第二章 土を捏ねる女
《第一節 真葛庵の寂滅と市井への旅立ち》
養父・光古が八十四年の生涯を閉じてから、月日が流れた。
剃髪してより数年、身を寄せていた知恩院塔頭・真葛庵の畳の上に、三十九歳となった蓮月はただ一人佇んでいた。
庵を渡る風の音さえ、あまりに大きい。朝夕の読経の声を重ねる相手はもういない。かつて桂園派の歌人たちが集い、高雅な歌を詠み交わした真葛庵の空気は、いまや氷のように冷たく澄み切っていた。
(わたしは、なぜ生き残っているのだろう)
白木のお位牌の前に座し、蓮月は白く細い己の手のひらを見つめた。愛した者の温もりはすべてこの手からすり抜け、墓標の下の泥へと消えた。自分だけが、生という名の抜け殻となってここに佇んでいる。
真葛庵を出なければならなかった。唯一の庇護者であった光古亡きいま、いつまでも寺の塔頭に身を寄せ続けるわけにはいかない。なにより、この静寂の中に留まっていては、過去の記憶に押し潰されてしまう。
蓮月はわずかな身の回りの品と、歌を書き留めた帳面、そして一本の鉄筆だけを行李に詰めた。
都の東、東山の麓へ——。寺の庇護を離れ、ただの一人の無名の女として、市井の荒波の中へ足を踏み出す決意を固めたのである。
《第二節 泥から土へ、鉄筆の産声》
岡崎の地に小さな借家を見つけたものの、女一人、歌を詠むだけで食べていけるほど甘い世間ではなかった。式紙や短冊に歌を書いて売るにも、紙代さえおぼつかない。
そんな折、洛東の窯場や山道をあてもなく歩いていた蓮月の目に留まったのは、足元に転がる粘土の塊であった。雨に濡れ、滑らかで粘りけのある、東山の赤土。
(この土に、すがりついてみようか)
墓前で泣き濡れ、手についたあの「悲しみの泥」とは違う。目の前にあるのは、水を含み、指の力ひとつでどのような形にも姿を変える「生きた土」であった。
蓮月は衣服の裾を端折り、素手でその土を掬い上げた。ひやりとした冷たさが手のひらに伝わる。 手ろくろのような大がかりな道具を買う資力もない。あるのは己の十本の指だけだ。
――ペタ、ペタ、と濡れた土を叩く静かな音が、誰もいない借家に寂しく響く。
土を捏ね、丸め、親指で中央を押し窪めていく。だが、土は思うように従わなかった。薄く延ばそうとすれば破れ、底を整えようとすれば歪む。日暮れまで土と組み合い、出来上がったのは、とても茶道具とは呼べないような、歪で不器用な小さな盃や猪口であった。
爪の中まで黒く土が入り込み、かつて美人と謳われた指先は見る影もなく荒れた。だが、土を捏ねている間だけは、胸を苛む死者たちの面影が消え去っていることに気づいた。
土を叩き、捏ねる拳の振動が、そのまま己の生きている鼓動と重なる。泥に塗れて生きる覚悟が、ようやく指先から身体へと染み渡っていくようだった。
乾いた素焼きの小さな茶碗を前に、蓮月は細い鉄筆を静かに執った。ろくろで挽かれた均整な美しさなど微塵もない。少し傾き、厚みも不揃いな、武骨な土の塊。
――カリ、カリカリ……。
静寂のなか、陶器の柔らかい肌の上に、鉄筆で細くしなやかな仮名文字が刻まれていく。
月清み かきねにすだく 虫の名の すずろさむしも よや更ぬらん
(月は清らかに冴え渡り、垣根で啼く虫の声もどこかわびしく身に沁みる。夜はすっかり更けてしまったのだろうか)
歌を焼き付けることで、不器用な器にふっと魂が宿った。均等な美ではない。完璧な技法でもない。しかし、そこには私心を削ぎ落とし、ただ生きることの痛みに耐えてきた一人の女の「心」そのものが削り込まれていた。
近所の窯で焼き上がってきたその器は、ほんのりとした素朴な温かみを帯び、歪みすらも味として愛おしく見えた。
「大田垣の蓮月さんの焼く器で茶を点てると、不思議と角が取れて茶の味がやわらかくなる」
いつしか茶人や文人たちの間でその評判は静かに広がり、彼女の手ひねりの器は「蓮月焼」と呼ばれて市中で珍重されるようになっていった。
しかし、どれほどもてはやされようとも、蓮月にとって作陶は富や名声を得るための商いではなかった。泥を捏ね、土に言葉を彫り込むその無心の一刻だけが、死に別れた子供たちや夫、そして父の面影と静かに対話できる、唯一の呼吸であったのである。
《第三節 砕かれた美貌と無私の覚悟》
だが、蓮月焼の評判が高まるにつれ、彼女の慎ましい暮らしにも、再び俗世のざわめきがまとわりつき始めた。
出家して黒い墨染の衣に身を包み、質素に土を捏ねていようとも、三十代後半から四十代を迎えた蓮月には、なお隠しきれぬ品格と艶やかな美貌が漂っていた。器を買い求めるという名目で庵を訪れ、寄進や求婚を口実にして言い寄る男たちが後を絶たなくなったのである。
「蓮月様。このような借家で土仕事などなさらずともよいでしょう。私のところへ来られれば、何不自由のない暮らしをしていただけます。……いかがですかな」
身勝手な執着と好色な視線を注ぎ、顔を覗き込もうとする男たち。そのぬめりとした視線を受けるたび、蓮月の胸の奥には、氷のような冷ややかな風が吹き抜けた。
(男という生き物は……なぜこうも、外見という名の私心にとらわれ、浅はかな夢を見るのか)
愛する夫や子供たちをすべて奪われた蓮月にとって、男たちが向ける「女としての美」への執着など、あまりにも滑稽で価値のないものであった。
それからしばらくして、京の市中の茶屋や酒場では、ある凄絶な噂がひそやかに囁かれるようになった。
「見たか、あの知恩院出身の蓮月さんの顔を」
「いや、最近はとんと見かけねえが、どうしたんだ?」
「噂ではな、あまりにしつこく言い寄る男どもの好色な視線に嫌気がさして自分で己の前歯を何本も叩き抜き、顔の形を変えてしまったらしいぞ」
「なに……!? 己の手で美貌を打ち壊したというのか」
「そうだ。男どもの浅はかな執着を断ち切り、二度と不純な想いを寄せさせぬために、わざと顔を歪ませたのだそうだ」
その噂がどこまで真実であるかを知る者は、誰もいなかった。だが、その恐ろしくも哀しい噂が広まって以来、下心を持って蓮月の庵の門を叩こうとする男たちは、急速に姿を消した。男たちが慄いたのは、美貌が失われたことそのものではない。自らの美しさすら一瞬で投げ捨てて顧みない、その女の覚悟の前に、自らの欲望の醜さを突きつけられたからであった。
当の蓮月は、世間の噂など風の音ほどにも留めず、ただ静かに土を捏ね続けていた。 黒い衣の袖口から覗くその手は、水仕事と土仕事ですっかり荒れ、指先は固く固まっていたが、その瞳には一切の翳りもなく、澄み切っていた。
《第四節 屋越の月と無敵の自由》
名声が高まれば高まるほど、また人が集まれば集まるほど蓮月はその場所をあっさりと捨てた。
評判を聞きつけた客が押し寄せて利権の匂いが立ち込めたり家主や近所が彼女の知名度に寄りかかろうとすると蓮月はわずかな道具と土だけを風呂敷に包み、風のように別の借家へと移り住んだ。岡崎、粟田口、聖護院、北白川――。生涯で数十度にも及ぶその転居は、後世「屋越の蓮月」と語り継がれることとなる。
だが、評判を逃れて各地を転々とする旅路のさなか、彼女が静かに腰を落ち着けた先の借家には、いつしか近所の子どもたちや、今日を生きるのに必死な貧しい市井の人々の姿が集まるようになっていた。
あるぽかぽかと温かな春の日差しが差し込む午後、北白川の小さな借家の土間で、蓮月がひとり黙々と土を叩いていると、格子戸の間から裸足の子供たちがぞろぞろと覗き込んできた。
「おばあさん、何作ってるの?」
「土のおもちゃ?」
蓮月は荒れた手を止め、目元を和ませてふっと微笑んだ。
「おもちゃじゃないよ。でも、いっしょに捏ねてみるかい?」
蓮月は小さく丸めた粘土を、子どもたちの小さく汚れた手の上にそっと乗せた。
「そう、掌のぬくもりを土に分けるように……やさしく、まるめるんだよ」
子どもたちは歓声をあげ、泥だらけの手で夢中になって歪な団子や小さな器を作った。蓮月はその不揃いな形を愛おしそうに見つめ、自分の器を焼く際、子どもたちの作った土玉も窯の隅で一緒に焼き上げてやった。焼き上がった小さな宝物を手渡されると、子どもたちは飛び跳ねて喜び、蓮月を「土のおばあさん」と慕ってなついた。
またある夕暮れ、日雇いの仕事にもありつけず、肩を落とした近所の職人が、溜息をつきながら通りかかった。懐に手を入れて力なく佇む男の姿を見ると、蓮月は焼けたばかりの素焼きの小さな猪口をひとつ手に取り、ひょいと差し出した。
「これを持っていってお使いなさい。今夜のお酒が、少しでも美味しくなるといいですね」
男は驚き、慌てて首を振った。
「え、でも……おいら、買い取る銭なんて持ってねえよ」
「銭などいりませんよ。土は、もともと天からの授かりものですから。お役に立てば、それで十分です」
男は呆然としながらも、素朴な器を愛おしそうに両手で包み込み、何度も頭を下げて去っていった。
世間の男たちが向けた「女」としての執着や、利権に群がる欲望には、己の美貌すら投げ捨てて冷徹に背を向けた蓮月だった。だが、懸命に生きる貧しい民や、天真爛漫な子どもたちに向ける眼差しだけは、どこまでも柔らかかった。かつて我が子たちを奪われた女の胸には、いつしか、血のつながりを越えた慈しみが静かに息づいていた。
◇
そんな屋越の暮らしのさなか、あてにしていた借家の借り手が土壇場で反故となり、行き場を失った蓮月が、夜の京の市中で宿を断られる目に遭ったことがある。
着古した墨染の衣一枚で、春とは言えまだ肌寒い夜風に晒される。誰であれ、世間の冷たさを呪い、身の不運を嘆く場面であった。しかし、満開の桜が闇夜に白く浮かび上がる鴨川のほとりに佇んだ蓮月は、ふっと不敵に、そして愛おしそうに微笑んだ。
やどかさぬ人のつらさをなさけにて おぼろ月夜の花の下ふし
(宿を貸してくれなかった人の冷たさを、かえって風流な心遣いとして受け取ろう。おかげで今夜は、この美しいおぼろ月夜と満開の桜の下で横になることができるのだから)
世間の拒絶も、無理解も、冷たさすらも、彼女にとっては風流な余韻へと姿を変える。そこにはもは、世間への恨みも、自分を哀れむ心もなかった。すべてを受け入れ、すべてを微笑んで受け流す――それこそが、幾度も命の底まで突き落とされた蓮月が、ようやく手に入れた「無敵の自由」であった。
その夜、桜の樹の下で黒い袖を枕にして横たわった蓮月は、ふと夜風に乗って漂ってきたほのかな梅の残り香に鼻腔をくすぐられた。
出家し、墨染の衣に身を包み、己の美貌すら投げ捨てた彼女の胸の奥で、女としての豊かな感性が静かに呼吸していた。
墨染の袖にも梅のかをりきて 心げさうのすすむ夜半かな
(黒い出家の袖にも、どこからか梅の良い香りが漂ってくる。こんな夜半には、心がふっと華やぎ、心化粧でもしたくなるような艶やかな気持ちになるものだ)
彼女は禁欲に身を固めた不気味な聖者でもなければ、冷酷な偏屈者でもない。傷つき、血を流し、泥にまみれたからこそ、世界のあらゆる美しさと優しさを素肌で受け止めることができる。
春の夜空には、雲の合間からおぼろな月が浮かんでいた。泥の中から立ち上がり、土を捏ねる女の手には、もはや何物にも縛られない、くもりのない月光だけが静かに降り注いでいた。




