第3章 新婚生活! 冷徹公爵様、公爵邸の案内は仕事より大事
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ヴァレンシュタイン公爵邸で迎える、初めての朝。
リリアーナ・ヴァレンシュタインは、窓から差し込む柔らかな朝日に目を細めた。
昨夜、案内された自室は、想像していたよりもずっと居心地がよかった。
窓の向こうには手入れの行き届いた庭園が広がり、淡い色合いで統一された家具は、目にするたびに心を落ち着かせてくれる。
窓際には、読書用の椅子まで置かれていた。
あの椅子に腰掛けて本を読んだら、きっと素敵な時間を過ごせるに違いない。
「……本当に、素敵なお部屋」
リリアーナは小さく微笑んだ。
まさか、あの冷徹公爵様が、自分のためにこんな部屋を用意してくれるなんて。
少し意外だった。
けれど、嬉しくないわけがない。
身支度を整えたリリアーナは、侍女に案内されて食堂へと向かった。
◇
食堂の扉を開けると、すでにアルベルトが席についていた。
「おはようございます、旦那様」
「……おはよう、リリアーナ」
朝の光を浴びながら微笑む妻。
それだけで、アルベルトの胸はどうしようもないほど満たされる。
――可愛い。
いや、待て。
朝からそんなことを考えている場合ではない。
夫として、まずは落ち着いて迎えなければ。
「よく眠れただろうか?」
「はい。おかげさまで、とてもよく眠れました」
「そうか。それはよかった」
アルベルトは平静を装いながら、彼女のために椅子を引いた。
リリアーナは礼を言って腰を下ろす。
朝食が運ばれ、穏やかな時間が流れ始めた。
しばらくして、リリアーナはふと思い出したように顔を上げた。
「旦那様」
「何だろう?」
「素敵なお部屋をご用意していただいて、ありがとうございます」
「……!」
アルベルトの手が止まった。
「窓からお庭が見えるでしょう? 朝日も気持ちよく入りますし、家具の色合いも落ち着いていて……それに、読書用の椅子まであるんです。とても嬉しかったですわ」
にこり。
リリアーナが心から嬉しそうに笑う。
その瞬間、アルベルトの内心では盛大な祝祭が始まっていた。
――喜んでくれた。
――私が用意した部屋を、気に入ってくれた。
――やはり、あの椅子は正解だったのだな!
実のところ、部屋の準備にはかなりの時間を費やしている。
家具の配置からカーテンの色、寝具の肌触りに至るまで、アルベルトは何度も確認した。
そして、その準備に付き合わされたのが、騎士団長セドリックである。
家具職人との打ち合わせに始まり、内装の確認、調度品の選定。
さらにはアルベルトから何度も呼び出されては、
『この色はどう思う?』
『椅子はこちらの方がよいだろうか』
『窓からの景色を邪魔しない配置にしたい』
などと相談され続けた。
そのたびにセドリックは思った。
――私は騎士団長であって、インテリアコーディネーターではありません!
しかし、主君の頼みを断るわけにもいかず、結局最後まで付き合ったのである。
「……気に入ってくれたのなら、何よりだ」
アルベルトは、どうにか平静を保った声で答えた。
「これから、あのお部屋で過ごす時間が楽しみですわ」
「そうか。必要なものがあれば、何でも言ってほしい」
「ありがとうございます。でも、あまりお気遣いなさらないでくださいね? 私、自分のことは自分でできますから」
「……わかっている」
アルベルトは頷いた。
わかっている。彼女は自分のことを自分でできる女性だ。
むしろ、何でも一人でやろうとするからこそ、心配なのだが。
――いや。ここで余計なことを言えば、また「自分でできます」と返されるだろう。
アルベルトは、ひとまずその言葉を飲み込んだ。
◇
その頃、食堂の外では。
「……聞きましたか?」
「ええ。奥様、お部屋を気に入ってくださったようですね」
侍女たちが、嬉しそうに小声で話していた。
部屋の準備には、彼女たちも関わっていた。
寝具の選定やカーテンの取り付け、調度品の配置に至るまで、アルベルトの細かな注文に応えながら、皆で整えた部屋だった。
そのため、リリアーナの言葉は彼女たちにとっても嬉しい知らせだった。
「窓際の椅子も、何度も位置を調整したんですよね」
「ええ。朝日が差し込む時間に合わせて、何度も確認しましたもの」
「奥様が喜んでくださって、本当によかったです」
そこへ、書類を抱えたセドリックが通りかかった。
「……何を話しているんです?」
「あら、セドリック様。奥様がお部屋を気に入ってくださったそうですよ」
「え?」
「家具も色合いも、読書用の椅子も。とても嬉しかったとおっしゃっていました」
セドリックは、思わず足を止めた。
そして、食堂の中へ視線を向ける。
アルベルトとリリアーナが、穏やかに会話をしている。
その光景を見て、セドリックはふっと息を吐いた。
「……そうですか」
口元が、わずかに緩む。
あれだけ振り回されたのだ。
何度も呼び出され、何度も意見を求められ、仕事の合間に家具職人と打ち合わせをした。
正直、もう二度とごめんだと思ったこともある。
だが、奥様が喜んでくださったのなら。
「……まあ、苦労した甲斐はありましたね」
「セドリック様も、かなり頑張っていらっしゃいましたものね」
「いえ、私は別に……」
そう言いかけたセドリックは、ふと気づいた。
自分の口元が、自然と緩んでいることに。
「……奥様が気に入ってくださって、よかったです」
その声には、心からの安堵が滲んでいた。
――よかった。
本当に、よかった。
そして、彼は思う。
――これで、あの無茶な注文も報われたということにしておこう。
そう思った。
◇
朝食も終わりに近づいた頃、リリアーナが遠慮がちに切り出した。
「旦那様。ひとつ、お願いしてもよろしいでしょうか?」
「もちろんだ。何でも言ってくれ」
「実は、王都でお買い物をしてみたいのです」
「……買い物?」
「はい。お洋服やアクセサリーのお店を見て回りたいですし、薬草を扱っているお店にも興味がありますの」
リリアーナは指先をそっと重ねた。
「こちらに来たばかりですから、街のこともまだよく知りませんし……。すぐでなくても構いません。旦那様のご都合がよろしい日に、ご一緒できたら嬉しいですわ」
その言葉を聞いたアルベルトは、わずかに目を見開いた。
妻と王都で買い物。
二人で街を歩き、彼女が気に入ったものを選ぶのを隣で見守り、疲れたら茶店で休み、帰りには彼女の好きなものを買って帰る。
……素晴らしい。
想像しただけで、胸が躍った。
「わかった。私が一緒に行こう」
「本当ですか?」
「ああ。君が行きたい店には、すべて付き合う」
「まあ! ありがとうございます、旦那様!」
リリアーナの顔がぱっと明るくなる。
アルベルトは、危うくその笑顔を見つめたまま固まるところだった。
――よし。日程を調整しよう。
――護衛は必要だな。王都とはいえ、人通りの多い場所もある。
――馬車は揺れの少ないものを用意する。休憩場所も事前に確認しておこう。
――それから、彼女が歩き疲れないように、店同士の距離も調べて……。
彼の脳内では、すでに買い物の計画が国家機密並みの規模へと膨れ上がり始めていた。
「閣下。念のため申し上げますが、王都への買い物は軍事作戦ではありませんからね」
食堂の入口から、冷静な声が飛んできた。
振り返れば、書類を抱えたセドリックが立っている。
「……何の話だ?」
「いえ。今、ものすごい勢いで護衛の配置を考えていらっしゃるように見えましたので」
「当然だ。リリアーナが出かけるのだからな」
「護衛は必要でしょうが、街中に騎士団を総動員するようなことはおやめください!」
「誰がそんなことをする」
「閣下ならやりかねないから申し上げているんです!!」
セドリックの悲痛な叫びが、食堂に響いた。
リリアーナは目を丸くしたあと、くすりと笑った。
「セドリック様もご一緒されますか?」
「えっ?」
「よろしければ、ぜひ。旦那様とお二人だけでは、私が道に迷ってしまうかもしれませんし」
「……リリアーナ様」
セドリックの目が潤んだ。
なんとお優しい奥様だろう。
この方なら、きっと閣下の暴走を止めてくださるに違いない。
「ありがとうございます。では、私も――」
「セドリックは留守番だ」
「閣下ぁぁぁっ!!」
即答だった。
「なぜですか!? 私がいれば護衛の人数も調整できますし、道案内だってできますよ!?」
「君には仕事があるだろう」
「それは閣下も同じです!!」
まったくもって、その通りである。
しかしアルベルトは、涼しい顔で妻へ向き直った。
「日程が決まったら知らせよう。君が楽しめるよう、準備しておく」
「ありがとうございます。楽しみにしておりますわ」
リリアーナは嬉しそうに微笑んだ。
その笑顔を見たアルベルトは、静かに決意した。
――絶対に、最高の一日にしてみせる。
そしてセドリックは悟った。
――ああ、これは大変なことになった。
買い物の日まで、閣下の仕事が進まない未来が見える。
いや、待て。
そもそも、今朝の仕事すら始まっていない。
◇
朝食後。
「旦那様。このお屋敷の中を、少し見て回ってもよろしいでしょうか?」
アルベルトは即座に答えた。
「もちろんだ。私が案内しよう」
「よろしいのですか?」
「ああ。君が暮らす場所なのだから、知っておいた方がいい」
「ありがとうございます。では、お仕事のご都合がよろしいときに……」
「今から行こう」
「……え?」
リリアーナは目を瞬かせた。
「ですが、旦那様。お仕事があるのでは?」
「問題ない」
問題は大いにあった。
彼の執務室には、決裁を待つ書類が山のように積まれている。
「本当に?」
「問題ない」
二度も断言された。
リリアーナは少し考えたあと、にこりと微笑んだ。
「では、お言葉に甘えさせていただきますわ」
「……ああ」
アルベルトは立ち上がった。
その表情は、いつもどおり冷静沈着。
しかし、その内心は――。
(リリアーナと二人で屋敷を回る)
(彼女に、この屋敷を知ってもらえる)
(私が、彼女に直接案内できる……!)
歓喜に満ちあふれていた。
もちろん、彼はそんな心情を一切表に出さない。
出さないつもりだった。
◇
書類を片づけるべく朝から待機していたセドリックは、二人の会話を聞きつけ、血相を変えて駆け込んできた。
「閣下ぁぁぁっ!!」
「……何だ、セドリック」
「仕事してくださいっ!」
「仕事は後だ! 今はそれより大事な事がある!」
「大事な事って何ですか!?」
「妻に屋敷を案内することだ」
「書類よりもですか!?」
「当然だ」
「当然ではありませんっ!!」
セドリックの魂の叫びが、広い廊下にこだました。
リリアーナは困ったように眉を下げた。
「旦那様、あの……。私でしたら、セドリック様や執事長に案内していただいても構いませんのよ?」
「駄目だ」
アルベルトはきっぱりと答えた。
「えっ?」
「私が案内する」
その声は、普段の冷徹な公爵のものとは少し違っていた。
威圧するような響きはない。
ただ、彼女の申し出を心から喜んでいることが伝わる、穏やかな声だった。
「君に、この屋敷のことを知ってほしいんだ」
リリアーナは、思わず言葉を失った。
ここは、今日から自分が暮らす家。
アルベルトにとって大切な場所であり、彼が日々を過ごしてきた場所でもある。
そんな場所を、自ら案内したいと言ってくれている。
「……ありがとうございます、旦那様。ぜひ、お願いいたします」
「ああ」
アルベルトの表情が、ほんの少し和らいだ。
そして彼は、リリアーナの前に立つと、すっと手を差し出した。
「エスコートさせてほしい」
「……っ!」
リリアーナの頬が、たちまち赤く染まる。
戸惑いながらも、彼女はそっと自分の手を重ねた。
アルベルトの大きな手が、彼女の手を優しく包み込む。
「では、参ろうか」
「は、はい……」
二人は並んで歩き始めた。
アルベルトはリリアーナの歩幅に合わせ、段差があれば自然に歩調を緩める。
その仕草はあまりに自然で、まるでずっと前からこうしていたかのようだった。
――冷たい方だと思っていたけれど……。
リリアーナは、繋いだ手にそっと視線を落とす。
――思っていたより、ずっとお優しいのね。
一方のアルベルトはというと。
――手を繋いでいる。
――リリアーナと。
――私の妻と。
内心では、もはや冷徹公爵の威厳など跡形もなかった。
だが、表情だけは平静そのもの。
妻をエスコートするのは当然だ。
夫として、何らおかしなことではない。
……そう自分に言い聞かせながら、アルベルトは彼女の手を大切に握り続けた。
その後ろ姿を見送ったセドリックは、呆然と立ち尽くしていた。
「……閣下が、あんな顔をなさるとは」
普段、誰に対しても冷静で、感情を表に出すことの少ないアルベルト。
その彼が、リリアーナの隣では驚くほど柔らかな表情をしていた。
――ああ、本当に。
――閣下は、リリアーナ様のことがお好きなのだな。
それは、長年そばに仕えてきたセドリックだからこそわかることだった。
……喜ばしいことではある。
大変、喜ばしいことではあるのだが。
「セドリック」
「はいっ!」
前方から、アルベルトの声が飛んできた。
「私たちが戻るまで、執務室で待っていろ」
「……はい?」
「それと、明日の予定を調整しておいてくれ。午後はリリアーナに、庭園の残りを案内したい」
「閣下ぁぁぁっ!!」
やっぱり仕事してくださいっ!!
◇
最初に案内されたのは、広々とした大広間だった。
高い天井には美しい装飾が施され、壁際には歴代のヴァレンシュタイン公爵家当主の肖像画が並んでいる。
「こちらは大広間だ。客人を招くときにも使う」
「まあ……! とても立派ですわね」
「君も、友人を招きたければ自由に使ってくれて構わない」
「私が、友人を?」
「ああ。イザベル嬢だったか。君と親しいのだろう?」
リリアーナは驚いた。
自分の友人の名前まで覚えていてくれたのだ。
「はい。イザベルとは、とても仲良くしておりますわ」
「ならば、いつでも招待するといい。茶会を開きたいなら、必要なものは用意させよう」
「ありがとうございます。いつか、ぜひ!」
リリアーナの笑顔が輝く。
アルベルトは、それを見て静かに頷いた。
――友人を招くための部屋も、もう少し整えておこう。
――茶器は彼女の好みに合うものを……。
彼の脳内では、早くも新たな計画が始動していた。
◇
次に訪れたのは、屋敷の図書室だった。
扉を開けた途端、リリアーナの目が輝いた。
「まあ……!」
壁一面に並ぶ本棚。
歴史書、魔法書、地理書、薬草学の専門書。
その中には、一般にはあまり出回らない古代魔法に関する貴重な書物も数多く収められていた。
「素晴らしい図書室ですわ……!」
「気に入ったか?」
「はい! こんなにたくさんの本があるなんて……!」
リリアーナは、思わず本棚に近づいた。
背表紙を目で追っているうちに、ひとつの古代魔法の研究書が目に留まる。
「あっ……。こちらの本、以前から読んでみたかったのです」
「ならば、好きなだけ読めばいい」
「よろしいのですか?」
「もちろんだ。必要な本があれば取り寄せよう。古代魔法について調べたいことがあるなら、私にも相談してくれ」
リリアーナは目を丸くした。
「旦那様も、古代魔法にお詳しいのですか?」
「多少はな」
「ありがとうございます。これから、こちらで勉強するのが楽しみですわ」
嬉しそうに本棚を見上げるリリアーナを、アルベルトは穏やかな眼差しで見つめた。
――彼女が好きなことを、思う存分できる場所にしたい。
◇
図書室を出た二人は、温室へと向かった。
ガラス張りの温室には、季節の花々だけでなく、さまざまな薬草や珍しい植物が育てられている。
「まあ、薬草もあるのですね!」
リリアーナは嬉しそうに温室を見渡した。
「ここでは薬草も育てている。必要なものがあれば、遠慮なく使ってくれ」
「本当ですか?」
「ああ」
リリアーナは、ひとつの鉢の前で足を止めた。
「こちらは、傷薬に使われる薬草ですね。日当たりと水はけを調整すれば、もう少し元気に育つと思いますわ」
「そうなのか?」
「はい。もしよろしければ、私もお世話をさせていただけませんか?」
「もちろんだ。必要な道具も用意させよう。庭師にも協力させる」
「ありがとうございます!」
「ほかにもやりたいことがあれば、何でも言ってくれ」
リリアーナは、ふと彼を見上げた。
「……旦那様は、お優しいのですね」
「私が?」
「はい。私のしたいことを、きちんと聞いてくださいますから」
その言葉に、アルベルトは一瞬、返事を忘れた。
彼はずっと、彼女を守りたいと思ってきた。
危険から遠ざけ、傷つかないようにし、何不自由なく暮らせるようにする。
それが、彼女を大切にすることだと信じていた。
だが、それだけでは足りないのかもしれない。
彼女には、彼女自身の望みがある。
それを奪わず、彼女らしく生きられるように支えること。
それもまた、彼女を愛するということなのだろう。
「……君が望むことなら、できる限り叶えたいと思っている」
アルベルトは、静かに答えた。
リリアーナは嬉しそうに微笑んだ。
◇
温室を出ると、二人は庭園へと向かった。
広々とした庭には、色とりどりの花が咲き誇っていた。
白い薔薇、淡い桃色の花、青紫の小花。
風が吹くたび、花々が優しく揺れる。
「……まあ。とても綺麗なお庭ですわね」
リリアーナは、思わず足を止めた。
実は、この庭園には少しだけ手を加えている。
彼女が来ると決まってから、アルベルトは庭師に頼み、いくつかの花を植え替えてもらったのだ。
「こちらの花は、最近植えられたものですか?」
「……ああ」
「どれも素敵ですね。まるで、私を歓迎してくれているみたい」
「君に、この屋敷を好きになってほしかった」
気づけば、アルベルトはそう口にしていた。
リリアーナは、彼を見上げた。
「ここは、君の家でもあるのだから」
アルベルトは、彼女の手をそっと握り直した。
「君が心地よく過ごせる場所にしたい。好きなことをして、好きな本を読んで、好きな花を育てて……。そうして、ここを君の帰る場所だと思ってくれたら、嬉しい」
リリアーナは、しばらく彼を見つめていた。
「……私、このお屋敷が好きになりそうですわ」
リリアーナは、花々を見渡しながら微笑んだ。
「お部屋も、図書室も、温室も。素敵な場所がたくさんありますもの。それに……」
「それに?」
「旦那様が、こんなに丁寧に案内してくださったことも、とても嬉しかったです」
アルベルトは、息を呑んだ。
ふと、脳裏に懐かしい光景がよぎった。
十年前。
まだ少年だった自分が、ひとりで庭に座っていた日のこと。
誰にも見せられなかった悲しみを抱えて、ただ俯いていた自分。
そんな自分に、小さな少女が近づいてきた。
そして、花を差し出してくれた。
あの日の記憶が、遠い記憶の向こうから蘇る。
アルベルトは、目の前のリリアーナを見つめた。
彼女は、まだ何も知らない。
自分がどれほど長い間、彼女を想い続けてきたのか。
あの日の小さな花を、今も大切に持っていることも。
それでも、今はまだいい。
いつか、伝えられる日が来るだろう。
そのときまでは、少しずつでいい。
「……さあ、もう少し案内しよう」
「はい!」
二人は再び、手を繋いで歩き始めた。
◇
屋敷の案内を終える頃には、窓の外の光も傾き始めていた。
「今日は、ありがとうございました。とても楽しかったですわ」
リリアーナは、アルベルトに向かって微笑んだ。
「そうか。それならよかった」
「これから、このお屋敷で暮らしていくのが楽しみです」
アルベルトは、穏やかに頷いた。
――よかった。
彼女がそう言ってくれるだけで、今日一日の苦労など、すべて報われる気がした。
……もっとも、苦労したのは主にセドリックなのだが。
「明日は、今日回れなかった庭園の奥も案内しよう」
「まあ! よろしいのですか?」
「ああ。まだ見せたい場所がある」
「楽しみにしておりますわ」
リリアーナは嬉しそうに微笑んだ。
そして、彼女が侍女とともに部屋へ戻っていくのを見届けたアルベルトは、満足げに頷いた。
よし。
明日の予定も決まった。
あとは、執務を片づけるだけだ。
◇
執務室の扉を開けた瞬間、アルベルトは立ち止まった。
机の上には、山。
右にも山。
左にも山。
そして、机の前には腕を組んだセドリックが立っていた。
「……閣下」
「……何だ」
「本日、処理していただく予定だった書類です」
「……ああ」
「一枚も、片づいておりません」
「……そうだな」
「そうだな、ではありませんっ!!」
セドリックの声が、執務室を揺らした。
「閣下が奥様をご案内されている間、こちらは必死に仕事を進めていたんですよ!? それなのに、戻ってきたと思ったら明日の予定まで追加ですか!?」
「明日の午前中は執務に充てる。午後に庭園を案内する」
「結局それが目的ですかぁぁぁっ!!」
アルベルトは、眉ひとつ動かさずに答えた。
「リリアーナとの約束だからな」
「約束を守るのは大切です! ですが、仕事もしてくださいっ!!」
「わかっている」
「本当ですか!?」
「ああ」
アルベルトは椅子に腰を下ろし、書類を手に取った。
そして、ごく真面目な顔で言った。
「……リリアーナが喜んでくれるのなら、多少の苦労は構わない」
「その苦労をしているのは私です!!」
セドリックの魂の叫びが、再び響き渡った。
こうして、ヴァレンシュタイン公爵家の新婚生活は幕を開けた。
愛する妻のためなら、どんな手間も惜しまない冷徹公爵。
自分のことは自分でできると主張しながらも、夫の優しさに少しずつ心を開いていく花嫁。
そして、その二人に振り回される、気の毒な騎士団長。
ただし、セドリックにはひとつだけ、嬉しいことがあった。
奥様が、自分たちの用意した部屋を気に入ってくださったこと。
その笑顔を思い出せば、あの苦労も悪くなかったと思える。
……もっとも。
「セドリック、明日の庭園の案内についてだが――」
「まだ何かあるんですか!?」
「リリアーナが喜びそうな花を、もう少し増やしたい」
「閣下ぁぁぁっ!! まずは書類を片づけてくださいっ!!」
セドリックの長い一日は、まだまだ終わりそうになかった。
第3章・了。




