194 佛淵三郎の蓋
あぎゃああ。気持ち悪くなったぞ。こういうことをするとメンタル持っていかれるのです。削がれてしまうのです。この後ももっと気持ち悪くなるようにいろいろ加工すると思います。
2026/07/14 言い回しなどをちょっとずつ変更。
「オトサン、大丈夫ヨ。チョット辛イケド、死ヌホドジャナイカラ。キミコハ死ンダヨ。オトサンノコト大好キナノヨネ。ナノニ……」
佛淵三郎の脳髄にキミコのクマから違う人間の記憶がものすごい勢いで流れ込んでいく。三郎は流れ出す滂沱の涙を止められない。呻き声を堪えられない。毒島伽緒子の手に縋りついたこともわからないほど動揺している。思い当たる節がある。
冷え切ったコンクリートの床に、男が転がっている。さっきまで激しく床を蹴っていた両足は、今はもう、ただの肉の塊になってピクリとも動かない。私が首に巻きつけたままの紐から手を離すと、男の頭がごとり、と鈍い音を立てて傾いた。開いたままの目には、まだ恐怖の残像がこびりついている。男の肺からコフぅという奇妙な音と共に抜けた最後の生温かい息が、私の頬に纏わりつくようにして、ゆっくりと消えていった。喉の奥が、妙に渇いている。私は激しく上下する胸を抑えながら、自分の両手のひらを見つめた。強く引き絞った布紐の痕がくっきりとついている。そのうえじっとりと嫌な汗がにじんでいる。その皮膚のすぐ下で、血が、ものすごい速さで脈打っているのが分かった。いつからだろう。何を食べても砂を噛んでいるようで、舌の感覚がなくなっていたのは。この「岡田食品」という、警察庁の薄暗い裏組織に拾われてから、私は数え切れないほどの人間を「加工処理」してきた。国家のためとか、正義のためとか、そういう大文字の思想にはハナから興味がない。ただ、私には他人の命を削り取る仕事への、奇妙な適性があった。それだけだ。割のいい給料と、誰も文句のつけられない偽りの肩書。それらが手に入るなら、どんな汚れ仕事だろうと、ただの事務作業と同じだった。けれど、機械のように仕事に精を出すうちに、自分の世界はいつの間にか、べったりとした灰色の霧に覆われてしまった。生きているのか、それとも死んでいるのか。現世と幽世のどっち側にいるのかも分からず、ただ毎日をやり過ごすだけの空っぽの器。それが私だった。今夜も、そんな退屈な「食品加工」の一つに過ぎないはずだった。表に出せない不祥事を起こした政治家の秘書。睡眠薬を飲ませて、静かに首を吊らせるだけの、スマートな仕掛け。それが、どこで狂ったのか。男は獣のような勘の鋭さで、私の気配を察知した。狭いホテルの室内で、男はなりふり構わず、生きようと藻掻いた。念のため持っていたナイフは弾き飛ばされた。男が執拗に抵抗してくる。私は本能のままに男に組み伏し、用意していた擬装用の布紐で男の首を全力で絞めつけた。ギュリギュリと締まっていく布紐がピンと張り詰める、ゴキゴキと指の隙間で軋む、男の喉の骨が歪んでいく音を肉を骨を通して聴いた。死に物狂いで抵抗する、生々しい人間の重み。やがて動きが緩慢になっていく。男の命の灯火がふっと消えた瞬間、私の脳の奥深くで、ドロッとした熱い塊がとろけて弾けた。黒く硬い皮膜で覆われながらも粘性を保つ超高温の溶岩のようだ。同時に痺れるような全能感が、全身の血管を駆け巡る。灰色だった平面の世界が、一瞬で色を取り戻し、視界が様々な色彩で埋め尽くされた。(私は今、この男を完全に支配した)(私が、この男の命を終わらせた)燃え尽きて惰性で動くだけだった心臓が、痛いほどの熱を持って鼓動を繰り返している。これが、生きているという実感か。私は生まれて初めて、極上の味を知ってしまった。少し落ち着いた私は室内を見回す。部屋の中は、見るも無惨に荒れ果てていた。私のDNAも、男の爪の間や床のあちこちに残っているはずだ。普通の人間なら、ここで理性を失って逃げ出すのだろう。だが、私の頭は、これまでになく冷酷に、そして愉しげに回転を始めていた。私はゆっくりと、しかし確実な手つきで部屋を片付け始めた。散らばった家具を戻し、格闘の痕跡を一つずつ消して、男の遺体の角度を不自然さがないように調整し、防犯カメラのデータは、遠隔操作でほんの数分間のノイズへと書き換えて、突発的な、血生臭い殺人を、警察の鑑識すら見破れない「完璧な密室自殺」へと仕立て上げる。その作業の間中、私は奇妙な充実感に満たされていた。数日後、警察庁のデスクで、その男の死亡ニュースが載った内部資料を見た。私の作った「加工食品」は、仲間であるはずの警察組織を完璧に欺いていた。事件性なし。ただの自殺。男たちの無能な顔が目に浮かび、私は体の奥底から、ゾクゾクとするような優越感で満たされた。私は、彼らの運命を上から操る神になったのだ。それからの私は、もう前の私には戻れなかった。あの、すべてが灰色に澱んだ世界へ逆戻りすることだけは、絶対に耐えられなかった。私は、プライベートで「獲物」を探すようになった。もちろん慎重に。「岡田食品」のルールに則って。公安の持つ巨大なデータベースや、街中に張り巡らされた監視網を、私的な快楽のために盗み見る。社会の底辺にうごめく、消えても誰も探さない人間たち。身寄りのない浮労者、裏社会の半グレ、戸籍すら持たない透明な人間。彼らが、私の新しい世界を彩るための「加工材料」となった。もう、銃や毒薬なんていう、退屈な道具は使わない。あのホテルの夜のように、自分の手で直接、命の終わりを感じられる「窒息死」か「刺殺」だけでいい。標的が絶望に目を見開き、私の顔をじっと見つめながら光を失っていく、その最後の瞬間。私は、男たちの耳元で息を潜めながら、その命の雫を、貪るように飲み干す。今や、この日常は私にとって至高のゲームだ。死体は、蓄積されたプロの知識を使って、絶対に暴かれない山奥に沈めるか、あるいはあえて見つかる場所に「完璧な事故」として放り出しておく。翌朝、職場で同僚の刑事たちが、「不審な点はありません。ただの転落事故です」と、捜査を打ち切る書類に判を捺している。私はそれを、デスクから冷めた目で眺めている。私の口元が、わずかに歪むのを、誰も気づきはしない。お前たちは自分が追っているものの正体に気づくことは一生ないだろう。事故でも何でもない。すぐ目の前で、静かに書類を見つめている、この私自身が張本人だと、気づくことはないだろう。激しい雨が、街をコンクリートの灰色に染め上げている。次の獲物に定めた男の名前は、佛淵三郎。警視庁捜査一課の刑事だ。公安の秘密業務に支障来すであろう人間として名前が挙がったのだ。公安の違法アクセスで手に入れた彼の素性は、いかにも絵に描いたような不器用な警察官だった。穏やかそうな妻と、まだ小学生の娘、キミコ。キミコは父親のことが大好きで、佛淵からプレゼントされた薄汚れたクマのぬいぐるみを、どこへ行くにも片時も離さず大事に抱きしめている。社会の正義を守る刑事が、ある日突然、私の手によって完璧な「事故」として処理され、その温かい日常が唐突に断絶する。想像するだけで、久しく味を忘れていた口の中に、乾いた興奮がじわりと広がっていくのを感じた。私はまず、佛淵の日常を徹底的に削り出すことから始めた。勤務先からの帰り道、自宅の見える古いアパートの一室、スマートフォンに仕込んだ盗聴器。彼らの生活を盗み見る行為は、私にとって極上の前戯だった。心が湧きたった。性的興奮というものを久しく忘れていたはずなのに、気がつけば屹立した体の中心から彩が噴き出した。それは得も言われぬ、何物にも代えがたい快感だった。だが、彼の私生活を覗き込んで一週間が経った頃、私は奇妙な違和感に気づいた。夕食時の佛淵家のリビング。盗聴器から聞こえてくるのは、妻のとりとめのない世間話と、キミコの無邪気な笑い声だ。佛淵はそれに、いつも「そうだね」「よかったね」と穏やかに応じている。だが、その声のトーンが、あまりにも平坦すぎるのだ。感情の起伏が全くない。まるで、あらかじめ録音されたテープを再生しているかのような、ぞっとするほどの空虚さ。その違和感は、ある深夜に確信へと変わった。午前二時、家族が寝静まったはずの家で、佛淵が静かにベッドを抜け出した。私はアパートの窓から、高性能の暗視スコープで彼の部屋を覗いた。佛淵は、リビングの暗闇の中にぽつんと佇んでいた。そして、おもむろにキミコが大事にしているあのクマのぬいぐるみを拾い上げると、その首を、ものすごい力で絞めつけ始めたのだ。スコープのレンズ越しに見えた佛淵の顔は、昼間の穏やかな父親のそれとは完全に別人だった。目はらんらんと血走り、口元は不気味に歪んでいる。彼は、寝室のドアをじっと睨みつけながら、呪詛のような言葉を低く呟いていた。「死ねばいい」「早く壊れてしまえ」「私の手で、全部」それは、私がよく知っている「こちら側」の目だった。毎日、事件現場で死体と向き合い、社会の澱みをすするうちに、彼の心もとっくに摩痺していたのだ。私と同じように、あのべったりとした灰色の世界に生きながら、その裏側で、自分を縛り付ける「家族」という記号を、自らの手で徹底的に破壊したいという猛烈な欲望を煮詰めていた。気づけば、私は佛淵から目を離せなくなっていた。昼間、キミコの手を優しく引いて歩く佛淵の背中を見る。キミコは嬉しそうにクマのぬいぐるみを抱え、父親を見上げている。だが、佛淵の指先が、時折、キミコの細い首筋を愛おしそうになぞる瞬間を、私は見逃さなかった。彼は、いつ、どうやってあの従順な妻と、自分を信じ切っているキミコを「加工」するのだろう。彼が抱える闇の深さと、その歪んだ計画の進捗が気になって、私の心臓は今までになく激しく脈打ち、同時にいきり立った。当初の目的だった「佛淵の殺害」なんて、もうどうでもよくなっていた。私は、彼が引き起こすであろう「破滅」の瞬間を、特等席で見届けたいという、狂った好奇心に完全に囚われていた。ある日、尾行を続けていた私と、駅のホームで佛淵の視線がまっすぐに交わった。人混みの中で、彼は私を見つめ、一瞬だけ、フッと奇妙な笑みを浮かべた。心臓が冷たく跳ね上がった。男は、気づいている。自分が監視されていることに。いや、それだけじゃない。捜査一課の鋭い執念で、私という「同類」の存在を察知し、それを燃料にして自らの狂気をさらに加速させているのだ。私は、男を支配しているつもりでいた。だが、違かった。私は男の底深い闇の沼に、自ら足を踏み入れ、引きずり込まれている。どちらが狩る側で、どちらが狩られる側なのか。キミコが抱くクマのぬいぐるみの首が、私の指先と重なって、ドロドロに溶けていくような錯覚に陥っていた。しかし、すべては、私を炙り出すための舞台装置に過ぎなかったのだ。佛淵は切れ者だった。佛淵がリビングの暗闇で、キミコのクマのぬいぐるみの首を絞め、呪詛を吐いていたあの夜の光景。あれは、私という「見えない観察者」の存在を確信した彼が、わざと見せつけた精巧な芝居だった。捜査一課の刑事という特権的な勘で、背後に潜む公安の影を察知し、自分の大切な妻子すら餌にして私を誘い出そうとした。男は、私を自分のコントロールできる檻へ追い詰めたつもりで、悦に入っていたのだ。その傲慢さに気づいた瞬間、私の乾ききった胸の奥で、どす黒い愉悦が首をもたげた。(そうか。そこまでして私と踊りたいか、佛淵)だったら、お前の書いた筋書きを、私の手で徹底的に書き換えてやる。お前が万全の態勢で私を待ち構えているその裏側で、お前が何よりも守りたかったはずの、あの温かい日常のすべてを、根こそぎ奪い去ってやる。だが、自分で直接手を下すのは能がない。完璧なプロの仕事とは、指一本触れずに、標的を絶望の底へ叩き落とすことだ。私は、公安が極秘にマークしていた「規格外品」を利用することにした。二葉義人。社会を震撼させている、現行の警察組織では足取りすら掴めない連続幼女殺人鬼だ。私は「岡田食品」のデータベースから二葉の潜伏先を特定し、彼が好む獲物の条件、行動パターンの癖を冷徹に分析した。そして、私の手足となる違法な監視網と、偽造した情報網を静かに動かした。二葉の歪んだ本能を刺激するような「道標」を、彼の視界の先に、それと気づかれぬよう配置していく。お前が探している最高の獲物は、ここにいる。お前を満たしてくれる存在は、この家にいる――。私の誘導に引き寄せられるように、狂った獣は、迷うことなく佛淵の自宅へと足を進めた。雨の激しい夜だった。私は、佛淵が私を待ち伏せしているであろう、偽の包囲網のさらに外側から、静かに彼の自宅を見つめていた。家の灯りが消え、しばらくした頃、影が一つ、音もなく窓から侵入していくのが見えた。二葉だ。しばらくして、家の中から、かすかな、しかし決定的な拒絶の気配が漏れてきた。胸の奥から、言葉にならない全能感が、熱い泥のように湧き上がってきた。体中の細胞が、歓喜で震えている。味がしなかった世界が、今、男の絶望という最高に鮮烈なスパイスで、真っ赤に染め上げられていく。スマートフォンが、ポケットの中で短く震えた。佛淵からだ。私を誘い出すために用意した、罠の場所への呼び出し。私は冷え切った画面を、愛おしむように指先でなぞった。お前が今、冷たい雨の中で銃を握りしめ、現れるはずのない私をじっと待っている姿が目に浮かぶ。お前が家に帰ったとき、一体どんな顔をするのだろう。自分が仕掛けた安っぽい罠のせいで、最愛の妻子を失ったと知ったとき、お前のその正義の顔は、どれほど美しく崩壊するのだろうか。私は応答を消去し、スマートフォンをポケットに仕舞い込んだ。冷たい雨を浴びながら、私はゆっくりと歩き出す。お前たちが追っているのは、もう事故でも事件でもない。すぐ近くの闇の中から、お前の人生が音を立てて崩壊していくのを、特等席で見つめている、この私自身だ。
「キミコは死ンダノヨネ。オトサンノセイデ」
何気に長いなあ。ちょっと力が入ってしまいましたかも。




