十二話 箱庭
澄みわたる青空の下、爽やかな風が吹き抜ける。
「――え?」
アリステアはその翡翠の目を丸くし、瞬かせた。
見渡す限りの草原。果ては地平線、花々が咲き誇る緑豊かな場所が広がっていた。
――な……に、ここ!?
先ほどまで、アルフレッドとともに馬車で揺られていたはずだ。
――そうだ、アルフレッドは?
あたりを見回し、くるりと振り返ったアリステアの動きがぴたりと止まる。
「あら?」
白いガーデンパラソルの下、お茶会でもするのか、テーブルにクロスをかけていた女性と目が合った。
「あなたは――……あなたはっ!?」
ひっくり返る勢いで、女性がテーブルの向こうに消えた。しばらく、テーブルではなく彼女自身を覆ったクロスと格闘していたが、やがて「ぷは」と顔を出す。
「ど、どなたかしら……?」
乱れた白銀色の髪を、白魚のような指で梳きながら平静を保とうとしている。しかし、その蜂蜜のような金色の目には不安が滲んでいた。
「わ、私は」
「もしかして……アリステアさまでしょうか?」
思案していた様子だった女性は恐る恐るこちらを見上げた。
「私を知っているのですか?」
「やはり、そうなのですね」
いそいそと立ち上がった女性の表情が柔らかくなる。
「わたくしはラシェルと申します。先ほどはお見苦しい姿を……」
ラシェルは赤みの差した頬をぱたぱたと手で仰いだ。
「あなたのことはエルヴェルトから伺っています。紹介は今夜のはずでしたが、そちらで問題が起こったのですか?」
「紹介……申し訳ありません。その、ラシェルさまがなにをおっしゃられているのか、わからなくて」
「え?」
「つい先ほどまで兄と馬車にいたのですが、気づけばここにいたのです。ここはどこなのでしょうか? 兄は……無事、なのでしょうか」
「まさか、エルヴェルトからなにも聞いていないのですか?」
話そうとはしていただろう。しかし運悪く、エルヴェルトの口から説明される機会は与えられず、アリステアには疑念しか残っていない。
「結果的には、そうですね」
躊躇いつつもうなずいたアリステアに、ラシェルは絶句した。
「もう、あの子ったら!」
「――」
「だめじゃない、ちゃんと説明しなきゃ! 彼女は目覚めたばかりなのでしょう!?」
ラシェルは腰に手を当て、この場にいないエルヴェルトを糾弾する。自分のために怒ってくれているとわかるのだが、ぷくりと頬を膨らます姿が可愛らしい人だとつい思ってしまった。
「……こほん、失礼いたしました。まず、あなたのお兄さまはご無事でしょう。ここは精霊術師の精神世界ですから」
正直、非常に頭が痛い。いや、実際は痛みなどないのだが、そう錯覚してしまうほど突拍子もない話だった。
――夢でも見ているのかな?
はいそうですかと素直に飲みこむには、さすがに許容量を超えていた。
「ここは『箱庭』。精霊術師のみが入れる夢の世界、と、そう思っていただいて構いません」
「……ラシェルさまは心も読めるのですか?」
「まあ。残念ながらわたくしには心を読む能力はございません」
ラシェルは口元に指を添え、くすりと笑った。
「そもそも私は、本当に精霊術師なのですか……?」
「先ほどの説明と重なりますが、箱庭は精霊術師でなければ入ることはできません。そしてなにより、この髪色が証明です」
ラシェルはアリステアの髪を一束すくい、愛しそうに撫でた。
「白銀の髪は、精霊と心を通わせるものの証です。ああ、身を守るためにもこのことは口外しないよう気をつけてくださいね」
「な、なにかの間違いではありませんか?」
「あら、どうしてそう思うのでしょう?」
「だって……」
そんな設定はなかったから、などとは口が裂けても言えない。ここはゲームの世界で、誰も現実には存在していないと声高に主張したところで、頭がおかしいと思われるだけだ。
「あなた、ご出身は?」
「エレスト帝国の、ベルジック領で生まれ育ちました」
「ご家族に精霊術師はいますか?」
「いえ……あ、でも。先祖にはいたかも、しれません」
以前、メイナードが調べ、教えてくれたことだ。
「そう。身近にはいなかったのなら、知る機会がなくて当然です。ルミナラの民はみな、逃げ隠れていますから」
「ルミナラ聖国は、その……」
「ええ。オルデリア王国に……オルデン教の信徒たちに、安寧の地を奪われました」
ラシェルはきゅっと口を引き結んだ。彼女たちの苦しみや悲しみは計り知れず、想像するだけでも胸が痛む。
「ですが私たちは諦めません。心強い味方もいますから。必ずや、雪辱を果たしてみせましょう。だからあなたも――」
アリステアははっと顔を上げた。
――アルフレッド?
彼に、名前を呼ばれた気がした。
「兄君が心配されているのですね」
「え?」
「箱庭にいる間、現実では眠っている状態です。急に深い眠りに落ちたことを、心配されているのでしょう」
ラシェルが眉を下げ、一歩下がった。
「気が急いてしまい、ご無礼をお許しください。話の続きは、また今夜いたしましょう」
「今夜って」
「アリステアさまが再び訪れるまでに、今度こそ完璧な準備をしておきます。ですから、また会いに来てくださいね」
意識が遠ざかる。まだ聞きたいことがたくさんあるのに、声をかけられなかった。
「……テア、アリステア。目を覚ませ。アリステア!」
「うっ」
肩を激しく揺さぶられ、首がぐわんぐわんと前後に動く。
「い、痛いです、お兄さま」
「起きたのか!?」
アルフレッドは片膝をつき、顔をのぞきこんできた。
「体調はどうだ? 苦しくはないか?」
「大丈夫です」
「そうか」
ほっとしたアルフレッドの吐息は、どこかくすぐったく感じた。
――こんなに心配してくれたなんて、ちょっとびっくりね。
アルフレッドは御者に出発するよう声をかけてから、向かいに座り直した。わざわざ馬車を止めさせるほど驚かせてしまったのか。
「エルヴェルトがなにか盛ったのかと思ったが……」
ぼそりと不穏な想像が聞こえた。
「私に席を外させたのも……まさか、殿下と結託して……?」
よからぬ方向へ想像が進んでいてアリステアはぎょっとする。
「そのようなことはありませんから、どうか言葉に気をつけてください」
エルヴェルトはまだしも皇太子を犯罪者に仕立て上げようものなら、首どころか血筋を絶たれてもおかしくはない。
「なぜ言い切れる」
「あの場でなにも口にしていないからです。お兄さまが離れてからも、一度も」
「ならいい。本当に不調はないんだな?」
「はい、問題ありません。心配してくださりありがとうございます」
そこでようやく、アリステアは抱えていた扇を箱にしまった。アルフレッドの反応からして、寝ている間に手紙を盗み見ることもしなかったのだろう。
――本当に自分にも厳しいんだから。
けれど、今回はその真面目さに救われた。あの内容では、解釈によっては密会の誘いと捉えられていたかもしれない。
――私について知るには、やっぱりエルヴェルトさまとラシェルさまに話を聞かなくちゃ。
うっかり精霊術を使わないよう、アリステアはそっと箱をもとの位置に戻す。
その間もアルフレッドの視線はまとわりついてきた。しかし、それは以前のように厳しいものではなくて。
――なんだか、柔らかくなった?
ただ兄が妹を心配するような、優しい不安がわずかに滲んだ目。再会したばかりの面影はどこにもなかった。




