第7話 再発(さいはつ)
4月になり無事に美鈴が高校2年生に進級し、先の一件を忘れかけていた矢先のことだった。体調不良が頻発するようになったため、橘家はまたもや揺れていた。美鈴はこれ以上両親と珠紀に心配させまいと、高笑いと罵声が聞こえることは伏せていた。 美鈴は昼休みの開始を告げる開始音で再び目が覚めた。覚醒したばかりで視界がぼんやりとしていた。昼休みの後は清掃時間である。午後の授業を受けるためにもそろそろ起きなければ。美鈴はそう思い、体をゆっくりと起こした。
すると保健室の碇園子先生が美鈴の起床に気づき、そっと個室のカーテンを開けて声をかけた。ほんのりと消毒液の匂いがした。
「体調はどう?」
「少し休んだので気分が良くなりました」
「それはよかった」園子は少し笑って、美鈴の様子を記録するために帳簿を手に取った。
「熱はない?」「ないです」「ちょっと、おでこ触ってもいい?」
白いアスパラのような細い手が美鈴の額に触れた。園子の手は冷たく、寝起きで体温が上がっていた美鈴にとっては”熱冷まシート”のようで心地がよかった。”熱冷まシート”とは発熱時におでこに貼り、吸熱させることで体温を下げることを目的とした冷却グッズである。園子は少し考えてから、ありがとう、と額から手を離し、首を傾げた。
「確か、この前に血液検査したって言ってたわね」「はい、異常はありませんでした」
「そうだったわね。貧血じゃないのよね」園子はうーん、と呟き、さらに首を傾げた。
「睡眠も食事も摂っているし、血液も異常がない・・・。成長期のホルモンバランスの乱れかしら」
園子は、色々と考え込んだ末、はあ、と思わずため息をついてしまった。それから慌てて美鈴の方を見て、言った。
「ごめんなさい。一番心配なのは橘さんの方よね」
「大丈夫です。心配していただきありがとうございます」美鈴はやんわりとシーツを掴んだ。
「5限目はどうする?もう少し保健室で休んでもいいし、しんどいならお母さんに迎えに来てもらう?」
「次は座学なので出られると思います。」美鈴はそう言って、身支度を整え、保健室を後にした。
彼女の体調は半回復だった。保健室から教室までの道のりは大して遠くないはずなのに、足取りが重くふらついていた。階段を登る度に頭が揺れると、倒れた時の眩暈が続いているかのように感じた。うう、一体、私はこんなに軟弱な肉体なったのだろう。空手有段者の美鈴は思わず、普段は使わない手すりを持った。私立青龍高校の階段部の手すりは木製で、非常に年季が入っている。この手すりは美鈴が97期生として入学するまでに、多くの卒業生達の階段昇降を支えた。怪我をした生徒や手すりに腰掛け滑り台のように降りる危ない生徒もいた。この手すりは愛の告白の目撃者となったこともある。皆に様々な使い方をされ、新しい木の色は次第に失われ飴色になり、蓄積した手垢のせいで少し臭くなった。最後に手すりを新しくしたのは十数年も前のことだった。そういうわけで、ちょっと、いや美鈴にとってはだいぶ臭いを感じる手すりだった。普段、美鈴が嫌っていたにも関わらず、手すりは広い懐で美鈴をどっしりと支えた。その時だった。「橘さん」
美鈴を呼ぶ声がした。大蓮八重子が階段の上に立っていた。八重子は美鈴の様子を心配し、ちょうど保健室に迎えに行くところだった。彼女は美鈴に「大丈夫?」と言って、すぐに階段下まで降り、そっと肩を貸した。出来る保健係だった。
教室は昼休みということもあり、皆が気の合う者同士で机をくっつけ、それぞれの集団で昼食を取っていた。なかなか騒がしいものだった。
「色々とありがとう。本当に助かったよ」教室に戻った美鈴は席につき、改めて八重子に礼を言った。
「どういたしまして」八重子は落ち着いた様子で返し、自分の席に戻ろうとした。
「待って」美鈴は呼び止めた。八重子は振り返る。「どうかした?」
「ノート見せてくれない?英語と数学」「いいよ」八重子は即答した。そして、美鈴の斜め前にある八重子の机から二色のノートを取り出し美鈴に渡した。
「ありがとう。明日返してもいい?」
「大体授業の内容はわかっているから、明日でなくても、今週中に返してくれればいいよ。」
美鈴は八重子の発言を”同じトップクラスにいるから、ノートがなくとも既に単元の予習は済んでいるので、授業についていける”という意味に受け取り、「ありがとね。でも明日ちゃんと返すよ」と言った。
二人の間に暫くの沈黙が流れ、美鈴は再び口を開いた。
「あのさ」「ん?」八重子が弁当の包みを開く手を止め、美鈴の方を見た。
「私ここ最近体調不良じゃん」「そうだね」
美鈴は何も置かれていない、自分の机を見つめて、一度深呼吸をしてからこう言った。
「なんだか変なんだよね」
「変って?」
「いつも気分が悪くなって、地面に座り込んでしまうの。・・・病気かと思って、病院も行ったんだけど、全然悪いところがなくて。もうどうすればいいのかわからない。・・・それだけじゃなくて変な声も聞こえるっていうか」幻聴のことを初めて人に言った美鈴は少し緊張した様子だった。美鈴は八重子におかしな同級生だと思われるのではないか、と不安に思い、八重子の顔を見たが、彼女はただ心配そうな顔をしていた。
お読みいただきありがとうございました。
ノア先生の次回の更新をお待ちください。




