第2.5章 最愛の花嫁を迎える準備――冷徹公爵様、浮かれすぎです!
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「……ふっ」
ヴァレンシュタイン公爵邸へ戻ったアルベルトは、馬車を降りるなり、誰にも気づかれないよう小さく息を吐いた。
いや。
正確には、笑いそうになるのを必死に堪えていた。
――リリアーナが。
――私と結婚すると、言ってくれた。
思い出すだけで、胸の奥が熱くなる。
『はい。喜んで、お受けいたします』
あのときの彼女の笑顔。
花束を受け取ったときの、嬉しそうな表情。
そして、自分に向けられた柔らかな眼差し。
アルベルトは、無意識に口元を緩めた。
「……閣下?」
背後から声をかけられ、彼は即座に表情を引き締めた。
振り返ると、騎士団長のセドリックが不審そうにこちらを見ている。
「何だ」
「いえ……何か、よいことでもあったのかと」
「別に何もない」
「そうですか。では、どうして笑っておられたのです?」
「笑っていない」
「……そうですか」
セドリックは、それ以上追及しなかった。
主君が笑っている。
それだけで、何かとんでもないことが起きたのではないかと疑いたくなるのが、長年仕えてきた人間の悲しい性である。
しかし、アルベルトの頭の中は、すでに次の段階へ進んでいた。
――リリアーナが、この屋敷に来る。
――私の妻として。
――毎日、彼女に会える。
――朝起きたら、彼女が隣にいる……いや、隣の部屋か。
そこで、アルベルトは足を止めた。
「セドリック」
「はい」
「リリアーナの寝室だが」
「……はい?」
「私の寝室の隣にする」
「…………」
セドリックは、無言で主君を見つめた。
「何か問題か?」
「いえ。問題というほどではありませんが……奥様のお部屋は、まだ決まっていなかったのですか?」
「決まっていない。だから今、決めた」
「はあ……」
「私の部屋の隣だ。異論はないな?」
「……承知いたしました」
セドリックは、深く考えないことにした。
どうせ考えたところで、主君の決定は覆らない。
だが、彼はまだ知らなかった。
これが、長い長い苦労の始まりにすぎないことを。
◇
「それから、リリアーナの寝室の内装について相談がある」
翌朝。
執務室へ呼び出されたセドリックは、机の上に積まれた書類を見て、嫌な予感を覚えた。
その予感は、見事に的中した。
「寝室の内装……ですか?」
「ああ」
「それは、侍女長や執事長に相談されるべきでは?」
「彼女の好みがわからない」
「……それで、私に?」
「お前は私の友人だろう」
セドリックは頭を抱えた。
――出た。
――その言葉が出たら最後だ。
普段のアルベルトは、誰の意見にも左右されない。必要なことは自分で判断し、即座に決定する。
しかし、ことリリアーナに関しては別だった。
自分では判断できないことを、平然と友人へ丸投げしてくるのである。
「まず、色はどうするべきだと思う?」
「……奥様のお好みを伺うのが一番かと」
「嫁いでくる前に、ある程度は整えておきたい」
「でしたら、落ち着いた色合いでまとめ、細かな装飾は奥様が来られてから選んでいただけばよいのでは?」
「落ち着いた色合い……」
アルベルトは真剣に考え込んだ。
「白はどうだろう」
「よろしいのでは」
「淡い青は?」
「問題ないかと」
「花柄は?」
「お好み次第でしょうね」
「壁紙に花の模様を入れるのはどうだ?」
「……閣下」
セドリックの声が、わずかに低くなった。
「何だ」
「奥様の寝室を、花畑にするおつもりですか?」
「そんなつもりはない」
「でしたら、もう少し落ち着いてお考えください!」
アルベルトは眉をひそめた。
「私は真剣に考えている」
「それは存じております! 存じておりますが、寝室の内装は本来、屋敷の者たちと相談して決めるものです! なぜ私が、壁紙の柄からカーテンの色まで考えなければならないのですか!」
「セドリックにしか頼めないんだ」
「…………」
「友人として頼んでいる」
その一言に、セドリックはぴたりと口を閉ざした。
ずるい。
実にずるい。
普段は友人だろうが何だろうが容赦なく仕事を押しつける男が、こういうときだけ妙に真剣な顔をするのだ。
「……閣下」
「何だ」
「私は騎士団長であって、執事ではないんですよ」
「知っている」
「では、なぜそこまで私がしなければならないんです!」
「お前を信頼しているからだ」
「…………っ!」
セドリックは言葉に詰まった。
そんなふうに真顔で言われてしまえば、断りにくいではないか。
しかも、主君は本気なのだ。
リリアーナに少しでも快適に過ごしてもらいたい。
そのために、自分が信頼できる人間へ相談している。
セドリックには、それが痛いほどわかった。
「あーもう……」
彼は天井を仰いだ。
「わかりました。内装については、侍女長や執事長とも相談しておきます。ただし、最終的な決定は奥様ご本人に確認してからです」
「……ああ。頼む」
「それから、私の本来の職務に支障が出ない範囲でお願いします」
「わかった」
即答だった。
セドリックは、主君の顔をじっと見た。
――絶対にわかっていない。
しかし、もう諦めるしかなかった。
この人は、本当にリリアーナ様のことになると別人なのだ。
◇
「庭師を呼べ」
寝室の相談を終えたアルベルトは、間を置かずに次の指示を出した。
「かしこまりました」
ほどなくして、庭師長が執務室へやって来た。
「お呼びでしょうか、閣下」
「庭園に花を増やしたい」
「花、でございますか?」
「ああ。白い薔薇と、淡い青の花。それから、春には薄桃色の花も咲くようにしてほしい」
庭師長は、手元の帳面を開いた。
「承知いたしました。どの区画に植えましょうか?」
「リリアーナが散策するとき、楽しめる場所がいい」
「……奥様がお好きな花がおありなのですか?」
アルベルトは、そこで少し考え込んだ。
――好きな花。
そういえば、彼女に直接尋ねたことがない。
花束を贈ったとき、彼女はとても喜んでくれた。
だが、あれは花そのものが好きだったのか。それとも、自分が贈ったから喜んでくれたのか。
後者であれば、これほど嬉しいことはない。
……いや、待て。
それでは、彼女の好みを知ったことにはならないではないか。
「……リリアーナの好みは、本人に確認してから決めよう」
「かしこまりました」
「ただし、今ある花も大切にしろ。彼女が気に入る場所をいくつか用意しておきたい」
「承知いたしました」
庭師長が退出すると、アルベルトは窓の外へ目を向けた。
広大な庭園。
季節ごとに色を変える花々。
木漏れ日の差す小道。
噴水のそばに置かれたベンチ。
ここを、リリアーナが歩く。
彼女が花を見て微笑む。
気に入った場所を見つけて、また来たいと言ってくれるかもしれない。
――ああ。
――早く、彼女を案内したい。
「……閣下」
いつの間にか戻ってきていたセドリックが、疲れた声で呼びかけた。
「今度は何だ」
「まさか、庭園のすべてを奥様のお好みに変えるおつもりではありませんよね?」
「そのつもりはない」
「本当ですか?」
「彼女が気に入る場所を用意したいだけだ」
「それを一般的に、奥様中心の庭園改造と呼ぶのでは……」
「そうか?」
「そうです」
アルベルトは、少しだけ首を傾げた。
だが、すぐに真顔へ戻る。
「彼女が気に入ってくれるなら、それでいい」
セドリックは、もう何も言わなかった。
――駄目だ。
――この方は、完全に浮かれていらっしゃる。
それも無理はないのだろう。
十年間、胸に秘めてきた想いが、ようやく実を結んだのだから。
……だからといって、騎士団長を庭園管理の相談役にする必要はないと思うのだが。
◇
その日の午後。
アルベルトは、リリアーナの寝室にする予定の部屋を訪れていた。
大きな窓からは庭園が見渡せる。
日当たりもよく、広さも十分。
隣の部屋はアルベルト自身の寝室だ。
廊下を挟まず、すぐ隣。
何か困ったことがあれば、すぐに気づける。
……いや。
それは少々、過保護すぎるだろうか。
アルベルトは腕を組み、考え込んだ。
リリアーナは自立した女性だ。
何でも自分でできるし、他人に頼りきることを好まないかもしれない。
だからこそ、彼女の意思を尊重したい。
自分の都合だけで、彼女の生活を決めてはいけない。
「……まずは、本人に確認するべきだな」
そう呟き、彼は部屋を見渡した。
ベッドは窓から少し離れた場所へ。
書き物机は、自然光が入る位置に。
読書用の椅子も置こう。
彼女が本を読むなら、ゆっくり過ごせる場所が必要だ。
衣装部屋も十分な広さを確保したい。
侍女たちが出入りしやすいように、動線も考えるべきだろう。
そこまで考えて、アルベルトはふと我に返った。
――私は今、何をしている?
ただ寝室の場所を決めるだけだったはずだ。
それがいつの間にか、家具の配置や日当たりまで考えている。
しかし。
「……必要なことだ」
彼は真剣に頷いた。
大切な妻が暮らす部屋なのだから、当然だ。
決して、彼女がこの部屋で過ごす姿を想像しているからではない。
決して。
――彼女が窓辺で本を読む。
――庭園を眺めながらお茶を飲む。
――朝、目を覚まして、柔らかな陽光に微笑む。
……想像してしまった。
アルベルトは片手で顔を覆った。
「……早く会いたい」
ぽつりと零れた言葉は、誰もいない部屋に静かに消えていった。
◇
数日後。
セドリックは、執務室の机に積み上がった書類を前に、深々とため息をついていた。
騎士団の報告書。
訓練計画の承認書。
王宮への提出書類。
そして、なぜかその隣に置かれている大量の見本帳。
壁紙。
カーテン。
寝具。
家具。
花瓶。
「……なぜ、ここに花瓶の見本まであるんですか」
「リリアーナの部屋に置くものだ」
「それはわかっています!」
セドリックは叫んだ。
「ですが、花瓶の形まで私に相談する必要がありますか!?」
「必要だ」
「ありません!」
「丸いものと、細長いもの。どちらがいいと思う?」
「奥様にお聞きください!」
「……そうだな」
アルベルトは素直に頷いた。
セドリックは、拍子抜けした。
珍しく、すぐに引き下がったからだ。
しかし、主君は見本帳を閉じると、静かに口を開いた。
「リリアーナが来てから、一緒に選ぶことにする」
「……それがよろしいかと」
「彼女が自分で選んだものを置きたい」
セドリックは、ふっと表情を緩めた。
なるほど。
何もかも自分で決めたいわけではないのだ。
彼女に快適に過ごしてもらいたい。
彼女自身が気に入ったものに囲まれてほしい。
そのために、できる限りの準備をしておきたいのだろう。
「……閣下」
「何だ」
「奥様は、きっと喜ばれると思いますよ」
アルベルトの目が、わずかに見開かれた。
「……そうだろうか」
「ええ。ただし、あまり張り切りすぎて奥様を驚かせないようにしてください」
「わかっている」
「本当に?」
「……努力する」
セドリックは、思わず苦笑した。
努力する、ということは、つまり自信がないのだろう。
氷の公爵と呼ばれる男が、たった一人の女性を迎えるために、こんなにも悩み、考え、浮かれている。
十年前のあの日。
庭園でひとり悲しんでいた少年が、少女から小さな花を受け取った。
その花を、彼はずっと大切にしてきた。
そして今。
その少女が、彼の妻になる。
セドリックは、主君を見つめながら思った。
――どうか、うまくいきますように。
――そして、お願いですから、私の仕事をこれ以上増やさないでください。
その願いが叶うかどうかは、まったく別の話だった。
◇
夜。
アルベルトは自室の机に向かい、ひとつの書類を手にしていた。
リリアーナが公爵邸へ嫁いでくる日程。
結婚式の準備は着々と進んでいる。
寝室の手配も進めている。
庭園の準備も、屋敷の者たちが動いてくれている。
彼女が困らないように。
彼女が不安にならないように。
そして、できることなら――。
この屋敷を、彼女が帰りたいと思える場所にしたい。
「……リリアーナ」
アルベルトは、そっと名前を呼んだ。
彼女は、まだ自分の気持ちを知らない。
花束を贈ったのも、彼女が好きだから。
結婚を申し込んだのも、彼女と一生を共にしたいから。
寝室を隣にしたのも、できるだけ近くにいたいから。
庭園に花を増やそうとしたのも、彼女に笑ってほしいから。
すべては、彼女のため。
けれど、ひとつだけ。
アルベルト自身のための願いもあった。
――彼女に、私を好きになってほしい。
急がなくていい。
無理に答えを求めるつもりもない。
ただ、いつか。
彼女が自分の隣で心から笑い、ここを自分の家だと思ってくれたら。
そのときには、伝えたい。
十年前から、ずっと好きだったと。
「……待っている」
窓の外には、静かな夜の庭園が広がっていた。
アルベルトは、彼女が来る日を思い描きながら、ゆっくりと目を閉じた。
そして翌朝。
執務室にやってきたセドリックは、主君から新たな指示を受けることになる。
「セドリック」
「……はい。今度は何でしょうか」
「リリアーナが嫁いでくる日に、私の予定をすべて空けておけ」
「…………は?」
「彼女を迎えるのだから、当然だろう」
「閣下。王宮への報告と騎士団の会議が――」
「前倒しにする」
「そんな簡単におっしゃらないでください!」
「頼んだぞ」
「閣下ぁぁぁっ!」
屋敷中に、セドリックの悲鳴が響き渡った。
こうして、リリアーナが公爵邸へ嫁いでくる前から、ヴァレンシュタイン公爵家は大騒ぎだった。
そして当のアルベルトは、そんな騒動などまったく気にしていない。
なぜなら。
最愛の花嫁が、この屋敷に来る日が。
人生で、いちばん待ち遠しい日になっていたのだから。
第2.5章・了。




