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「よし、これで終わり。……早く行くか」


 キョウヤは拭いた皿を棚にしまい、自分の分の洗い物を終えると、蛇口に着いている魔導具らしき「水の吸収石」に触れて水を止めた。

 木製のキッチンには、洗い物の水滴が静かに落ちる音だけが残り、穏やかな朝の空気が漂っていた。


 ここ数週間、午前中に家事を素早く片付け、その後は裏の空き地で『魔装アクト』の訓練を行うのがキョウヤの日課になっていた。

 ラルナーの家の裏にある空き地での訓練は、朝の陽光が草を照らし、静かな緊張感を帯びた時間をもたらしてくれる。


「ん?」


 ふと、キョウヤはある物に視線を奪われた。

 キッチンの棚の奥に、何か伏せて置いてあるのに気づいたのだ。埃っぽい木の棚に隠れるように置かれたそれは、まるで秘密を隠しているかのようだった。

 手に取ってみると、そこにはラルナーと、見知らぬ三人の男女が写っていた。


 古びた写真立ての中には、今より少し若い笑顔のラルナーと、見知らぬ女、そして二人の男が並び、背景には見慣れない頑強な建物があった。


「おじさんと……家族か? それとも昔の仲間か。それにしても、この世界にも撮影技術はあるんだな」


 キョウヤは少し驚きつつも、それ以上は深く詮索せず、写真立てを元の位置に戻した。

 元の世界ではデジタルな記録装置しかなかったため、紙に焼かれた写真の素朴さに一瞬だけ目を奪われたが、他人の過去に踏み込む趣味はない。

 残りの身支度を終え、キョウヤは訓練のために家を飛び出した。


 都市の外れにある、草がまばらに生えた静かな空き地。キョウヤは上半身に『迦具土神カグツチ』の魔装を具現化させ、一人で出力を練り上げていた。

 現在の課題は、背部バーニアの推進力と、掌から放つ炎弾の出力調整だ。


「ん?──ッ、しまっ──」


 瞬間、魔力の流動を見誤った。背中のバーニアが予期せぬ暴発を起こし、キョウヤの身体は前方へ豪快に吹き飛ぶ。

 元ソルジャーらしからぬ醜態。体が一気に宙を舞い、草をなぎ倒しながら勢いよく後方へ滑っていく。


(減速が間にあわねぇ──!)


 背中のバーニアを逆噴射すれば、進行方向にいる「誰か」に熱風が直撃する。

 キョウヤはとっさに右手甲の装甲で地面を引っ掻いて制動をかけようとしたが、その努力も虚しく、何かに激しく衝突した。土が削れ、草が舞う。

 だが、衝突の直前に感じたのは、人間の肉体にぶつかった柔らかさではなかった。冷たく、極めて硬い──分厚い結晶に衝突したような感覚。


 ぶつかったのは、突如として空間に形成された「氷の壁」だった。

 透明な氷が陽光を反射し、突然現れたその強固な障壁にキョウヤは一瞬息を呑んだ。


「危ない……」


 静かな声が、氷越しに聞こえた。感情を極限まで抑え込んだ、低く冷たい声。

 氷の壁から透けて見える向こう側には、ロングポニーテールで褐色肌の少女が、涼しげな顔で尻餅をついているキョウヤを見下ろしながら立っていた。


 その顔は、あからさまに不機嫌そうだった。

 目つきは鋭いジト目で、さらに言えば、どこか生気のない目をしている。彼女の周囲には微かな冷気が漂い、独自の『魔法』の痕跡が空気を冷たく支配していた。


「えっと……悪かった。」


 キョウヤが立ち上がりながら謝罪の言葉を述べると、少女はそれに対して一言も返さず、無言のまま翻ってどこかへ行ってしまった。

 その背中が遠ざかるのを、キョウヤは苦々しい表情で見送るしかなかった。


(今のは……俺の衝突に耐えるレベルの障壁を、一瞬で生成したのか。この世界にも、やはり相応の化け物がいるんだな)


 しばらくすると、主を失った氷の壁は急激に溶けて霧散した。水滴が地面に落ち、草を濡らす音が静かに響いた。


---


 そんな奇妙な遭遇を経て、数日後。ついにキョウヤがアッシュベリーの『アイギス学園』に入る日がやってきた。

 数週間の潜伏生活で、魔装の基礎を掴み、都市のルールにも最低限馴染んだ頃合いだ。


「んー、なんかしまらねぇな」


 ラルナーがキョウヤの前で片膝をつきながら、制服の着こなし具合に頭を悩ませていた。木の床に膝をつき、キョウヤの襟や裾を何度も引っ張って直すその姿は、不器用な親のような几帳面さがあった。


「おじさん、もうその辺でいい。」


 すでに数十分ほど襟元を弄られており、流石のキョウヤも勘弁してくれと表情を硬くする。


「馬鹿野郎、最初の印象ってのが大事なんだろうが。お前みたいな忘却病のガキは、舐められたら終わりだぞ」


「そんなものは実力で黙らせればいいから。それより、流石に出発しないと遅刻する」


 キョウヤが冷静に時間を指摘すると、ラルナーはようやく手を離し、不承不承ながらも送り出す姿勢をとった。


 アイギス学園に到着したキョウヤは、ラルナーの案内の元、担任であるミハイル・ハインツと合流した。少しばかりの事務的な説明を受けた後、そのまま教室へと案内される。

 学園の建物は石と木でできた重厚な造りで、廊下からは生徒たちの賑やかな笑い声が響いていた。


「このクラスに今日から新しく入る、ヒノ・キョウヤくんだ! みんな、こここと色々教えてやってくれよな!」


元気よく笑顔で紹介したハインツ先生。その声は教室に響き渡り、生徒たちの視線が一斉にキョウヤへと集まった。


「ヒノ・キョウヤです。訳あって記憶が曖昧な部分もありますが、よろしくお願いします」


 無難な自己紹介をしながら教室を見渡したキョウヤは、ある席でピタリと視線を止めた。

 ──先日の空き地で遭遇した、あのポニテ褐色肌の少女がそこにいた。彼女の冷徹なジト目がこちらを向いており、微かな因縁の火花が散る。


「じゃあ、ヒノはあそこの席に座ってくれ」


 ハインツの指示で、指定された空席へと歩いて行く。

 周りからの好奇と警戒の視線を感じながら、キョウヤは席につき、心の中で小さく溜息をついた。


(この雰囲気、昔の新兵訓練を思い出すな……。人間関係の確立した集団の中に放り込まれるほど、面倒なことはない)


 午前中は、教師たちのガイダンスを聞いたり、世界の歴史や構造が記された羊皮紙のような資料を閲覧する授業だった。

 もちろん、基礎知識のないキョウヤには固有名詞の多くが初耳だったが、ソルジャーとしての情報処理能力をフル回転させ、全体の雰囲気を掴んでいく。


そして特に他の生徒と絡むこともなく、昼休みを迎えた。


「さて、食事はどうするか……」


食堂の位置を把握していないことに気づき、キョウヤが机の上で小さく思考を巡らせていると、不意に上から声をかけられた。


「君、食堂の場所知ってる? 良かったら案内しようか」


振り返ると、そこにいたのは銀髪の美少年だった。最初は女性かと見紛うほどの柔らかな声と整った顔立ちに、キョウヤは一瞬だけ意識を向けた。


「……助かる。えっと」


「僕の名前はライゼ・フォルス。これからよろしくね、キョウヤくん」


「よろしく、ライゼ」


廊下を歩きながら案内される中、キョウヤは素朴な疑問を口にした。


「他の奴らは遠巻きに見ていたが、よく声をかけてくれたな」


「あはは、実はクラスの男子で、誰が新入生の案内役をするか君が来る前に決めてたんだよね。『じゃんけんで負けたら案内』ってルールでさ」


「なるほど、貧乏くじを引かされたわけか」


「そんなことないよ! 話してみたかったしね」


ライゼは屈託なく笑う。見た目通り、人当たりの良い気質のようだ。

話をしているうちに、木造建築の素朴な食堂へと到着した。木の香りと料理の匂いが混じり合い、温かみのある空間が広がっている。


「前はもっと広かったんだけどね……」


ライゼがふと、寂しげに呟いた。


「……」


キョウヤがその言葉を聞いてすぐに復興していた景色を思い出し何かあったと判断した、少し離れた席から大きな呼び声が響いた。


「おーい、ライゼ! こっちこっち!」


声の主は、同じクラスの男子三人組だった。六人掛けの大きな窓際の席を確保してくれているらしい。ライゼに促され、キョウヤもその席へと向かい、トレイを置いて腰を下ろした。


「来たな。俺はユウジ・イージス。よろしくな、キョウヤ」


最初に爽やかに挨拶してきたのは、短髪で快活そうなユウジ。


「俺はマーシャル・クロニクル。同じ『拾われ者』として、気が合いそうだ」


落ち着いた口調で育ちの良さを感じさせるのはマーシャル。


「同じ、拾われ者?」


「ああ、こいつも小さい頃、外(防壁の外)で拾われてここで育ったんだぜ」


ユウジの補足に、キョウヤはなるほどと頷く。この世界ではそう珍しくない境遇なのかもしれない。


「俺はルート・ロード……ルートでいい」


最後に少し髪の長い、物静かで鋭い眼光を秘めた少年がボソリと名乗った。


「こいつ、こんなんだけどめちゃくちゃ強いんだぜ」


「強くはない……」


ユウジの言葉を、ルートは覇気のない声で否定する。


「強いかどうかは、今日の午後にはすぐ分かるよね」


ライゼがニコニコしながら、スープをスプーンで掬う。


「どういう意味だ?」


「今日の午後は、新入生の歓迎会を兼ねた『模擬戦』だからさ」


「……随分と物騒な歓迎会だな」


「うちのガーデンは、過去の『ある事件』をきっかけに、完全に実戦至上主義になったからね」


(過去の事件、か……)


キョウヤはそれ以上の詮索を一度止め、食事を進めた。

ユウジはそのまま、クラスの女子たちの解説を始めた。三つ編みの「アヤセ・シュム」、小柄な「リース・ミューズ」、そしてスタイルの良い「ベーア・クロイツ」。


「で、あっちの別の机にぽつんと座ってるのが──」


ユウジの視線を追うと、食堂の隅、周囲から完全に孤立したテーブルに一人の女子が座っていた。

それが──あの空き地で氷の壁を作った、褐色肌の少女だった。


「あいつが、アイリス・ヴァルハイト。……まぁいまは関わらない方がいい」


ユウジの言葉が一瞬詰まったのを、キョウヤは見逃さなかった。


「なぜ、他の連中と離れているんだ?」


「……さぁな」


ユウジはそれ以上語ろうとせず、視線を逸らした。クラス内における明確な溝。キョウヤは「なるほど、そういう空気か」と瞬時に察する。


「あのアイリスは可憐な見た目とは裏腹に、今の(学園のトップ層)では誰よりも強く、そして自分にも他人にも極めて厳しい人なんだ」


真面目なマーシャルが静かに補足する。その言葉には確かな信憑性と、どこか恐れのようなものが混じっていた。


一方、その隔離された席で、完全に一人きりで食事を摂っていたアイリスもまた、遠くの席にいる新入生──キョウヤに冷徹な視線を向け、機械的にスプーンを動かしていた。


(あの新入生、ヒノ・キョウヤ……。この前、空き地で自爆していた男。……弱そうだった。異能の出力調整すらまともにできていない、下手くそだ)


アイリスは感情を一切交えない冷淡な思考で、彼を切り捨てる。


(今日の午後は歓迎会の模擬戦……。私とペアになる可能性がある。どの程度の実戦能力があるのか、見極める必要がある。もし私の足を引っ張るだけの存在なら、先生に抗議する。そもそも、絶対に男女でペアを組ませようとするこの学園のシステム自体がおかしい。私は、誰とも組みたくない──)


アイリスは先に食べ終えた食器を手に取り、周囲を拒絶するように足早に席を立った。

その孤高で冷え切った背中を、キョウヤは遠くから静かに見つめ、ソルジャーとしての思考を巡らせるのだった。


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