二話 昔のこと
アリステアが別邸に逃げてから、早くも十三年が経過した。
「今日も予定はなし! 退屈な一日の始まりね」
ゲーム通りなら攻略対象たちと友好の輪を広げ、親交を深めていたであろう時間を無駄にし、月に数回、今世の父である公爵と手紙を交わすだけの日々を過ごしていた。
天の川のような青みがかった白銀の髪、爽やかな翡翠の目、陶器のような白い肌。不安を抱えつつものびのびと生活していたアリステアは、健康的にすくすくと美しい女性へと成長した。
――本当に、ゲームのアリステアそのものね。やっぱり顔がいい。
朝、鏡に映る自分に毎回見惚れてしまうほどだ。
スチルで何度か目にしたヒロインの姿。攻略対象が最初から好印象を持って接してきた理由がよくわかる。
「でも、私はその好印象どころか印象を与える機会もなく過ごしてきたんだから、ゲーム通りには進まないはずよ。私が進ませないの。あと一年……あと一年このまま籠城できたら……」
「なにをぶつぶつおっしゃっているのですか?」
「――」
突如として聞こえた声に、はたとアリステアのすべてが止まる。
ゆっくりと顔を向ければ、にこやかな笑みを浮かべた美青年が立っていた。
「ノックはしたのですが、返事がなく。なにかあったのではと心配し、扉を開けてしまいましたことをお許しください」
墨をこぼしたような黒い髪、けれど透き通った灰色の目をし、仕立てのいい燕尾服に身を包む青年。アリステアは、この人物を知っている。
「も、もしかして……イズリアル?」
「覚えていてくださったのですね。これほど嬉しいと感じたことはありません」
イズリアル。攻略対象の一人で、逃げ出す前のアリステアの執事兼護衛をしていた人物だ。当たり前だが彼も成長し、どこか儚げで大人びた雰囲気をまとう青年になっていた。
「ど、どうしてここに?」
「僕はお嬢さまの執事でしょう?」
その関係は十三年前に終わったはずだ。
――あれ?
イズリアルの抱えた闇はどんなものだったか。それを思い出そうとしたのに、まったくと言っていいほど浮かんでこない。
その代わりに、別の記憶が脳裏をよぎった。
「お嬢さま? 体調が優れませんか?」
伸びてきたイズリアルの手を、思わず避けてしまった。一瞬だけきょとんとしたイズリアルは一歩引き、軽く頭を下げた。
「僕が、ご無礼を――」
「昔、いやなこと言ったり無理を押しつけたりしてごめんなさい」
「え?」
きっとこれは、自分がアリステアだと自覚する前の『アリステア』の記憶だ。
たぶん、執事としてつけられたイズリアルが気に入らなくて、癇癪を起こしたり無視をしたり、子どもができる精一杯の嫌がらせをしていた。はずだ。
――ゲームで『アリステア』は、イズリアルのことを都合のいいのように扱っていた。
それでもヒロインのことを盲目的に愛しているようだったが、今思えばイズリアルに殺されるルートがほかの攻略対象よりも多くあった気がする。実際は平等なのかもしれないが、体感はイズリアルが圧倒的だ。
「お嬢さまが気になさることではございません。僕に至らぬ点があったのですから。かえって、お嬢さまにはご負担をかけてしまいましたね。僕のほうこそ申し訳ありませんでした」
「イズリアルが謝ることじゃないわ。だから、頭を上げて」
「それでは、昔のことはお互い水に流しましょう」
薄く微笑むイズリアルに、アリステアはうなずくしかなかった。
「ところで、イズリアルはどうしてここに?」
「お嬢さまを迎えにきたのですよ」
「……え?」
アリステアは目を丸くする。
――なんて言った? 今、迎えにきたって言った!?
状況を飲みこめないでいると、イズリアルが説明を始めた。
「もうすぐ皇女さまの誕生パーティーが開かれますので、それに出席するようにと。来年にはお嬢さまのデビュタントも控えていますから、経験を積むためにも公爵さまが戻られることを望んでおります」
「そ、そんな急に言われても……!」
よりによって皇女の誕生パーティーなど、自ら命を投げうちにいくようなものだ。
「公爵さまはすでに伝えられていると思いますが」
アリステアははっとする。決まった日に手紙のやりとりをしているわけではないが、別邸のメイドが「手紙が遅れている」と言っていたような。
もしかしたらその届いていない手紙に書かれていたのかもしれない。だとしても、返事も待たずして迎えをよこすのは早計すぎると思うが。
「あのときの傷跡もすっかり消えて、充分に癒えたのではありませんか?」
すり、と額を指先で撫でられる。混乱していたせいで、先ほどのように避けることができなかった。
「と、とにかく……お父さまには帰らないと伝えてちょうだい。私はここが気に入っているの」
アリステアはわざと不遜な態度をとる。
――皇女と会うなんて冗談じゃない。
これは絶対に譲れない。折れてはいけないのだ。
「それは難しいお願いです」
イズリアルは困ったように眉を下げた。
「皇室からの招待状は公爵家に送られています。帝国を支える公爵家として、一人として欠けることは許されません」
欠席すれば、なにより皇女の顔に泥を塗ることになる。ただでさえアリステアは僻地に引きこもり、他者との関わりは必要最低限に、できるだけ断絶してきたのだ。
「で、でもどうして今回だけ? ずっと出ていなかったでしょう?」
「そうですね……今回のパーティーでは皇太子殿下の婚約者探しを兼ねており、エレスト帝国中の結婚適齢期の令嬢が集められるそうです。こちらは皇女殿下の友人探しが名目らしいですが」
皇太子といえば、攻略対象の一人である。それならなおさら、出席するわけにはいかない。
――ゲームでこんな描写、あったっけ? デビュタントでちやほやされるアリステアに皇女が嫉妬したところからゲームは始まったような。
どのパーティーでゲームがスタートしたのかあやふやだ。こんなことになるのなら、転生直後にメモでも残しておけばよかった。だが、いまさら後悔しても後の祭りである。
「そろそろ荷物もまとめ終わったでしょうから、お嬢さまは出発の準備をなさってください」
「え!?」
部屋を出ていくイズリアルと入れ替わりで数人のメイドが入ってくる。
あれよあれよという間に支度を終えたアリステアは玄関の前で待機していた馬車へと誘導された。
紳士然として佇んでいたイズリアルが微笑み、扉を開ける。
「ほ、本当に……帰るの?」
「はい、もちろんです」
別邸の使用人たちに惜しまれながら見送られ、茫然としているうちに無情にも馬車は出発してしまった。
――か、癇癪の一つでも起こしてみたらよかった!?
正面に座るイズリアルをちらりと盗み見たはずなのに目が合った。微笑まれ、気まずさから咄嗟に質問を投げかける。
「イズリアルはなにをしていたの?」
「なにを、とは?」
「私が公爵家を出てから、どう過ごしていたの? ほら……私の執事で、護衛だったじゃない」
ああ、とイズリアルは納得したように一度だけうなずいた。
「お嬢さまがいつ戻ってこられてもいいように、剣術を学んでおりました」
「剣術を?」
イズリアルは騎士にはなれない。その理由は明白で、身元が不明だからである。
まだ幼かったイズリアルを公爵が連れてきて、アリステアの護衛として育てたのだ。騎士ではない護衛とはつまり、盾。万が一にアリステアへ危険が及べば身を挺して守り、時間を稼ぐためだけの存在だ。
こう言ってはなんだが、そんなイズリアルに剣を持たせる必要があるのだろうか。彼は執事という役目のほうが大きいのに。
「お嬢さまが家を出られてから、公爵さまはひどく後悔しておられました」
「後悔? どうして?」
「お嬢さまがいなくなってから、ご兄弟たちとの不和を知られたようです」
「そ、そうだったの」
ふと違和感を覚えた。
アリステア・ベルジックは誰からも愛されている。それが、ヒロインの大前提だった。実際にゲームでもアリステアの兄たちは彼女を守る鉄壁のように登場していた。
そのどちらかを、あるいは両方を崩していくのがゲームの楽しみであり、攻略の一つであった。
――アリステアは幼少期、兄たちと仲が悪かったの? そういう裏設定?
本編では描かれなかっただけだろうか。
――ちょっと待って。
おそらく、本来なら無駄にした十三年の間に不仲を解消していたのだろう。それが今、アリステアと兄弟たちは不仲のまま。
――皇女が嫉妬するほどのちやほやはないんじゃない? むしろ嫌われているなら、皇女は私を歯牙にもかけないかも!
妙な希望を得たアリステアをよそに、イズリアルは続ける。
「ですから、僕がお嬢さまの唯一だと思われた公爵さまが、剣術の先生をつけてくださいました」
「今なんて?」
――唯一って言った?
突拍子もないことを口にしている自覚はないのだろうか。
「皇宮の騎士から剣を習いましたので、僕は庇うだけでなくお嬢さまを真に守ることができます」
「それはつまり、騎士になるの?」
イズリアルはふるりと首を横に振る。
「騎士にはなれません。ですが手柄を立てれば……ベルジックで騎士の称号をもらえるかもしれないそうですね?」
どこか熱のこもった目に見据えられ、アリステアは視線を泳がせた。




