三話 家族の肖像画
二人を乗せた馬車が公爵家に到着したのは日没前だった。
「アリステア、おかえり。会いたかったよ」
馬車を降りてすぐ、公爵に抱きしめられた。黒い髪に翡翠の目、間違いなくロベルト・ベルジック公爵その人である。
とはいえ、転生してすぐ別れた人だ。『アリステア』にとっては父だが、自分にとっては父ではない。けれど、背中に回された腕がかすかに震えていて、アリステアも公爵の背中に手を回した。
「ただいま戻りました、お父さま」
「こんなに大きくなって……」
目を潤ませた公爵に両手で頬を包まれる。その温かさは、十数年もそばを離れたことへ罪悪感を覚えるには充分だった。
「本当に、彼女にそっくりだ」
今しがたこの胸を痛ませた原因、公爵夫人のことだろう。
「アルフレッドとメイナードには、アリステアのせいで母が亡くなったのではないとよく言い聞かせておいた。もう心配いらないだろうが、それでも御託を並べるのなら私に言いなさい」
アリステアを産んで一年後に、公爵夫人は亡くなっている。一年という時間は微妙だが、公爵夫人が亡くなったとき、兄たちはまだ五、六歳。母を占有した挙句、奪われたと思われても仕方ないのかもしれない。
「早速、夕食をとろう。メイナードは遠征に出向いていないが、アルフレッドは待たせているから」
食堂へ向かう途中、廊下にかかっていた肖像画の前でアリステアは足を止めた。
生まれたばかりの赤子を抱いた公爵夫人を囲むように、隣に公爵、前に容姿がそっくりな黒髪と金髪の少年が立つ絵だ。
「アリステア、どうしたんだ?」
「いえ。なんでもありません」
肖像画から顔を背け、公爵の背中を追う。
食堂ではすでに一人、席についていた。
「ここで待っていたのなら、妹を出迎えればよかったものを」
「帰ってきたことを知りませんでしたので」
椅子に座ったまま立とうともしない男が、無表情のままこちらをじっと見る。その不躾な視線に心臓が跳ねた。
――攻略対象の一人、双子の片割れ……アルフレッド・ベルジック。
絹のような黒髪に深い翡翠色の目。高い鼻梁と整った輪郭が凛とした顔立ちを作り、引き締まった口元は厳格な印象を与える人物だ。
「ここに座りなさい」
公爵はアルフレッドの正面に座るように促した。本来なら双子の片割れの席だろうが、出征に出向いているらしい彼に食事を出すことはできない。
「アリステア。向こうでどう過ごしていたのか、教えてくれないか?」
「手紙にも書きませんでしたか?」
「それはそうだが、お前の口から直接聞きたいんだ」
公爵は酒が注がれたグラスを揺らした。
「アルフレッドも気になるだろう?」
「私は別に……アリステアも私たちに関心はないでしょう」
どこか不服そうに、アルフレッドは切り分けた肉を口へ運んだ。
「まったく……いい加減にしないか。可愛い妹が帰ってきてくれたんだぞ」
公爵はグラスをテーブルに置き、たしなめるように言った。
「いつまで意地を張る気だ?」
「それはこちらの台詞です」
「なに?」
小さくため息をついたアルフレッドに冷めた目を向けられる。
「急に別邸へ住むなどと泣き喚いたかと思えば、今の今まで謝罪の一言もないではありませんか」
「謝罪? なにを謝るというのだ」
「公爵家の一員としての自覚が足りません。今まで公的な場への出席を命じても一切応じることはなく、公女としての務めを果たそうともしていないのです」
うかつに攻略対象と関わるわけにはいかなかったのだから仕方ない。当初の計画ではデビュタントまで静かに暮らすつもりだったのだが、歯車を狂わされてしまった。
「まさか、お前たちの成年式に出席しなかったことをいまだに根に持っているのではないだろうな? もう四年も前のことじゃないか」
アルフレッドの眉がわずかに動いた。
「そんな幼稚な理由ではありません」
眉間に寄せられたしわが不快感を主張している。
「はあ。ともかく謝罪しなくてはならないのはお前たちのほうだ。母が亡くなった原因をアリステアだと決めつけ、心無い言葉をかけたそうじゃないか」
「それはメイナードです。私は言っていません」
「知ってはいたんじゃないか。兄として止めなければならなかったのではないか?」
白熱しそうな気配を察知し、アリステアは口を挟んだ。
「お父さま、私は大丈夫です。お母さまを奪われたと思う気持ちも、晴れ舞台を蔑ろにされたと思う気持ちも、今では理解できます。私が未熟でした」
「アリステア……」
「アルフレッドお兄さま、これまで奔放な振る舞いをしてしまい申し訳ありませんでした。今後はベルジックの名に恥じぬよう努めていきます」
席を立ち、謝罪を述べる。
アルフレッドは無表情のままだが、公爵は感銘を受けたように目尻を下げた。
「ど、どこへ行くのだ?」
「疲れているのか食事が喉を通らないので、今日は失礼します」
シェフには悪いが、これ以上はアルフレッドの視線に耐えられなかった。
アリステアはかつて『アリステア』が過ごした部屋へと向かう。埃一つなく、主人がいなくてもよく掃除されていたようだ。
メイドを呼んで入浴を済ませ、アリステアはベッドに腰かける。
「まるで、軌道修正でもされているかのようね」
十三年。鬱ゲーの片鱗を感じることなく穏やかに過ごしていたのに。平和な日々を嘲笑うかのように、気づけば公爵家へと戻ってきていた。
もうゲームの詳細は覚えていない。ざっくりとした大筋と攻略対象のキャラクターがぼんやりと浮かぶだけである。
――すでに私の行動によってゲーム開始までに齟齬が出ている。なにが起きても不思議じゃない。
いやな未来を想像し、ふるりと震えが全身を駆け抜けた。
「お嬢さま」
布団を被ろうとしたとき、こんこん、と静かにノックの音が響いた。
「その声は……イズリアル?」
「はい。食事を残されたと聞きましたので、ホットミルクをお持ちしました」
扉越しのくぐもった声は、少しだけ不安そうだった。
「よければ一口だけでもお飲みになられませんか?」
細やかな気遣いはさすが専属執事だ。
その優しさに甘えようと扉を開けると、ふわりと微笑まれた。
「執事長には内緒ですよ」
ほどよく温められたミルクがじんわりと伝わり、アリステアはほっと息をついた。
複雑な気持ちは拭えないが、今夜はよく眠れそうだ。
「ごちそうさま」
カップを返したが、イズリアルはなかなか部屋の前から離れようとしない。
「……どうかしたの?」
ワゴンにカップを置き、顔を上げたイズリアルと目が合う。
「環境が変わり、お嬢さまの不安も大きいと思います」
「え? ええ、そうね……?」
「ですので、いつでも僕を頼ってください。僕はお嬢さまの唯一なのでしょう?」
「そ、それは……っ! お父さまが勘違いしているだけよ」
アリステアは咳払いをして恥じらいをごまかす。
「僕はお嬢さまの、アリステアお嬢さまだけの執事ですから」
イズリアルは一礼し、扉を閉めていってしまった。
しばらくその場で立ち尽くしていたアリステアだったが、ふらりとベッドまで戻り、倒れるようにして横になった。
――今のは、なに?
心臓がどきどきしている。でもこれは、ときめきのようなものではない。
そんな甘酸っぱいものではなく、恐怖、なのかもしれない。イズリアルの様子がどこか危うげで、得体のしれない不気味さを感じた。
――早急に記憶をすり合わせないといけない。
明日、それとなく自分の知らない『アリステア』のことを使用人たちから聞き出さなくては、いずれぼろが出る。
アリステアはぎゅっと目を瞑り、なかなか寝つけない夜を明かした。




