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過保護公爵様の溺愛はお断りです!自分の事は自分で出来ます!  作者: 蒼井あくあ


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2/4

第2章 結婚成立! 冷徹公爵様、妻を迎える前から様子がおかしい

ご覧いただき、ありがとうございます。

楽しんでいただけましたら、嬉しいです。

「……花束、ですか?」


ヴァレンシュタイン公爵邸の執務室。


主君の口から飛び出した言葉に、騎士団長セドリック・アシュフォードは思わず聞き返した。


「そうだ。女性に贈る花束は、どのようなものがいい」


アルベルト・フォン・ヴァレンシュタイン公爵。


氷のように冷たい眼差しと、誰も寄せつけない威圧感で知られる男である。


王宮の重臣でさえ、彼と対峙するときには言葉を選ぶ。


その公爵が、花束の相談をしている。


セドリックは額に手を当てた。


「……閣下。ついに頭でも打たれましたか?」


「斬られたいのか?」


「いつもの閣下で安心しました」


「質問に答えろ」


「贈る相手は、もちろんリリアーナ様ですね?」


アルベルトは一瞬だけ黙った。


そして、わずかに頬をこわばらせる。


「……ああ」


その返事を聞き、セドリックは心の中で天を仰いだ。


――十年前に出会った少女に、今も恋をしている。しかも、本人にはそのことを一切伝えられない。


主君の恋路が前途多難であることは、もはや疑いようがなかった。


「花屋で買うのもよいですが、せっかくなら公爵邸の庭で、ご自身で選ばれてはいかがですか?」


「庭で?」


「ええ。ご自分で選んだ花なら、お気持ちも伝わるでしょう」


「……なるほど」


アルベルトは真剣にうなずいた。


セドリックは少しだけ安心した。


これで少なくとも、王都中の花屋を買い占めるという事態は避けられるだろう。


しかし、その期待は甘かった。


翌朝。


アルベルトは庭師を呼び、花の種類や花言葉について尋ね、庭の一角で長時間にわたって花を選び続けたのである。


白い薔薇。


淡い青のデルフィニウム。


そして、小さな白い花。


十年前、ひとりぼっちで庭に座っていた自分に、少女が差し出してくれた花を思い出す。


『お兄様、悲しいの?』


あの日、彼女はそう尋ねた。


怖いとも、近寄りがたいとも言わず、ただ自分の悲しみに気づいてくれた。


あの瞬間から、アルベルトの世界は変わってしまったのだ。


「……リリアーナ」


名前を口にしただけで、胸が熱くなる。


けれど。


「好きだ」


そう言うだけのことが、どうしてもできなかった。


戦場で敵に囲まれても、王宮でどれほど厄介な交渉をしても、こんなふうに緊張したことはない。


花束を抱えた公爵は、誰にも見られないよう深く息を吐いた。


――大丈夫だ。私は公爵だ。


自分にそう言い聞かせる。


だが、これから会いに行くのは、十年間ずっと忘れられなかった女性なのだった。


   ◇


「まあ……公爵様?」


エヴァレット邸の応接室。


突然の訪問に、リリアーナは目を丸くした。


先日、結婚の申し込みを受けたばかりのヴァレンシュタイン公爵が、再び訪ねてきたのである。


しかも、その手には美しい花束があった。


「突然の訪問をお許しください」


「いいえ、とんでもございません。どうぞお掛けくださいませ」


アルベルトは促されるままソファに腰を下ろした。


表情はいつもどおり冷静沈着。


背筋はまっすぐで、所作にも隙がない。


けれど、内心はまったく違っていた。


――近い。


向かいに座るリリアーナが、近い。


淡い金色の髪。澄んだ瞳。柔らかな微笑み。


十年前はまだ幼かった少女が、今はこんなにも美しい女性になっている。


アルベルトは、危うく手にした花束を握りつぶしそうになった。


「こちらを」


「私に、ですか?」


「ああ。……あなたに」


差し出された花束を、リリアーナは驚いたように見つめた。


白い薔薇と淡い青の花々。その間に、小さな白い花が可憐に咲いている。


「まあ……とても素敵です! ありがとうございます、公爵様」


花束を受け取ったリリアーナの顔に、ぱっと笑顔が広がった。


その瞬間。


アルベルトの心臓が、盛大に跳ねた。


――笑った。


私が贈った花を見て、笑ってくれた。


花を選ぶのに何時間もかけた甲斐があった。庭師に相談した甲斐も、セドリックに助言を求めた甲斐もあった。


いや、あるどころではない。


この笑顔だけで、今日という日は人生最高の日に決定した。


「……お気に召したなら、よかった」


どうにか口にできたのは、それだけだった。


リリアーナは花束を眺めながら、嬉しそうに微笑んでいる。


「お庭で摘まれたのですか?」


「ええ。私が選びました」


「まあ、ご自身で?」


「……はい」


アルベルトは、ほんの少しだけ胸を張った。


本当は言いたかった。


あなたを思いながら選んだのだと。


あなたに喜んでもらいたくて、何度も花を選び直したのだと。


けれど、口から出てきたのは。


「あなたに、似合うと思ったので」


それだけだった。


リリアーナは頬をわずかに赤らめた。


「ありがとうございます。大切にいたしますわ」


――大切にする。


その言葉を聞いただけで、アルベルトは胸がいっぱいになった。


花束を大切にしてくれる。


できれば、私のことも大切に思ってくれたら。


そんな願いが、胸の奥からこぼれそうになる。


しかし、彼はまだ知らない。


リリアーナの頭の中では、まったく別の結論が導き出されていたことを。


(公爵様が、わざわざ花束を……。私のことを嫌ってはいらっしゃらないのね)


リリアーナはほっと胸をなで下ろした。


政略的な結婚になるのだろう。


相手は名高い公爵家の当主。自分に特別な好意があるとは思っていなかった。


だからこそ、花束を贈られたことが嬉しかったのだ。


(よかった。少なくとも、結婚後に冷たくあしらわれることはなさそうね)


――違う。


大いに違う。


アルベルトの心の中では、十年間積み重ねてきた愛情が今にもあふれそうになっていた。


だが、そのすべてがリリアーナには伝わっていなかったのである。


  ◇


しばらく穏やかな会話が続いたあと、アルベルトは静かに口を開いた。


「リリアーナ嬢」


「はい?」


「先日の申し出について、改めてお話ししたいことがあります」


リリアーナは背筋を伸ばした。


「はい。お聞かせくださいませ」


アルベルトは彼女をまっすぐに見つめた。


本当は、伝えたいことが山ほどある。


十年前からずっと忘れられなかったこと。


あなたに会うために、何度もエヴァレット邸の近くを通る理由を探していたこと。


あなたが望まない結婚をさせられると知り、どうしても黙っていられなかったこと。


そして何より。


あなたを、誰よりも幸せにしたいということ。


けれど、言葉にしようとすると、喉が詰まる。


「私は……あなたを、好ましく思っています」


ようやく出てきた言葉は、それだった。


アルベルトにとっては、ほとんど告白に等しい。


しかし、リリアーナは目をぱちぱちさせたあと、ふわりと微笑んだ。


「まあ……ありがとうございます」


そして、少し考えてから続ける。


「私も、公爵様のことを嫌ってなどおりませんわ」


「…………え?」


アルベルトの思考が止まった。


嫌っていない。


確かに、彼女はそう言った。


だが。


――嫌っていない?


――つまり、嫌われてはいないということか?


いや、言葉どおりならそうなのだが。


――私は、あなたを好ましく思っていると言ったのだが?


アルベルトの脳内で、さまざまな感情が渋滞を起こした。


嬉しい。


いや、嬉しいのか?


嫌われていないのは喜ばしい。


しかし、それはあくまで最低限の条件ではないだろうか。


自分は十年間、彼女を想い続けてきたのだ。


それなのに返ってきた答えが「嫌っていない」だけとは。


――いや、待て。


彼女は私を嫌っていない。


それだけでも、今は十分ではないか。


アルベルトは、どうにか自分を納得させた。


「……そうですか」


「はい」


リリアーナはにこやかにうなずいた。


「安心いたしました。公爵様のように立派なお方ですもの。私など、気に入っていただけるか不安でしたから」


「……リリアーナ嬢」


「はい?」


「あなたは……」


好きなのか、と聞きたかった。


私と結婚したいと思っているのか、と確かめたかった。


けれど、もし彼女が困った顔をしたら。


もし、今の穏やかな微笑みが消えてしまったら。


そう考えた途端、言葉が出なくなった。


アルベルトは、深く息を吸った。


そして、彼女に向き直る。


「改めて、私と結婚してください」


リリアーナは目を見開いた。


「……改めて、ですか?」


「ええ」


「先日も、お申し込みをいただきましたけれど……」


「あなたの意思を、きちんと確かめたいのです」


アルベルトは慎重に言葉を選んだ。


「あなたが望まない結婚を強いるつもりはありません。私との結婚を受け入れられないのであれば、遠慮なくおっしゃってください」


本当は、断られたらどうすればいいのかなど、考えたくもなかった。


だが、彼女の意思を無視してまで手に入れたいわけではない。


彼女には、自分で選んでほしかった。


自分の隣に立つことを。


自分と生きていくことを。


リリアーナは、花束を胸元でそっと抱えた。


そして、アルベルトを見つめる。


この人は、思っていたよりずっと誠実な人なのかもしれない。


冷徹な公爵という噂ばかり聞いていたけれど、わざわざ花を選んでくれた。自分の気持ちも尊重してくれている。


そして何より、自分を嫌ってはいないと言ってくれた。


(この方となら、きっと穏やかな結婚生活を送れるわ)


リリアーナは微笑んだ。


「……はい。喜んで、お受けいたします」


その瞬間。


アルベルトの世界から、音が消えた。


「…………」


「公爵様?」


「……私と、結婚してくださるのですか」


「はい。どうぞ、よろしくお願いいたします」


リリアーナが深々と頭を下げる。


アルベルトは、しばらく身動きひとつできなかった。


十年間、ずっと願っていた。


いつか彼女と結婚したい。


彼女の隣にいたい。


彼女が帰ってくる場所になりたい。


その願いが、今、現実になった。


「……ありがとうございます」


ようやく口にした声は、いつもより少しだけかすれていた。


「必ず、あなたを大切にします」


「ありがとうございます。私も、妻として精いっぱい努めますわ」


妻。


彼女が、自分の妻になる。


アルベルトは顔に出さないよう必死に耐えた。


ここで笑ってしまえば、威厳も何もかも吹き飛んでしまいそうだったからだ。


しかし、心の中では。


――妻。


――リリアーナが、私の妻に。


――どうしよう。


――嬉しい。 


――人生で一番嬉しい。


――いや、待て。これから毎日会えるのか?


――毎朝、彼女に会える?


――一緒に食事をして、同じ屋敷で暮らして、彼女の帰りを待てる?


アルベルトは、静かに目を伏せた。


危うく、今すぐ彼女を抱きしめたい衝動に駆られたからである。


もちろん、そんなことはしなかった。


彼女を驚かせたくなかった。


だから、いつもどおりの冷静な顔で告げる。


「……これから、よろしくお願いいたします。リリアーナ嬢」


「こちらこそ、よろしくお願いいたします。公爵様」


二人は微笑み合った。


ただし。


リリアーナは、良好な関係を築けそうな結婚相手を得たと思っていた。


一方のアルベルトは、十年間恋い焦がれた最愛の女性を妻に迎えることが決まり、人生最大の幸福に包まれていた。


その温度差は、まだ誰にも気づかれていない。


  ◇


アルセリア王国の王都にある大聖堂では、二人の結婚式が執り行われようとしていた。


貴族たちが集う、華やかな式典。


王族からの祝辞。


美しく飾られた祭壇。


そして、白い花々で彩られた長い回廊。


アルベルトは祭壇の前に立ち、静かに花嫁の到着を待っていた。


黒髪は整えられ、純白の正装に銀糸の刺繍が施されている。


その姿は凛々しく、近寄りがたいほど美しかった。


参列者たちは、口々に囁いていた。


「エヴァレット家のご令嬢は、どのようなお方なのだろうな」


「公爵閣下が自ら選ばれた花嫁だ。さぞ優れた女性なのだろう」


「さすがはヴァレンシュタイン公爵。結婚式でも表情ひとつ変えないな」


「緊張などされていないのでしょうね」


「氷血公爵らしい、見事な落ち着きだ」


……とんでもない。 


アルベルトの内心は、今まさに大惨事だった。


――リリアーナは、どんなドレスを着ているのだろう。


――似合っているだろうか。


――いや、彼女なら何を着ても美しいに決まっている。


――だが、もし。


――もし、あまりにも美しかったら?


――私は、きちんと誓いの言葉を言えるだろうか。


彼は静かに息を吐いた。


落ち着け。


自分は公爵だ。


王国の重鎮だ。


戦場でどんな危機に直面しても、冷静に判断してきた男だ。


花嫁が現れたくらいで、取り乱すはずがない。


――……いや、無理ではないか?


離れた所に立つセドリックは、主君の横顔をちらりと見た。


表情は変わらない。


しかし、手袋をはめた指先がわずかに強張っている。


(閣下……。どうか、式の途中で倒れないでくださいよ)


やがて、大聖堂の扉が開いた。


柔らかな光が差し込む。


厳かな音楽が流れ始める。


人々が一斉に振り返った。


そして。


純白のウェディングドレスに身を包んだリリアーナが、ゆっくりと姿を現した。


繊細なレースが胸元から袖へと流れ、長いヴェールには小さな花の刺繍が施されている。


金色の髪は優雅にまとめられ、真珠と白い花の髪飾りが輝いていた。


手にしたブーケは、白い薔薇と淡い青の花々。


あの日、アルベルトが贈った花束を思わせる色合いだった。


リリアーナは少し緊張した面持ちで歩いてくる。


その瞳は、少し緊張しながらも、まっすぐ祭壇を見つめている。


その姿を見た瞬間。


アルベルトは完全固まった。


―…………。


――………………。


呼吸を忘れた。


瞬きすら忘れた。


世界から音が消えたようだった。


ただ、彼女だけが見えた。


――美しい。


それ以外の言葉が、頭から消えた。


いつも美しいと思っていた。


けれど、今日の彼女は違った。


純白のドレスをまとい、こちらへ歩いてくる。


これから自分の隣に立つために。


自分の妻になるために。


自分がずっと想い続けてきた人。


あの日、花をくれた少女。


自分の心を救ってくれた、たったひとりの人。


彼女が一歩進むたび、アルベルトの胸はどうしようもなく締めつけられた。


――ああ。


――私は、この人を。


――本当に、愛しているのだな。


あまりにも当たり前のことを、改めて思い知らされる。


胸が痛いほど熱くなった。


彼は、無意識に一歩踏み出しかけた。


しかし、どうにか踏みとどまる。


……駄目だ。


ここで駆け寄ったら、参列者全員に見られる。


公爵としての威厳が。


いや、そんなものは今どうでもいい。


彼女のもとへ行きたい。


今すぐに。


手を取りたい。


その美しい姿を、誰よりも近くで見つめたい。


けれど、彼女が自分のもとまで歩いてきてくれる、その時間さえ大切にしたかった。


だから、アルベルトはただ立っていた。


いつもどおりの冷静な顔で。


……ただし、目だけは完全にリリアーナに釘付けだった。


リリアーナが祭壇の前にたどり着いた。


アルベルトは、そっと手を差し出した。


「……お手を」


「はい」


リリアーナが、その手に自分の手を重ねる。


指先が触れた瞬間、アルベルトの心臓が跳ねた。


彼女の手は、少し冷たかった。


緊張しているのだろうか。


彼は、包み込むように手を握った。


強くなりすぎないように。


彼女が嫌がらないように。


それでも、離したくないという気持ちだけは、どうしようもなかった。


「……綺麗ですね」


思わず、声が漏れた。


「え?」


リリアーナが顔を上げる。


アルベルトは、一瞬だけ言葉に詰まった。


……言ってしまった。


だが、もう取り消すつもりはなかった。


「とても……美しいです」


リリアーナの頬が、ほんのり赤く染まった。


「……ありがとうございます」


その微笑みに、アルベルトは再び撃沈した。


――笑った。


――私に笑ってくれた。


――今日の彼女は、世界で一番美しい。


いや。


きっと、明日も。


十年後も。


何十年後も。


自分にとって、彼女は世界で一番美しい人なのだろう。


そんな美しい人が自分の妻に。


私はこのまま一生分の幸運を使い果たすのではないだろうか。


式は厳かに進んだ。 


神官が、厳かな声で誓いの言葉を述べる。


「アルベルト・フォン・ヴァレンシュタイン。あなたは、リリアーナ・エヴァレットを妻とし、生涯を通じて愛し、尊重し、支え合うことを誓いますか」


アルベルトは、リリアーナを見つめた。


愛すること。


尊重すること。


支え合うこと。


どれも、彼が望んできたものだった。


「誓います」


迷いのない声だった。


「リリアーナ・エヴァレット。あなたは、アルベルト・フォン・ヴァレンシュタインを夫とし、生涯を通じて愛し、尊重し、支え合うことを誓いますか」


リリアーナは、隣に立つ夫を見上げた。


冷徹公爵。


最初は、近寄りがたくて、何を考えているのか分からない人だと思っていた。


けれど、彼は自分の意思を尊重してくれた。


花束を贈ってくれた。


そして、改めて結婚してほしいと伝えてくれた。


まだ知らないことはたくさんある。


夫婦として、これから築いていくものもたくさんある。


それでも。


この人となら、きっと。


「……誓います」


リリアーナは、微笑んだ。


その瞬間、アルベルトの胸に、言葉にできないほどの幸福が広がった。


――彼女が、私の妻になった。


――本当に。


――私の妻に。


「指輪の交換を」


指輪を交換する。


アルベルトは、彼女の細い指に指輪をはめた。


大切に。


決して傷つけないように。


まるで壊れやすい宝物を扱うように。


神官が、二人の手を重ねさせた。


「それでは、誓いの口づけを」


アルベルトの動きが、一瞬止まった。


……口づけ。


リリアーナと。


人前で。


いや、夫婦なのだから当然だ。


分かっている。


分かっているが。


――どうすればいい?


――どこに?


――額か、頬か、それとも唇に?


――いや、式の進行上、唇なのだろうか。


人生で数々の決断をしてきた公爵は、今、たったひとつの口づけを前に、完全に思考停止していた。


リリアーナが、小さな声で囁く。


「……旦那様?」


――――っ!!


アルベルトの心臓が、またしても撃ち抜かれた。


彼はどうにか微笑み、リリアーナのヴェールをそっと持ち上げた。


そして、彼女の額に、優しく口づけた。


ほんの一瞬。


触れるだけの、穏やかな口づけ。


リリアーナは驚いたように目を瞬かせたあと、ふわりと笑った。


アルベルトは、その笑顔を見て、胸の奥で静かに誓った。


――必ず、あなたを幸せにする。


――あなたの意思を尊重し、あなたの夢を支え、あなたの隣に立つ夫になる。


――そして、いつか。


いつか必ず、あなたに私の本当の想いを伝える。


十年間、ずっと愛していたのだと。


式を見守る貴族たちは感心したように囁き合った。


「さすがはヴァレンシュタイン公爵。実に堂々としておられる」


「花嫁への眼差しも、どこか優しいな」


「お二人はお似合いだ」


誰も知らない。


公爵が今、人生で最も幸福で、人生で最も落ち着きを失っていることを。


そして、隣に立つ花嫁が、その理由を半分も理解していないことを。


  ◇


結婚式が終わり、二人が大聖堂を後にする。


参列者たちから祝福の拍手が送られた。


「ご結婚、おめでとうございます!」


「公爵閣下、奥様、お幸せに!」


リリアーナは微笑みながら、参列者たちに頭を下げた。


アルベルトは、彼女の隣を歩いていた。


その表情は相変わらず冷静で、威厳に満ちている。


だが、彼女の手を握る指先には、ほんの少しだけ力がこもっていた。


「……旦那様?」


「何でしょう」


「手を、少し強く握りすぎではありませんか?」


「…………」


アルベルトは、はっとした。


「……失礼しました」


慌てて力を緩める。


リリアーナはくすりと笑った。


「ふふっ。そんなに緊張なさらなくても大丈夫ですわ」


「……緊張など、しておりません」


「本当ですか?」


「……ええ」


リリアーナは、楽しそうに目を細めた。


「では、どうして先ほどから、ずっと私を見ていらっしゃるのです?」


「…………」


アルベルトは沈黙した。


正直に答えるわけにはいかない。


あなたが美しすぎて、目が離せないからです。


あなたが笑うたびに、心臓が止まりそうになるからです。


あなたと手を繋いでいるだけで、今までの人生すべてが報われたような気がするからです。


……言えるはずがなかった。


「……花嫁が、美しかったので」


それだけ告げると、リリアーナは頬を赤くした。


「……もう。旦那様ったら」


アルベルトは、心の中で天を仰いだ。


――駄目だ。


――この人は、私を殺す気なのだろうか。


もちろん、リリアーナにそんなつもりはない。


彼女はただ、夫に褒められて照れているだけだ。


そして、その様子を少し離れた場所から見ていたセドリックは、深々と溜息をついた。


「……閣下」


  ◇


結婚式を終え、ヴァレンシュタイン公爵邸へ戻った二人。


リリアーナは自室へ案内される途中、広々とした屋敷を見回していた。


「とても素敵なお屋敷ですね」


「不便なことがあれば、すぐに申しつけてください」


「ありがとうございます。少しずつ慣れていきますわ」


「……ええ」


アルベルトは頷いた。


本当は、もっと話したかった。


疲れていないか。


食事は口に合うだろうか。


部屋は寒くないだろうか。


何か困っていることはないだろうか。


質問したいことは山ほどある。


しかし、心配しすぎれば彼女に窮屈な思いをさせてしまう。


だから、必死に言葉を飲み込んだ。


――落ち着け。


――彼女には、彼女の生活がある。


――私は、彼女を尊重しなければならない。


そう考えていたはずなのに。


「旦那様?」


「はい」


「どうかなさいましたか?」


「……いえ」


「何か、おっしゃりたいことが?」


「…………」


言いたいことなら、山ほどある。


できることなら、今夜はずっと一緒にいたい。


明日の朝も、その次の日も、彼女の顔を見ていたい。


けれど、そんなことを言えば、きっと困らせてしまう。


アルベルトは、どうにか平静を保って答えた。


「……明日の朝食は、ご一緒しても?」


「もちろんですわ」


リリアーナはにっこりと笑った。


「これからは家族なのですもの。ぜひご一緒に」


家族。


アルベルトは、その言葉を胸の中で繰り返した。


――家族。


――彼女と、家族になった。


その晩、アルベルトは自室でひとり、しばらく動けなかった。


「…………」


寝台に腰を下ろし、天井を見つめていた。


脳裏に浮かぶのは、純白のドレスをまとったリリアーナの姿。


微笑み。


赤く染まった頬。


そして、手を握ったときの温もり。


「……リリアーナ」


名前を呼ぶだけで、胸が苦しくなる。


彼は、枕に顔を埋めた。


「……美しかった」


誰に聞かせるでもなく、呟く。


「……本当に、美しかった」


しばらくして。


「…………もう一度、見たい」


……完全に重症だった。


そのとき、扉の向こうからセドリックの声がした。


「閣下。明日の公務について確認を――」


「明日の午前中は予定を空けておけ」


「……は?」


「妻と朝食を取る」


「…………」


「それから、庭園を散歩する」


「…………」


「午後は、彼女の希望を聞いて過ごす」


セドリックは、しばらく沈黙した。


そして、静かに尋ねた。


「閣下。念のためお伺いしますが……公務は?」


「午後から行う」


「書類が山積みですが」


「夜に片づける」


「睡眠時間は?」


「削る」


「おやめください!!」


公爵邸に、騎士団長の悲痛な叫びが響き渡った。


――終わった。


――公爵閣下の仕事量と、私の苦労が、これから増える未来しか見えない。


その頃、リリアーナは自室で侍女に手伝ってもらいながら、ウェディングドレスを脱いでいた。


「公爵様は、噂ほど恐ろしいお方ではありませんね」


侍女が微笑む。


「そうでございますね。とても誠実な方だと思います」


リリアーナも頷いた。


「花束まで贈ってくださったし、私の意思も尊重してくださったもの」


彼女は、机に飾られた花束へ視線を向けた。


「きっと、穏やかな結婚生活になるわね」


――穏やか。


その言葉を聞いたら、アルベルトはどう思うだろうか。


十年間、片想いをこじらせてきた公爵様が目指しているのは、穏やかな結婚生活だけではない。


彼女に笑ってほしい。


彼女に幸せでいてほしい。


そして、いつか。


彼女自身の口から、自分を好きだと言ってほしい。


こうして、氷の公爵と、彼の十年越しの想いにまったく気づいていない花嫁の新婚生活が始まったのである。


そして翌朝。


リリアーナは、食堂に並んだ八人の護衛を見て、思わず声を上げることになる。


「……旦那様? 朝食に護衛は必要なのでしょうか?」


アルベルトは、至極真面目な顔で答えた。


「必要です」


「どうしてですか!?」


「あなたが大切だからです」


――公爵様の過保護は、結婚初日から始まっていた。



第2章・了

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