第1章 11話『不退転』
異形と対峙する。
乾きを主張する喉を潤すように唾を飲み込む。
思い出したかのように呼吸をすると、こびり付いた血の匂いが辺りに充満している事に気付く。
耳の奥で自分の心臓の音がやけに大きく鳴り響いている。
以前から存在だけは知っていた、知ってはいたが。
(化け物…。)
いざこうして相見えた感想としてはその一言に尽きる。
それ程までに隔絶した差を感じさせる、理外の存在を前にしてルクスは、笑った。
(びびれ、恐れろ、でも臆すな、見極めろ。)
(僕が止まればロシェルが死ぬ、死ぬ気で脳みそぶん回せ。)
正しく空元気、だがそれによってルクスは落ち着きを取り戻し、傍らで体を震わせるロシェルを見て小声で指示を出す。
「ロシェ、何が起点になるかわからない以上下手に動かない方が良い。」
「そ、そんな事言ったって…。」
それだけ言うとルクスはロシェルの反応を待たず真正面に化け物を見る。
全身を覆う黒い鱗は闇に紛れる事に一役買っていて、視認性が悪い。
地面を掴む前足には鋭利な爪が生えており、一連の被害がこれによって齎されたのだとわかる。
長く伸びた尻尾は周囲の様子を探るように忙しなくゆらゆらと動き続けている。
しかし、ルクスが一番気になった点は、
「…目が、無い?」
この世界に存在するほぼ全ての生物が持つ眼球という組織が、目の前の生物の顔に当たる部分を注視してみても確認出来なかった。
(考えられる可能性として挙げられるのは、他の所に付いているか、視覚以外の感覚が鋭いか…星印を感知してる可能性もあるな。)
凝縮された思考をルクスがしている間にも、一歩また一歩と大地を震わせながら化け物はその歩みを進める。
互いにとって互いが未知の存在、瞳が無い筈なのに見定めるような視線を感じるのは、化け物もまた、ルクス達を見極めようとしている事の証左だろう。
(…こいつ、やけに慎重だな。)
ふと、ルクスの脳裏に疑問が過る。
見極める、という行動を取る事から高い知能を持ち合わせている事は確かだが、それにしても纏う気配と比較して足取りが重い。
(…もしかして、万全じゃないのか?)
ちらりと激闘を繰り広げたであろうふく丸の母親の亡骸へと視線を送り、一つの仮説を立てる。
この状態からの生存は絶望的だと思っていたが、思いがけない一筋の希望を見出しそれを確かなものにする為に、化け物の行動を一つも逃さないようにつぶさに観察する。
(あれは…傷か?それとも返り血か?くそっ見づらいな…。)
そしてそれは相手も同じようで一定の距離感を保ったまま、お互いに視線を巡らせる事で膠着状態になる。
しかし、既に落ち着きを取り戻したルクスとは対照的に、恐慌状態に陥っていたロシェルがその膠着を破った、破ってしまった。
「グルルアァッ!!」
「あ。」
「っ!まずいっ!」
ロシェルはただ一歩、後退りをした。
たったそれだけの事でこちらの恐怖を見抜いたのか、化け物が嘶くと雰囲気が変わる、それと同時に理が歪む感覚がする。
いち早くそれを察知したルクスは咄嗟にロシェルの腕を掴み引き寄せる。
「きゃっ!」
「ぐえっ!」
直前までロシェルが居た地面が罅割れるのを辛うじて避けるも、体勢を崩して二人とも倒れ込んでしまう。
しかし、既に戦闘は始まってしまっている為、思考を止める事なく直ぐ様ルクスは次の行動を起こす。
「こっちだ!」
「う、うん!」
ロシェルの手を取り立ち上がらせると化け物が来た方とは逆方向の森に向かって駆け出す。
初撃を避けられた事が予想外だったのか、化け物は少し呆けた後、即座に二人を追い掛け始める。
足場の悪い道を全力で駆けている為、慣れていないロシェルは途中何度も転びそうになりながらも疑問を口にする。
「ルーくん、さっきのって!」
「わからん!でも律式なのは確かだ!理が歪む感覚がした!」
「だからわかったのね!ありがとう助かった!」
ルクス自身も余裕が無い為簡潔に答える。
だが、ルクスとのやり取りを経てロシェルは落ち着きを取り戻す。
「ルーくん!私の律式で足止め出来ないか試そうか!?」
「頼む!…けど走りながらでも出来るのか!?」
「わかんない!けどやってみる!」
その返答に一抹の不安を覚えたルクスは、ロシェルを横抱きにすると走り出す。
「え!ちょっとルーくん!?」
「これで集中出来そうか!?」
「え!?あ〜、う、うん!」
「頼むぞ!」
何処までも真剣な表情で少し息が上がった様子のルクスにロシェルも頬を叩き気合いを入れる、集中が高まっていく。
ルクスに抱えられた状態で手を伸ばし地面に触れると同時に言葉を発する。
「唸れ!」
理が歪む感覚がすると地面から土の槍が幾つも生える。
しかし、そのどれも化け物に当たる事無く破壊される。
「ごめん!駄目だった!」
「いや充分だ!お陰でわかった事もある!」
碌な時間稼ぎにならなかった事でロシェルは謝罪するが、ルクスは気にした様子も無い。
しかし、ロシェルの律式による妨害や木を使って視界を遮りながら走っている筈なのに、化け物は一直線に全てを薙ぎ倒しながら向かって来ている為に、見る見る内にその距離は縮まっていく。
視覚ではない、何らかの方法でこちらの位置を正確に把握している事は最早明らかである為、ルクスは一か八かの賭けに出る。
「ロシェ!少しの間誘導頼む!走れるか!?」
「わかった!任せて!」
言うと同時にロシェルはルクスの腕の中から飛び降りるとルクスの手を取り先導するように走り出す。
ルクスは繋がれた手を強く握ると瞳を閉じ、覚悟を決める。
意識をそれだけに向ける、集中が高まる。
「…感じろ!」
目を開くと同時に理が歪む感覚がする。
周囲の全てが手に取るようにわかるようになる。
「グルォァ!!」
背後で化け物が苛立たしげな鳴き声をあげる。
しかし、ルクスはそれを意にも留めず目的のものを見つけるとそちらの方へ向かう。
「居た!」
勢いそのままに少し開けた所に出る。
そこは小さな泉が月明かりに照らされていてとても神秘的な空間であった。
しかし、目を凝らしてよく見ると泉の周囲には、赤い目をぼんやりと光らせた不気味な影が幾つもあった。
一際大きな影が前に進み出る事で月明かりに照らされる。
それは、狼のような姿をした生物だった。
「グルル…ッ!」
「「「グルルルッ!」」」
「…ごめんな。」
「ルーくん、危ないよ…!」
当然、縄張りに侵入して来たルクス達を警戒して群れのボスらしき個体が唸り声をあげる。
それに呼応するように狼達は一斉に唸り声をあげる。
それでもルクスは自然な歩調で歩み寄ると徐ろに謝罪の言葉を口にする。
あまりに無警戒に近づくルクスに思わずロシェルは声を上げる。
「グルルォァ!」
「「グルルルッ!」」
一触即発の状況、しかし、それ以上の脅威が迫っている事を察知したのか群れ全体が警戒度を高め、低く唸りながら森の奥から迫り来る存在へと意識を向ける。
その隙を突いてルクス達は群れを通り抜ける。
「行くぞロシェ。」
「え、ちょっとルーくん!?」
ルクスに手を引かれ走り出しはしたものの、今から起こるだろう惨劇を予感してロシェルは異を唱える。
「な、何で、なんであんな、囮にするような事!」
「僕達が生き残る為だ、仕方ないだろ…!」
「仕方ないってそんな…!」
普段であれば絶対にしないであろう無情な選択をするルクスを言い募ろうとするロシェルだったが、奥歯を噛み締め、努めて冷酷であろうとするルクスに二の句を継げない。
何よりその選択をさせているのが自分自身だとわかってしまったからこそ、ロシェルも覚悟を決める。
「…ごめんね、でもルーくんだけに背負わせたりしないから。」
「別に良いよ、責めてくれる方が気持ちが楽だ。」
「私そんな嫌な女に成りたくないんだけど!」
ロシェルの言葉に、取り繕っても仕方無いと思ったのかルクスは自罰的に突き放すような言葉を口にする。
そんなルクスの言葉にロシェルは声を荒らげるが、その声色はどこまでも思いやりを滲ませている。
緊迫した状況であっても、ロシェルはこうしてささくれだった僕の心を元に戻してくれる。
だからこそより切実になる。
(何を犠牲にしてでもロシェを生きて帰す…!)
自ら選んだ選択が間違っていないとは思わないが、後悔は無いと自信を持って言える。
死地に身を置いた事、そして明確な目的を設定した事でそれを成し遂げる為にルクスの感覚が研ぎ澄まされていく。
不意に、何を思ったのかルクスが足を止める。
「どうしたの?」
「…ここからはロシェ一人で逃げて、このまま真っ直ぐ走れば村に出るから。」
「ちょっ、ちょっと待って!ルーくんは、ルーくんはどうするの…!?」
ルクスからの思わぬ提案にロシェルは動揺を隠せない。
しかしルクスは、淡々と続ける。
「確認したい事が出来た、上手く行けばロシェが逃げ切れるだけの時間は稼げる。」
「そんなの、嫌だよ!一緒に逃げよう?」
「このままじゃいずれ追い付かれる、それに、言っただろ?何か起こったら自分の命を優先する事って。」
「それは…言ったけど…。」
ルクスの態度は頑なで、それでもロシェルは歯痒い気持ちを抑え切れず尚も食い下がる。
「でも、嫌だよ、ルーくんが死んじゃったら…嫌だよ…!」
「…ごめん。」
「そんな…!」
想い人を死地へ送り出す事を許容出来ず、遂にはなりふり構わないとばかりに感情論で訴えかける。
それでもルクスの答えはロシェルの求めるものとは違った事で絶望に顔を覆う。
だが、続くルクスの言葉にロシェルは顔を上げる。
「大丈夫、死ぬつもりなんて毛頭ない、勝算だってある。」
「だからさ、待っててよ、僕が未来永劫語り継ぐ英雄譚を引っ提げて帰るのをさ。」
眩い笑顔でそう告げるルクスを見てロシェルは思う。
(ああ、やっぱり好きだな…。)
ルクスが意志を曲げるつもりは無い事を理解し、ロシェルは腹を括る。
「…もう、こんな時にかっこつけないでよ。」
「かっこよかった?」
「うん、凄く……わかった、もう止めない、だから、さ。」
抑え切れない想いのままに、勇気を出して一歩踏み出す。
ロシェルが何をするつもりなのか理解出来ないのか、されるがままのルクスの頬に手を触れ、背伸びをする。
数瞬の後、離れる事を惜しむようにロシェルの指先がルクスの頬を撫でる。
「…え?」
「…おまじない、だよ?」
顔を赤く染め困惑するルクスにロシェルが微笑む。
「必ず、生きて帰ってね、約束。」
それだけ言うとロシェルは背を向け走り出す。
ルクスは黙ってそれを見送る事しか出来なかった。
ただ、高鳴る心臓に呼応するように唇に残る余韻が存在を主張していた。




