第一章 泥の中の月
《第一節 川面の月と墨の匂い》
鴨川の川風には、いつも水と泥と、どこか女の白粉の甘い香りが混じっていた。
京・三本木。夜ともなれば妓楼の朱塗りの高欄に提灯が灯り、水面にゆらゆらと溶け落ちていく。寛政三年、その川端の片隅で、幼い誠は産声をあげた。伊賀上野の城代家老の血を引くとも、名もなき遊女の子とも噂されたが、真相を知る者は誰ひとりとしていない。流れる川面に映る月がたやすく波に崩されるように、少女の出自もまた、揺らめく影の中に閉ざされていた。
その小さな命をすくい上げたのが、東山知恩院の寺侍・大田垣光古である。
「誠。人の生まれというものはな、川の源流のようなものだ」
知恩院の質素な庵。初秋の夜風が障子を静かに揺らす中、光古は小さな誠の手を包み込んだ。寺侍として磨かれた武士の手であったが、幼い娘を抱くときだけは、まるで硝子細工を扱うかのように柔らかかった。
「山奥の岩間から湧き出た水も、泥を巻き込んで流れる水も、鴨川に至ればみな同じ澄んだ水になる。お前がどこの誰から生まれたかなど、どうでもよいことだ。お前は、この光古の娘だ。それだけで十分ではないか」
誠は、父の着物に染みついた濃い墨の匂いに顔をうずめた。ゴツゴツとした掌の温もりだけが、寄るべない幼子の世界を確かに繋ぎ止めていた。
東山の懐に抱かれた知恩院の境内には、刻を告げる大鐘の音が低く重く響き渡る。その音の震えは、足元の湿った土を伝い、誠の胸の奥底へと染み込んでいった。
光古の手ほどきで始まった和歌と書の稽古では、すり鉢状の硯を滑る墨の音と静寂だけが、幼い庵の中に静かに流れていた。
十歳にも満たぬ誠が筆を走らせる姿には、幼子とは思えぬ凛とした気品が漂っていた。通りかかる寺侍や僧侶たちが「大田垣の娘は、まるで月影を宿したような美しさだ」と囁き合うのを、光古は苦笑しながらも、どこか誇らしげに見守っていた。
「歌というのはな、飾り立てるものではないぞ、誠」
光古は、誠が書き終えたばかりの短冊を愛おしそうになぞった。
「胸の中にある景色を、そのまま紙に置けばよい。飾りを削ぎ落とせば削ぎ落とすほど、まことの心が残る。ただごとを、ただ素直に詠む。それが桂園派の『しらべ』というものだ」
「ただごと……を、素直に」
「そうだ。お前が今日見た空の青さ、散った花びらの切なさ、そのままを置くのだ。言葉を飾ろうとするのは、人に良く見られようとする『私心』があるからだ。私心を捨てた歌こそが、人の胸を打つ」
言葉を盛るのではなく、私心を削ぎ落とす——。父のこの言葉は、後に彼女が幾重もの悲劇の底で詠むことになる「無私の歌」の、静かな芽吹きであった。
《第二節 丹波亀山の冷気》
八歳を数える頃、誠は丹波亀山城主・松平家への武家奉公へと出された。
丹波盆地特有の、深く冷たい朝霧が立ち込める城下。知恩院のぬくもりのある庵から引き離された誠を待っていたのは、厳格な武家奉公の規律と、洗練された礼法であった。
だが、誠は寂しさに涙を流すことはなかった。
早朝の冷気の中、道場で薙刀を振るう誠の姿は、周囲の者たちが息をのむほどに鋭く、美しかった。 ——ヒュッ、と空気を切り裂く風の音。 白帯をしめた細い腰、汗に濡れて額に張り付く黒髪。薙刀の先が描く円運動は、洗練された舞のようでありながら、一切の雑念を排した凄みを帯びていた。
「誠。お前の薙刀には、迷いがないね」
稽古を終え、息を整える誠に、亀山藩の老女が白巾を手渡しながら声をかけた。
「ですが、刃を振るうことだけが武家の心ではありませんよ。刃は人を傷つけるためのものではなく、己の心を静め、重きものを守るためのもの。お前は、少しばかり美しすぎる……。その美しさは、いずれ男たちの心を惑わし、お前自身を切り裂く刃にもなりかねない。だからこそ、心に強い『芯』をお持ちなさい」
「心に、芯を……」
手渡された巾で汗を拭いながら、誠は道場の廊下から遠く丹波の山並みを仰ぎ見た。
朝霧が晴れゆく山端から刺し込む陽光のなかで、十六歳へと向かう少女の瞳は、静かに、そしてどこまでも深く澄んでいた。
《第三節 泥と骨》
丹波亀山での奉公を終え、十七歳となった誠が京の知恩院へ戻った頃、東山の風はどこか湿り気を帯びていた。
知恩院の寺侍である養父・光古のもとへ戻った誠を待っていたのは、養兄・望古との祝言である。血の繋がりこそないものの、幼い時分から同じ屋根の下で育ち、光古の背中を見て育った二人の間には、燃え上がるような熱情というよりも、深々とした静かな情愛が通い合っていた。
誠はやがて子を授かり、幼い命を次々とその腕に抱いた。小さく温かな赤子の体を濡れ手拭いで拭い、乳の甘い香りが立ち込める暗がりの中で寝顔を見つめるとき、誠は生きてあることの全き充実に満たされていた。知恩院の大鐘が夜の深まりを告げて重く響くたび、誠は心の中で何度も手を合わせ、どうかこのささやかな温もりがいつまでも続きますようにと、神仏に祈りを捧げていた。
しかし、その穏やかな幸福は、あまりにも唐突に、そして苛烈に打ち砕かれていく。 最初に逝ったのは、まだ言葉も覚えきらぬ幼子であった。 ある夜、突如として高熱にうなされ始めた赤子は、誠の必死の看病もむなしく、わずか数日のうちにその小さな呼吸を途絶えさせた。喉の奥から絞り出すような泣き声をあげる誠の腕の中で、赤子の体は次第に体温を失い、まるで冷たい石のように重くなっていく。どれほど強く抱きしめ、己の皮膚のぬくもりを移そうとしても、二度と小さな胸が上下することはなかった。
地獄は、一度では終わらなかった。 一人、また一人と、我が子たちが相次いで病に倒れ、誠の手からこぼれ落ちるように息を引き取っていった。白布をかぶせられた小さな骨壺を抱え、知恩院の裏手に広がる湿った墓地へ足を進めるたび、誠の心と身体は削り取られ、足元からじわじわと泥の底へ沈んでいくかのような錯覚に囚われた。我が子を失う失意の影は、やがて夫婦の間に埋めがたい沈黙を生み、望古との短い婚姻生活も静かな破局を迎えることとなる。
その後、大田垣の家名を遺し、光古を支えるために、望古の弟である古肥が新たに養子として迎えられ、誠と夫婦の契りを結んだ。古肥は兄に似て心がやさしく、傷つき果てた誠の心にそっと寄り添うように暮らした。だが、そのささやかな静寂すらも、運命は許さなかった。再婚からわずか四年。古肥もまた原因のわからぬ重病に倒れ、誠の必死の看病も届かぬまま、あっけなくこの世を去ってしまったのである。
三十三歳。ふたりの夫に先立たれ、いくつもの小さな骨壺を自分の手で土に埋めてきた誠は、その美しい黒髪を躊躇なくハサミで切り落とした。仏門に入り、名を「蓮月」と改めることに決めた。蓮月は、泥の中にありながら濁りに染まらず清らかな花を咲かせる蓮の花のように、世間のあらゆる執着や未練を断ち切って生きようと決意したのであった。
だが、神仏の試練はなおも終わらなかった。出家後、最後の生き残りとして手元に残されていた娘までもが、つぼみがほころぶ前の花のように命を落とした。そして天保の初め、幼い頃から誠を深い愛で包み込み、世間の冷たさから守り続けてくれた唯一の心の拠り所であった養父・光古が、静かにその命の灯火を消したのである。
夫も、我が子たちも、そして父さえも。 かつて自分を形作っていた愛する者たちは、誰ひとりとしてこの世に残らず、みな冷たい土の下へと隠れてしまった。
知恩院の墓所。激しい雨が降りしきるある日の夕刻、黒い僧衣を泥水に濡らしたまま、蓮月は墓標の前に突っ伏していた。
「あぁ……っ、あぁあ……っ!」
喉を引きちぎるような叫びが、激しい雨音をつんざいた。そこには聖者としての諦念など何一つなかった。ただ、愛する者をすべて力ずくで奪い去られた、一人の傷ついた女の狂おしい絶望があるだけであった。
蓮月は両手の指先を、雨を含んで重くなった地面に深く突き立てた。爪が割れ、指先から赤い血が滲み出るのも構わず、泥を夢中で掻きむしった。
たらちねのおやのこひしきあまりにははかにねをのみなきくらしつゝ
(亡き親が、そして我が子が恋しいあまりに、私は今日も墓前で声をあげて泣き明かしている)
つねならぬ世はうきものとみつぐりのひとり残りてものをこそおもへ
(無常のこの世はあまりにもつらく悲しい。ただ一人取り残されて、私は何を思えばよいのだろう)
「なぜ……なぜ私だけを残したのですか!なぜ私を一緒に連れて行ってくれなかったのですか!」
泥を固く握りしめる手のひらに、雨水と自分の血と黒い土が混ざり合い、氷のように冷たくまとわりつく。泣き疲れ、声も出なくなった夜半、ふと雨が上がり、雲の切れ間から静かに満月が顔を出した。墓前の泥たまりの中に、まるい月影がひっそりと映り込んでいる。
蓮月は、血と泥に汚れた我が手を、息を詰めて見つめた。 爪の間に残った、冷たく、重く、粘り気のある黒い土の感触。すべてを失い、死ぬことすら許されず、ただ一人この地に伏せている己の身。
「……土か」
蓮月の掠れた唇から、静かな呟きが漏れた。
「私は……この土と、ひとつになって生きていくしかないのか」
絶望の底で握りしめた冷たい泥の感触。それこそが、やがて彼女の手から無数の器を生み出し、流麗な歌を削り出し、幕末の京を照らしていく「蓮月焼」の、生々しい産声であった。




