三十二話 気がした
「どこに行っちゃったの?」
最終日の午後、イズリアルが姿を消した。天幕群にはおらず、あとは森のなかだろうと探しに来たところである。
「体調が悪化して倒れていたらどうしよう?」
すれ違う参加者に尋ねてみても、イズリアルらしき人物を目撃したという話は聞かない。
「イズリアル! どこにいるの? いたら返事をして、イズリアル!」
どれだけ呼んでも返事はない。
「迷子になっていたら……遭難ってことも!?」
ただでさえ体調不良のイズリアルだ。力尽きて動けなくなっている可能性もある。
「な、なに!?」
もう一度叫ぼうと口を開いたとき、どこからかひゅんという音が響いてきた。それは一回で終わらず、何度も、何度も続いた。
――近くで誰かが弓を射っている?
獲物を追っているのかもしれない。アリステアは木の陰に隠れ、身を低くした。万が一にも間違われないためだ。
『上質な毛皮と間違われて弓をつがえられないよう用心しろ』
皇太子の冗談が現実味を帯び、肝が冷える。
「だ、誰か近くにいるのですか? 人が、ここにいます。矢を打たないでください!」
木々を抜け、切迫した声が反響する。風を切るような音がやみ、気づいてもらえたのだと思った。
「……っ」
アリステアは木の幹に背中を預け、咄嗟に息を殺した。
――こっちに来ている? なんで声をかけてくれないの!?
木を挟んだ向こうから、落ち葉を踏みしめるような音がだんだんと近づいてくる。
――怖い!
誰かが一直線に走ってきていた。
ただ一言、声を返してくれたらいいのに。アリステアは口を押さえ、ぎゅっと目を瞑った。
「公女!?」
どうか見つかりませんようにと祈ったところで、だん、と木が揺れた。
はっとして顔を上げると、驚きに満ちた表情のセオドアがのぞきこんでいた。
「殿下……? お、驚かさないで――」
「なぜここにいる!? 今すぐこの場から離れろ!」
「え、きゃっ!?」
「チッ」
舌打ちとともにばさりと頭から布をかぶせられ、浮遊感に襲われる。それから激しい揺れに、抱き上げられ、走っているのだとわかった。
「殿下、殿下!? ……ぷはっ」
頭だけでも布から脱する。アリステアを覆っていたのはセオドアの飾り布だった。
「できるだけ丸まれ。俺の陰から体を出すな」
「降ろしてください! なにをなさるのですか!?」
「死にたくなければ大人しくしていろ!」
セオドアの緊迫感に身が縮む。
「なっ」
「舌を噛むなよ」
なにかがセオドアの頭上を通過した。ど、と前方の木に深く刺さったそれは矢だ。
――狙われている!?
ひゅんひゅんと何度も鳴った。
獲物と間違えられているわけでもあるまい。追い立てるような軌道は明らかに意図的である。
「しつこいやつらめ」
忌々しそうに吐き捨てたセオドアはアリステアを片腕で支え、指笛をした。
額には汗が流れ、視線はあちらこちらへ動いている。なるべく負担にならないよう、アリステアはできる限り体を丸めて息をひそめた。
「撒いたか?」
どれだけ走ったか、速度が落ちる。セオドアが完全に足を止めたときには、追ってきているものはいなかった。
「今、どのあたりでしょうか?」
アリステアはようやく自由の身となった。
「さあな。天幕群からそう遠くはないはずだが」
汗を拭うセオドアの手首にはあの髪紐が結ばれていた。
「いったい、なにがあったのですか?」
「オルデリアの残党だ」
「――」
「精霊術師には俺の騎士をつかせている。あれらは無事だろう」
呼吸を整えたセオドアは、ぴー、と再び指笛をした。
「狙いは俺だろうが、公女も姿を見られたかもしれない。なぜあんな場所にいた? ただでさえ狩猟エリアだというのに危ないだろう」
「人を探していたのです」
「なんだ、逢瀬でもするつもりだったか」
こんなときに、否、こんなときだからこそ、セオドアの軽口で冷静になれた。
「今からでも狩猟大会を中止にすべきです。早く戻ってこのことを知らせなければ」
「待て。中止にはするな」
「どうしてですか?」
「天幕へ戻れば、そこを襲撃されるかもしれない。俺がすべて仕留めてからでも遅くはない」
「どこにどれだけ潜んでいるかわからないのですよ!? 危険すぎます」
身を案じたというのに、セオドアは不服そうに口を曲げた。
「公女、俺を誰だと思っている? 戦闘経験も乏しいオルデリアの残党など取るに足らん。厄介なのは、捨て身であるということだけだ」
セオドアの強さを疑っているわけではない。だが、何度も命を脅かされ、恐れずにはいられなかった。
「そう数はいない。すぐに終わらせる」
そのとき、「ヒヒーン」と馬のいななきが聞こえ、セオドアが指笛を吹くと、茶色の馬が颯爽と飛びこんできた。
「公女はそこで待っていろ」
「置いていくつもりですか!?」
「馬に乗れるのか?」
「う、乗れないです……」
「ならば今は耐えろ。慣れぬまま乗れば落馬する可能性もある。公女を抱えたまま馬上で応戦してはかえって危険にさらす」
セオドアは馬にまたがり、手綱を握る。
「さっきの追っ手を片づけたら迎えに来る。それまで隠れていろ。もし見つかれば……俺を呼べ。助けに戻る」
「ここで待っています」
「不安ならば祈れ」
そう残し、セオドアは馬を走らせた。
◇◇◇
一人になってすぐ、恐怖がこみ上げてくる。感覚が敏感になり、葉擦れや鳥の鳴き声にもいちいち驚いてしまう始末だ。
「皇太子は一国を落とせるほど強いんだから。すぐに戻ってきてくれる」
しばらく身をひそめていると、足音がした。セオドアが戻ってきたのだと思ったが、それは複数人のものだ。それに今、彼は馬に乗っていて歩きではない。
――狩りの参加者? それともオルデン教の信徒?
話し声もするが、内容までは聞き取れない。話しているのは主に男女のようで、誰かを探しているという様子はない。
声の主たちは遠ざかっていく。通りがかった参加者だったのだろう。
――待って。普通の参加者なら、危ないんじゃない?
セオドアがどこで撒いたかわからないが、近くにオルデン教の信徒がうろついているかもしれない。
運営の一人として、一声だけかけようと勇気を振り絞ったとき、すぐそこの茂みが揺れた。
ローブに土や葉をつけた人物がぬっと出てきて、すんでのところで悲鳴を噛み殺す。
「あー、この辺でー、金髪にー、青い目をしたー……?」
間延びした話し方の人物が途中で首を傾げる。
目元はフードをかぶっていてわかりづらいが、頭から足先まで、おそらくゆっくりと見られた。
――皇太子を探している!
背中に紋章があるかどうかなどゆっくり考えている時間はない。ここでセオドアの特徴を述べるのなら、まずは逃げるべきだと脳が警鐘を鳴らした。
「精霊術師!」
「っ」
言うが早いか、アリステアは一目散に走り出す。
「オルデンさまー! 精霊術師が逃げ遅れていましたー!」
かかとの低いヒールではあるが、走りにくくても必死に足を動かした。
「待てー! 捕まえてみせるぞー!」
「きゃあ!」
すぐ横を矢が通り、地面に落ちる。
直接投げているようで威力はない。だが、当たれば怪我をするだろう。
「殿下、殿下! 助けてください、ここにいます! 追われて、います!」
大きな声でセオドアを呼ぶ。
後ろのほうから、馬がいなないた。
「公女、掴まれ!」
「殿下……っ」
駆け寄る馬の腹を蹴ったセオドアは、手綱を片手で操りながらアリステアに並走する。
アリステアも応えるように手を伸ばした。指先が触れ、強い力で引き寄せられる。アリステアも地面を強く蹴り、体がふわりと浮いた。
「振り落とされるなよ」
「あれはオルデン教の信徒です!」
「わかっているが、まずは公女の安全が優先だ」
ぐ、と腰を支えられたのと同時、濃い血のにおいがした。
木々を抜け、茂みを越え、まるで風になったかのように駆けていく。
「っ!?」
間一髪、数人とすれ違った。紙一重の回避であったが、声を上げ、転んだものもいた。それでも、セオドアは速度を緩めない。
アリステアの心臓が、大きく脈打っていた。
「――」
風のなか、りん、と聞こえた気がした。




