第1章 1話『陽だまりの中で』
ーー息を潜めてただじっと待つ。
『森と一体化するような感覚だ。』
そう父は言っていたがまるで理解が出来ない。
これで良いのかはわからないけれど、何も言われないという事は及第点ではあるのだろう。
ーー息を潜めてただじっと待つ。
どれ程の時間が経過しただろうか、凄まじいまでの集中を維持するのは決して楽な事ではない。
けれど、僕はこの時間が好きだった。
ただ目の前に集中していれば余計な事を考えずに済む。
集中が切れてきたからだろうか、余計な思考が脳内を駆け巡る。
意識を切り替える為に軽く頭を振ってもう一度深く集中する為に思考を止める。
脳内を空白が覆っていく、自我を奥底へと沈めていく。
ーー息を潜めてただじっと待つ。
「来たぞ。」
唐突に、傍に居る父の口からそんな言葉が漏れる。
それを受け、目を凝らしてじっと見るが視界には何も映らない。
父の気の所為かと再び息を潜めようとして気付く。
100mはあるだろう距離の木が微かに揺れた事に。
既に弓に矢を番えていた父に追従するべく、慌てて自身の弓に矢を番える。
「遅いぞ。」
「はい。」
すかさず父から叱責が飛ぶが返事だけして標的を視界に捉え続ける。
反省も後悔も終わってからすればいいとは父の言だ。
ここで意識を逸らすようなら後でより酷い叱責を食らう為、必死に標的を視界に収め続ける。
「何処を狙うべきかはわかってるな?」
「はい。」
「これは試験だ、お前が独り立ち出来るかどうかの。」
「わかっています。」
標的を前にしているにも関わらず父は饒舌に話す。
しかし、必要な事だと理解している為茶化すような真似はせず、ただ返事だけをする。
何より父に自分を認めさせる千載一遇の機会を不意にするような愚を犯す訳にはいかない。
「もし失敗しても俺が居る、臆せずいけ。」
「はい。」
その言葉に悔しさを滲ませながらも、集中を高めるよう更に弓を引き絞る。
やがて姿をはっきりと視認できる距離まで来た標的は猪のような姿をしていた。
ただ一点、よく知る猪のそれとは違う点がある。
それは、山と見紛う程の巨体である、という事だ。
森の主として扱われるそれは、時折人里に降りては畑の作物を食い荒らすだけに飽き足らず、つい先日人を襲ったという。
それ故村長から直々に討伐の指令が下った為、危険を承知で付いて来た、というのが今回の事の経緯だ。
はっきり言って、人的被害については可哀想だとは思うがそれも自然の摂理だと教わったので義憤に駆られて付いて来たのでは無い。
ただ、丁度いいと思ったのだ。
まだまだ現役ではあるが、狩人としての適齢期はとうに過ぎている父を安心させる良い機会だと。
自分一人でも大丈夫なのだと。
だからしくじる訳にはいかないと気合いを入れる。
森の主の巨体は当然毛皮も分厚い、生半可な一撃では致命傷にならない。
(狙うは急所一択…!)
引き絞った弓の照準を急所へと合わせる。
森の主がこちらに気付く様子は無い。
(今だ!)
ヒュンっと綺麗な軌道を描いて矢が森の主の急所へと吸い込まれる。
命中したかを確認するより速く二の矢を番える。
地響きと共に木々から鳥が飛び立つ音が聞こえた。
再び照準を合わせる事は無く、地面に倒れる巨体をその視界に捉えた。
****
僕の名前はルクス、ただのルクス。
自分でも大層な名前だと思うけれどうちの家系は代々こんな感じらしい。
現に、父の名前はグリーム、兄の名前はルーメンだ。
これが本当のキラキラネームかとついツッコミを入れたくなるけれどきっと伝わらないから言わない。
年齢は15歳、この国の法律に照らし合わせるとあと1年で成人だ。
片田舎の寒村に生まれて、今は父と共に狩人として生計を立てている。
2年前に流行り病で母は亡くなってしまった、寂しくないと言えば嘘になるけれど、それも自然の摂理だと納得させているし、もうめいっぱい愛情を注いでもらったから、だからそれで充分だとも思う。
それに、別に血の繋がりだけが全てじゃないって事も知っている。
狩人という職業の性質上、仕留めた獲物を父と2人で消費し切る事は出来ないからお裾分けをよくする。
それだけが理由だと思いたくはないけれど、村の大人達は本当に僕に良くしてくれる。
それでも時に、どうしようもない気持ちが溢れる事がある。
そんな時に決まって傍に居てくれる女の子が居る。
ロシェルという名前のその子は所謂幼馴染ってやつで、親同士の仲が良くて家族ぐるみの付き合いが多かったから自然と仲良くなっていった。
初めて会った筈なのに、何故か既に知っていたかのようにあっという間に仲良くなれた。
色恋なんてまだよくわかってないけれど、彼女に対するこの想いはきっと、間違いなんかじゃないと思う。
これが今の僕の日常。
人並みに傷ついて人並みに愛されて、それでも精一杯に今を生きている普通の青年の話。
そう、その筈、その筈なのだけれど。
だけど僕の胸中はいつも焦燥感でいっぱいだ。
だって、
ーー僕はあの日あの場所で、確かに死んだ筈なのだから。
****
「よし、血抜きはこの位で良いぞ、あんまり長居すると他のやつが寄ってくる。」
「こんだけデカいとやっぱり時間かかるね。」
「ああ、だから手早く済ませるぞ。」
「わかった。」
灰を撒きながら目線だけで指示を出す父を横目に解体作業へと取り掛かる。
普段使いのナイフを取り出そうとしてこの毛皮に対してじゃ歯が立たないと思い直しとっておきを取り出す。
『いつかこれを使うくらいの大物を狩れるように成れよ。』
このナイフは、出稼ぎの為に王都へと発つその日に兄がそう言って僕に託してくれた逸品だ。
(兄ちゃん、やったぞ。)
僅かながらの抵抗を感じつつも止まる事の無いナイフで腹を開いていく。
開いた腹に躊躇う事無く腕を突っ込み内臓を引き摺り出す。
いつまで経っても慣れる事の無い不快感を覚えながらも決して手を止める事はしない。
それが、命を頂くという事だから。
「全部出せたよ。」
「…まあ及第点だな、少し離れてろ。」
そう言って地面に触れる父から距離を置く。
血と同様に内臓を放置すれば匂いを嗅ぎつけた獣が集まってくる。
血は灰を撒けば解決するが内臓はそうはいかない、ならばどうするか。
答えは単純。
「抉れろ。」
父の呟きと同時に理が歪む感覚がする。
途端、まるで魔法のように地面が抉れていく。
「何度見ても慣れないな〜。」
「無駄口叩いてないでとっとと入れろ。」
「は〜い。」
全ての内臓を抉れた地面へ入れ終わると、再び父が地面に触れる。
「塞げ。」
再び理が歪む感覚がすると抉れた地面が塞がる。
父曰くこの世界に魔法は存在しないらしいが、目の前の光景は魔法にしか見えない。
「よし、帰るぞ。」
そう言うと父は然も当然のように巨体を持ち上げ歩き始める。
本当に魔法は存在しないのか、小一時間程問い詰めたい気持ちに駆られるが、碌な回答が返ってこないのはわかりきっているのでしない。
何より、無駄を嫌う父がそもそも付き合ってくれるとも思えない。
こうして見ると、人としてどこか冷たさすら感じる父ではあるがその周囲に人は絶えない。
それはきっと今僕が見ている背中が答えなのだと思う。
「何してんだ、置いてくぞ。」
「…今行く!」
****
確と地面を踏みしめる。
離れる足が少し跳ねたように見えるのはご愛嬌だ。
騒めきが広がる。
普段は不快な好奇の視線も今はどこか心地良い。
(そうか、そうだよな…)
思い出したように深く呼吸をして、震え出した拳を強く握る。
(でも俺、やったんだ…!)
「お手柄のようじゃの、ルクス。」
人だかりが割れたかと思うと一人の老人が近づいて来てそう告げる。
「っ村長!…いえ、まだまだ僕なんて全然です。」
「ほっほっ、そう謙遜せずとも良い。」
蓄えた顎髭を撫でながら村長は嬉しそうに笑う。
「若人の成長はいつ見ても心を擽られる。」
「良い育て方をしたな、のう、グリームよ。」
「勿体ないお言葉です。」
村長の言葉に周囲がどよめく。
弱肉強食のこの世界において、武は誰の目から見てもわかりやすい長の資質である。
しかし、年齢不詳のこの老人には腕っ節など無い。
それでも尚、人を惹き付け長として崇められる者の言葉には力がある。
本質を見極める力を持つこの老人は決しておべっかなど使わない。
「さて、これ程の巨体じゃ、皆で協力しなければ日が暮れてしまう。」
「ほれ、手を空けられる者は解体作業へ向かえ。」
村長の言葉に皆一様に動き出す。
遅れをとるまいと動き出したルクスに村長から声が掛かる。
「ルクス、お主は手伝わなくても良い。」
「え、ですが…」
「お主の仕事は森の主を討ち取った事でもう終わっておる、一足先に休息をとっても誰も文句は言うまい。」
「わ、わかりました。」
「良い良い、これからも励むんじゃぞ、…期待しておるぞ。」
「ではな〜。」
立ち去る村長を青年はただ見送る。
胸には万感の思いが込み上げていた。
「やるじゃん、ルーくん。」
そんな青年に声を掛ける少女が一人。
「え、泣いてる?」
「なんだよロシェ、お前は手伝わなくていいのか?あと泣いてねえ。」
ロシェルから顔を逸らし、恥ずかしさからか悪態をつく。
全てを見透かしたような嫋やかな笑みを浮かべながら少女は続ける。
「そのつもりだったんだけど、泣いてるルーくんを見つけちゃったからさ、お姉さんが慰めてあげようと思って。」
「だから泣いてねえって、余計なお世話だ。」
「ホントに〜?」
ただのじゃれ合い。
なんて事無い日常の一部に確かに感じる幸福と、微かな違和感。
『ーーーーて。』
記憶にノイズが走る。
同時に襲い来る痛みに頭を抱える。
「あれ、大丈夫?ホントに泣いちゃった?」
痛みを堪え顔を上げれば不安そうにこちらを見ている視線と重なる。
『ーーーーて。』
きっと気の所為だ、すぐ治まる、いつもの事だ。
苦しみに蓋をするのは慣れている、これ以上彼女を心配させる訳にはいかない。
「大丈夫、少し疲れが出ただけだよ。」
「本当?それなら良いけど…」
何事も無かったかのように言葉を紡ぐ。
頭の痛みはいつの間にか消えていた。
「それにしても、さ、ルーくん。」
本当に、ともすると少し馬鹿にしてると思えてしまう程に、少女は感慨深そうに続ける。
「成長したね、ルクス、おばさまもきっと喜んでる。」
「そう、かな、そうだといいな。」
「うん、間違いないよ。」
真剣な眼差しでこちらを見つめるロシェルの瞳を逸らす事なく見据え、誠意を持って答える。
相手の誠意には誠意を持って応える、母の教えだ。
「それじゃ、もう行くね、あんまり遅いとおじいちゃんに怒られちゃう、ゆっくり休んでね。」
「おう。」
大袈裟な程に手を振り去っていく少女に控えめに手を振り返す。
懐かしくもどこか他人事のような感情が胸に去来するがその感情がなんなのか、答えてくれる者は居なかった。
ただ、身を焦がす程の熱を持った陽の光が、青年を照らしていた。




