第三章 狂騒の京と青き弟子
《第一節 神光院の静寂と青き弟子》
安政の年号が改まる頃、六十代を迎えた蓮月は、京の北端、西賀茂にひっそりと佇む神光院の庵に身を寄せていた。
東山の賑わいから離れたこの地は、竹林を吹き抜ける風の音と、鳥のさえずりばかりが響く静寂の世界であった。しかし、その静かな庵の扉を押し開けるようにして、時代の激流と若者たちの熱気が、絶え間なく流れ込んできたのである。
その筆頭が、まだ何者でもない青くさい情熱を持て余していた青年、富岡鉄斎であった。
画家を志しながらも己の書くべきものを見失い、青く昂ぶる血を持て余していた鉄斎は、知人の紹介を縁として蓮月の庵を訪れるようになった。蓮月は、この若者の眼光に宿る非凡な才気と、同時にその奥にある若さゆえの危うさを即座に見抜いていた。
だが、蓮月が鉄斎に教えたのは、絵の技法などではなかった。
「鉄斎さん。技を磨く前に、まず骨をつくりなさい」
薄暗い庵の中、蓮月は鉄斎の前に墨と紙を置き、自ら筆をとってみせた。蓮月の書く文字は、流れる水のようにしなやかでありながら、紙の裏まで墨が染み透るような太い芯が通っていた。
彼女は鉄斎に「書」を教え、「和歌」の真髄を説いた。そして何より、自らの生き方そのもので、ひとりの表現者が持つべき「人としての筋」を示した。
「絵というものはな、己の内の品格がそのままに滲み出るもの。心が濁っていれば、どれほど巧みに筆を走らせようと、濁った絵にしかならない。人間を磨きなさい。人を愛し、世の哀れを知りなさい」
鉄斎は、蓮月の傍らで作陶の手伝いをし、土を運び、鉄筆で歌を刻む彼女の横顔を毎日眺めながら過ごした。自分を飾ろうとせず、世間の評判など塵ほども気にかけず、ただ目の前の土と他者に対して無私であり続ける老尼の姿は、青年の傲慢な自尊心を静かに削り、やがて真の表現者としての骨格を形作っていったのである。
やがて安政の末年、さらなる高みを目指して長崎へ遊学しようと決意した鉄斎に対し、蓮月は惜しみない後押しをした。貧しい作陶暮らしの中で工面した旅費をそっと握らせ、旅立つ青年の背中にひとつの歌を贈った。
もろこしの月のかつらの一本も をりもてかへれわが家づとに
(異国へ渡るほどの気概を持って学問に励み、唐土の月の桂の枝を一本折ってくるような大きな成果を携えて、この家に無事に戻っておいでなさい)
我が子をすべて失った蓮月にとって、鉄斎は最後に出会った「我が子」であり、魂の継承者であった。涙をこらえて頭を垂れる鉄斎の頭を、蓮月は土で荒れた手で優しくなでた。
《第二節 野村望東尼との対話》
鉄斎が長崎へ旅立った後、時代はさらなる狂騒の度を深めていった。志士たちが潜伏し、暗闘を繰り広げる京の街から遠く離れた神光院の庵に、梁川星巌や梅田雲浜らをはじめとする文人や志士たちが、夜陰に紛れて身を寄せるようになっていた。
そんなある日、遠く九州筑前の国から、一人の女人が蓮月を訪ねてきた。九州・福岡藩の歌人であり、倒幕の志士たちを匿い、自らも時代の激流に身を投じていた歌人、野村望東尼である。
望東尼もまた、愛する夫を亡くした後に剃髪して仏門に入り、和歌を詠んで心をなだめてきた身であった。共に悲しみの底をくぐり抜け、歌を心の拠り所としてきた者同士として、二人は瞬く間に心を通わせた。
秋の陽が傾く神光院の静かな畳の上で、二人は向き合い、細い湯気を立てるお茶を啜っていた。
先に口を開いたのは、熱い情熱を瞳に宿した望東尼であった。
「蓮月様。この国は今、まさに大きく生まれ変わろうとしております。若き志士たちが命を賭して戦い、流血を恐れず立ち上がっている……。歌もまた、彼らの背中を押し、国を動かす刃とならねばならぬと私は信じております」
望東尼の言葉には、義憤と国を憂う烈々たる気が籠もっていた。
蓮月は急須を持ち、荒れた手で静かに茶を注ぎ足しながら、穏やかな目を望東尼に向けた。
「国を想い、若者たちを母のように慈しむお心……まことに尊いことでございますな。ですが、望東様。刃で立ち上がったものは、いずれ刃によって倒れます。人が人を切る火花の中からは、まことの安らぎは生まれません」
望東尼は眉をひそめ、まっすぐに蓮月を見つめ返した。
「では、この世の不条理や民の苦しみを前にして、ただ黙って歌を詠み、静観せよとおっしゃるのですか。それはあまりに冷淡ではございませぬか」
蓮月の唇に、ふっと寂しげで、しかしどこまでも深い微笑みが浮かんだ。
「冷淡……そう見えるかもしれませぬね。ですが、私には天下を動かす力も、正義を振りかざす知恵もございません。私にあるのは……かつて愛する夫や子供たちをすべて奪われ、血の出るような思いで土を握りしめた記憶だけです」
蓮月は自らの白く荒れた手のひらを見つめた。
「薩摩も長州も、幕府も……誰が勝ち、誰が負けようと、残されるのは、涙と、冷たい墓標だけでございます。だからこそ私は、どちらの味方にもなれませぬ。ただ、散っていく命の儚さと、いま生きていることの愛おしさを、素直に土と紙に刻むことしかできないのです」
その言葉の奥にある、果てしない絶望の淵と、それを乗り越えて辿りついた「圧倒的な無私」の境地に触れ、望東尼は息をのんだ。
己の政治的信念や「正義」すらも、蓮月の前ではひとつの「私心」に過ぎないのではないか――。望東尼の胸に、冷や水を浴びせられたような衝撃が走った。
「……蓮月様。あなたは、私などよりもずっと遠い『無』の場所から、この世をご覧になっているのですね」
望東尼は深く頭を垂れた。時代を動かそうと焦燥に駆られる自分と、時代そのものを優しく包み込んで静観する蓮月。二人の道は異なっていたが、根底にある「命への慈しみ」において、二人の魂は深く結ばれていた。
倒幕の風雲の中へと再び身を投じていく望東尼の背中を、蓮月は神光院の門前で、雲ひとつない秋の月のような瞳で見送るのであった。
《第三節 土の音と刃の収まり》
池田屋の血煙が京の街を覆い、禁門の変によって市中が焼き尽くされる時代が到来すると、京は白昼堂々と刀が交差する地獄へと変貌した。
新選組や、追われる身となった過激派の浪士たちが、血と汗の匂いを撒き散らしながら、ふらりと神光院の蓮月の庵に迷い込んでくることがあった。
刀の柄に手をかけ、狂気のような鋭い眼光で周囲を警戒する若者たち。彼らは敵か味方かもわからぬ老尼に対し、いつでも刃を抜く構えを見せていた。
しかし、蓮月は恐れる素振りすら見せなかった。
「よう来られましたな。喉が乾いているでしょう」
そう言って、井戸から汲み上げたばかりの冷たい水を差し出し、彼らの横で淡々と土を捏ね始める。
――ペタ、ペタ……。
――カリ、カリカリ……。
殺気立つ狭い庵の中に、土を叩くやわらかな音と、鉄筆が陶器の肌をなぞる静かな音だけが響き渡る。
月清み かきねにすだく 虫の名の すずろさむしも よや更ぬらん
(月は清らかに冴え渡り、垣根に集まって群れ鳴く虫の名も知れぬ声に、どこかわびしさと寒さを覚える。夜はすっかり更けてしまったのだろうか)
蓮月が鉄筆で器に歌を削り出すその手元を、若者たちは言葉を失って見つめていた。 そこには「天誅」も「忠義」も「幕府」も「薩長」もない。ただ、目の前の土に命を吹き込み、世界の美しさを言葉に刻む、透き通った老尼の「無」があるだけであった。
やがて若者たちの強張った肩から、ゆっくりと力が抜けていく。刃を握りしめていた指が緩み、自分がいかに浅はかな血気に囚われていたかを悟り、深く一礼して刃を収めたまま静かに庵を去っていった。
政治の言辞や思想の刃では誰も救えない。生きとし生けるものへの無私の慈愛と、土を捏ねる静寂の営みだけが、狂気に憑かれた男たちの殺意を静かに溶かしていくのである。激動の幕末のただ中で、蓮月の庵は、時代から取り残されたような、しかし何者も踏み荒らすことのできない「聖域」として、密やかに光を放ち続けていた。




