、エレスト帝国へ反逆を謀るなんて!」
皇女のなかで、かなりまずい妄想が広げられている。
アリステアが皇太子と距離を縮めたことも、イズリアルが過去に皇室の騎士から剣を習っていたことも、公爵や公子たちが他勢力と結びつかないことも、反逆のための布石であると。
――皇女も、やむを得ない。
自分だけならまだしも、ベルジック家にまで嫌疑をかけるのなら、オルデン教の信徒と一緒に始末したほうがいいだろう。
皇女はオルデン教の信徒の襲撃に倒れ、その場に居合わせたイズリアルがオルデン教の信徒を討つ。陳腐なシナリオだが、目撃者もいない以上、真実の追及など不可能である。
「どうしますかー?」
「この不敬者、痛いと言っているでしょう!?」
「オルデン、さま……」
男と老婆はそろってこちらを見る。
――全員、殺そう。
こうも痛みが引かない頭では、複雑なことを考えられない。イズリアルが辿り着いた結論は、先ほど思いついたシンプルなシナリオの実行だ。
「まず、彼女には不運な事故に見舞われていただきましょう」
「なっ」
「そうこなくっちゃー」
男は容赦なく皇女に膝をつかせる。
「いっ……待ちなさい! 私を手にかけたらどうなるかわかっているの!? 私はこの国の皇女なのよ!?」
皇女殺害の罪はオルデン教の信徒に擦りつける。無傷ではいられないが、致命傷でも耐えられるのなら問題ない。
慈悲深いアリステアなら、救いの手を差し伸べてくれるだろう。
「あなた、公爵令嬢に恋慕を抱いているのでしょう? 私なら、それを成就させることもできるのよ」
命がけの挑発。けれど、即座に聞き流せるほどの余裕はなかった。その隙を見出したのか、皇女はにやりと笑う。
「私ではなくお兄さまを……皇太子を殺しなさい! 私が王になれば……あなたに爵位を与えることだってできる! 公爵令嬢が皇太子妃になることもなくなるの!」
冷遇される皇女になにができると一蹴すればそこまでだが、彼女が皇族であることには違いない。
『俺が主催で、公女が運営の一人でなければ、此度の狩猟大会優勝者の座はあなただっただろう』
皇太子の台詞がありありと脳裏によぎる。
自分には、狩猟大会に参加する権利すらない。この先だってアリステアの人生の中枢には踏みこめず、せいぜい盾となって死ぬだけが誉れだろう。
そこに、ほんの少しの同情を。いや、果てしない悲しみに暮れてほしい。ふとしたときに思い出し、つらくなってほしい。そうして、アリステアの心のなかで生き続けて――。
――本当に?
たったそれだけの感情で、いいのか。
いずれ、アリステアは立ち直り、前を、上を向く。あつらえられた幸せな人生を歩むなかで、イズリアルのことなど忘れていくだろう。たかだか数年、十数年を哀れまれるだけで、満足などできるわけがない。
――ほしい。
アリステアがほしい。ずっと前からほしかった。もう二度と、失いたくない。離れないでほしい。
「オルデンさまー? 殺しますよー? もしかしてー、迷っていますかー?」
「私なら、皇宮内への手引きだって可能よ!」
イズリアルはあらゆるものを天秤にかける。それでも、いつだって重きに傾くのは。
「忘れたの? ここは精霊術師と、それに追随して皇室騎士団が包囲しているのよ。私を殺せばすぐにばれる。そうしたら、二度と公爵令嬢には会えなくなるわよ!」
ずきん、と頭が割れるように痛んだ。
「皇女殿下を解放してください」
「ええー!?」
「賢明な判断ね」
イズリアルは目を閉じる。瞼の裏には、アリステアの姿が描かれた。
「――欲を支配する力とやらについて教えてください。この僕が、上手に使ってみせましょう」




