第6話 光明(こうみょう)
翌日のことを話す前に、平凡な橘家について特筆すべきことがある。美鈴の父、橘良平は、先述した通り、非常に平凡な学校生活を送り平凡な会社員となった。しかし、この平凡な人生を送るには大変な努力が必要なことをご存知だろうか。橘家全員が良平の人生を”平凡な人生”と称しているが、この平凡は彼の運の良さ、それに加え神仏の加護が無ければ起こり得なかったように思える。橘家では両親よりも良平の祖母であるヨネが強い権力を握っており、彼女の徹底した教えを正樹と良平は魂にまで叩き込まれた。ヨネの教えはシンプルである。「朝晩、仏壇に手を合わせるように。神様仏様に顔向け出来ないことをしちゃあいけない。感謝と思いやりを忘れるな」というものだった。他は怒られなかった。勉強は出来なくて良い。運動もできなくていい。そういう教えだった。正樹は友人と遊ぶことに夢中で、多少この教えをサボった時があり、ヨネに怒られた時があった。素直な良平は体がいつものルーティンだと思えるくらい、欠かさず行った。どんな些細なことでも神仏そして人々に礼を言うように心がけていた。自然と幾つかのお経も覚えていた。平凡の基盤は順調に整っていた。
2つほど平凡な逸話を紹介しよう。良平の小学校時代、学校の集団予防接種により、児童が体調不良を訴える事件が全国各地で発生した。これは予防接種薬が多数と云っても過言ではないくらいに、副作用が出る可能性があったにも関わらず、衛生対策として学生全体で一律に予防接種を行ったことが原因だった。
また、地方によって針の使い回しにより予防接種が衛生的に行われなかったことで、肝炎の感染者が発生した。現代では1回の注射するごとに注射針を変えなければならない。だが当時、人数分の注射針の入手が難しかった。下郡地区ではやむ終えず1本の注射針を6人で使いまわし、その結果、多数の被害者が発生した。これらの副作用や肝炎は、程度や種類によって治療によって完治した者もいた。一方で、まだ齢が一桁であるにも関わらず、完治が難しく、その後の一生を患って生きることになった者もいた。権力者達の良かれと思って行った、何気ない決定が、市民にここまで大きな被害が出るとは、彼らは夢にも思わなかっただろう。知らなかったでは済まされないこともある、無知とは非常に恐ろしいものだ。
橘家も例に漏れず、兄の正樹は副作用に悩まされた。ただ、彼の場合は軽度だったため、多少寝込んだが完治した。2年7組だった弟の良平は本来なら注射順の6番目にあたる出席番号だった。これは前の5人に注射をした後、注射針を消毒せずに良平に注射をする、ということである。前の5人の内に1人でも肝炎の感染者がいれば、注射針に残っている体液により肝炎に感染する可能性があった。彼の2つ前の少年は母親が肝炎を患っており、生まれた時から肝炎のキャリアだった。確実に良平に危険が迫っていた。しかし、注射前の6組までに偶然5名の病欠者が出ていたために、彼の1つ前の少年が6番目、つまり最後の注射となった。注射針が新しいものに交換され、1番目の注射を彼は打った。そして副作用も出なかった。良平は実に運の良い男だった。橘良平はこれを平凡と称した。
ある時、正樹が就職した会社がバブルで倒産しても、良平は免れた。確かに良平の就職した銀行も不況に見舞われ閉鎖や解雇が行われたが、良平はなぜか大丈夫だった。前年に良平は市街地の支店に異動しており、そこで彼の粛々と仕事をする姿勢が、同じ高校出身者の上司に偉く気に入られ、ちょうど昇進したからであった。良平は、これも平凡と称した。
他にも百合子との出会いや抽選倍率の高い藤見地区の家への転居等、なかなかの出来事があったが、皆はこれを平凡と称した。そして平凡に珠紀と美鈴にヨネの教えを伝え、娘達もこれに従った。二人の人生における平凡の基盤も整うことになった。橘家には上記の背景があり、彼らの平凡な日常は必ずしも一般的ではなかった。だがこの平凡があったからこそ、美鈴は十束剣に入れたのである。実のことを云うと、先の美鈴の恐ろしい怪異は、これから起こる出来事に美鈴が耐えうるのか、神々が美鈴を試したものだった。では、美鈴が大阪から帰宅し、ある夜、ヨネが美鈴を護り怪異を退けた後の話に戻ろう。
翌朝、美鈴はついに母百合子に相談したが、医学に詳しく無いため「寝違え、もしくは成長痛かしら」と言われた。父良平は滅多にない娘の体調不良をよほど焦ったのだろう、自分の湿布と塗り薬を持ってきてみたり、慣れない横文字の店へ行き、安眠に良いとされる幾つかのハーブティーを買ってきたりした。ここには偶然魔除けの効果が高いとされる西洋ニワトコ、すなはちエルダーフラワーのハーブティーが含まれていた。親切な店員が「カモミールで効かなかったら、これが効くかもしれない」と勧めたのだった。百合子と美鈴は知らなかったが、二人に見せる前に良平は、これらを仏壇の前に供え、娘を治してください、と神仏にこっそり祈っていた。父からの精一杯の気持ちを受け取った美鈴は、年頃の娘ということもあり、父と薬の共有はやんわりと拒否したが、就寝前にハーブティーを飲む様になった。そんな両親の支援もあってか、美鈴の痛みは時折ぶり返すこともあったが、少しずつ収まっていった。良平は自分の買ってきたお茶が効いたことがよほど嬉しかったのだろう、美鈴の体調があらかた戻った日にケーキまで買ってきた。そんな良平を百合子は微笑を浮かべ見守っていた。
お読みいただきありがとうございました。
ノア先生の次回の更新をお待ちください。




