三十話 呼んでみました
「この短時間で、かなり上達したと思いませんか?」
アリステアは泉の上を跳ねる水のうさぎを目で追いかけた。かれこれ三十分ほど特訓を重ね、練度も増している。
「素晴らしいです」
褒められていい気になり、アリステアは水のうさぎを大きく浮かせる。徐々に高い場所へと跳ねていた水のうさぎが、突然、ぱんっと爆ぜた。
「あっ!?」
「こ、ここまでにしておきましょう。そろそろ集中力も切れましたか」
「申し訳ありません!」
破裂した水のうさぎは容赦なくエルヴェルトに降り注いだ。髪から服までびっしょりである。
「今、ハンカチを……」
「公女さまはかかっていませんか?」
「私は大丈夫ですが……そのままでは風邪を引いてしまいます。早く戻って着替えましょう」
「いえ、大丈夫です。すぐに乾きますから」
びゅう、と風が吹く。それはエルヴェルトの周りにだけ発生しているようで、アリステアは思わず手を伸ばした。心地のいい温風だ。
アリステアの目が輝いていることに気づいたエルヴェルトははにかみ、ゆったりとした風を送ってくれた。
――精霊術って、こういうこともできるんだ。
ヒロイン補正が不充分なことが悔やまれる。
「公女さまは、動物はお好きですか?」
「攻撃的でなければ……? さっきの水鳥たちは穏やかで、羽毛もふわふわしていたので触ったら気持ちよさそうでした」
残念ながら、水鳥たちは騒がしさに飛び立ってしまった。
「エルヴェルトさまはどうですか? それこそ、狩猟大会には参加なさらないのですか?」
「参加しません。動物たちに悲しみの目を向けられるのは、なかなか心に来るものがありますので」
ゆるりと首を振るエルヴェルトの背後で、がさがさと草むらが揺れた。
「猫!」
つい叫んでしまい、慌てて口をふさぐ。
大きな声を出したのに、猫は驚くことなく顔を出した。ぴんと立った三角の耳がぴくりと動き、真ん丸の目がこちらを見つめる。
「大きい……」
前世の中型犬くらいの大きさもある猫が「にゃん」と可愛く鳴いた。とととっと小走りに、エルヴェルトの膝の上に乗る。とてもうらやましい。
「え?」
また、草むらが鳴る。それもあちこちからで、頭上の木の枝も激しく揺れ始めた。
「呼んでみました」
「はい?」
あっけらかんと言うエルヴェルトの向こう、リスや鳥、シカなどがぞろぞろと姿を現した。
「呼んでみましたって、なにしているんですか!? エルヴェルトさまが呼んだんですか!?」
感情が整理しきれず、言葉遣いが崩れた。
どの動物もエルヴェルトに頭を押しつけたり、肩や頭に乗ったりと人懐っこい。ちらちらとこちらに視線をよこすあたり、エルヴェルトが許可を出せばアリステアにも来そうである。
「お気に召しませんでしたか……? 動物はお好きだとおっしゃったので、喜んでもらえると思ったのですが」
限度というものがある。
「少し、心の整理を……」
天を仰いだとき、ふっと顔に細長い影がかかった。
「へ」
息が止まる。
「きゃー!」
「公女さま!?」
頭上の枝に蛇が巻きついていた。尾と胴を絡ませ、頭は果実のようにぶら下がっている。
縦に裂けた瞳孔はしかとアリステアを捉え、ちろりと出された舌が額に触れそうで。
「どうにかしてください!」
「こ、公女さま……っ」
アリステアはエルヴェルトの腕に、縋るように抱きついた。
「も、もうお帰りいただきましたっ」
ほどなくしてエルヴェルトに肩を叩かれ、アリステアは恐る恐る目を開ける。集まっていた動物たちは一匹残らずいなくなっていた。
「い、生きた心地がしませんでした」
「こほん。公女さま、その……もう、大丈夫ですから。蛇だけは、近づかないよう言っておきましたので……」
「え?」
アリステアは目を凝らす。森のなか、距離を置いたところにシカや猫が走っていた。
「あの子たちも、帰ってもらって――」
エルヴェルトは頬を赤らめて、必死に明後日のほうを向いていた。
距離感を理解するのに五秒、アリステアは抱きついたままであったことにようやく気づく。
「きょ、恐怖のあまり! 他意はありません!」
「わ、わかっています。すべて、僕のせいです」
エルヴェルトが片手で顔を覆う。耳まで赤くなっていて、羞恥心がこみ上げる。
――不可抗力よ!
胸のうちで訴え、エルヴェルトにつられたのだと自分に言い聞かせるが、鼓動は激しさを増す一方だ。
二人はしばらくなにも言えず、この心臓の音が相手に聞こえないことを祈るばかりだった。
◇◇◇
またやってしまった、とエルヴェルトはひどく落ちこんでいた。
動物が好きならばと深く考えず、精霊術を使って周囲の動物を呼び寄せた。先ほどは水でうさぎを作っていたし、真っ先にやってきた猫にも触れたがっていた。
大きさのあるシカには驚きつつ、怖がるそぶりはなかった。だから、蛇が下りてきていることに気づいてもなにも言わなかった。
――まさか、あれほど怖がるとは。
公女は今、膝に猫を、肩に鳥を乗せて優しく笑っている。
その横顔に、自分へ抱きついてきたことを思い出してしまい、エルヴェルトは口を引き結んだ。
――他意などないのに。
温かさ、柔らかさ、ありとあらゆる感触が鮮明に蘇り、勝手に悶絶してしまう。
――不埒だ!
公女には恐れしかなかったのに、不純なことを考えてしまう自分が愚かしい。
『メイナードが来るよ』
「えっ」
精霊の声に驚きが漏れる。
公女が不思議そうにこちらを見たのと同時、メイナードが草木をかきわけてきた。
「なんだこれ!?」
鳥は羽ばたき、リスは木を駆け上がり、まどろんでいたシカはのそりと立ち上がる。蹄で地面を軽く削ってから去っていった。
猫は公女の膝の上、呑気にあくびをしていた。
「メイナードお兄さま!? どうしてここに!?」
「こっちの台詞だ! 俺は、動物が変な動きをしてたから追ってきただけで……お前、なんでエルヴェルトと二人で、こんなところにいるんだよ?」
公女に似た翡翠の目がじとりと細くなる。
「私は……エルヴェルトさまに、精霊術を見せてもらっていました」
「エルヴェルトに? 精霊術を?」
怪訝そうに繰り返すメイナードの険が増す。
「お、お前……っ」
「なんですか?」
公女が強気に返すが、なにかを察したようなメイナードにいやな予感がした。
「殿下というものがありながら!」
「だっ、だから! 違うと言ったでしょう!?」
エルヴェルトは天を仰ぎ、目を伏せた。
メイナードは完全に誤解している。公女と皇太子は事実上の契約関係にあり、自分たちもまた断じてメイナードが想像しているような仲ではない。
この場においてはいうなれば師匠と弟子のようなものだ。仮に名前をつけたとして、すべてが終わるまでは一切の口外はできないが。
「……動物が、好きなのか」
「はい?」
「わかった」
「あ、ちょっと!」
誰も聞いていない言い訳の波に溺れている間に、公女とメイナードの話は変わっていた。
「いいか! くれぐれも殿下を裏切るんじゃないぞ! エルヴェルト、お前もだからな!」
びしっと指をさされ、思わず背筋を伸ばす。
「メイナードさまが想像されているようなことはありません。私はただ……公女さまの笑顔が、見たかっただけです」
「……は?」
一段と低くなったメイナードの声に、なにを口走ったか遅れて自覚する。
「ち、ちがっ」
「エルヴェルト、お前――!」
「もう邪魔しないで、早くどこかへ行ってください!」
三者三葉の叫びが、森の奥までこだました。




