第3話 甘味(かんみ)
ようやく珠紀と奈穂子が、何かが包まれた、手のひら程の白い紙袋を手に抱えてやって来た。「美鈴、お待たせ。はい、これ」と珠紀は言い、美鈴に紙袋を一つ手渡した。それは焼きたての香ばしい匂いがして、とても温かかった。かじかんだ美鈴の指先をすぐに温めた。紙袋の中身は梅ヶ枝餅だった。この時、美鈴は九州でしか買えないと思っていた梅ヶ枝餅が、大阪でも入手できることを知った。この太宰府発祥の甘美な餅は、この後着々と全国進出を遂げ、数年後に別の都市で再会することを彼女はまだ知らない。
「ありがとう、珠紀」美鈴は珠紀に礼を言った。珠紀はにっこり笑って美鈴の頭を空いた手でよしよしと撫でながら、「熱いから気をつけてね」と言った。
「ほな食べよう」奈穂子は珠紀が言い終わらないうちに梅ヶ枝餅を一口齧った。
「もう食べるの?」美鈴は奈穂子に聞いた。
「今から歩くんよ。栄養補給せな」と奈穂子が言う。
「そうだね、七福神めぐりは時間かかるからね」珠紀は梅ヶ枝餅を手でちぎりながら行った。美鈴はうん、と頷きながら、食べてくれと言わんばかりの湯気の立つ梅ヶ枝餅を見た。どうやら少女達は1時間前にたっぷりと食べた朝食のことをすっかり忘れている様である。いや、彼女達にとって甘いものは別腹だと言うべきだろうか。
“大阪七福神めぐり”とは、大阪天王寺周辺にある七つの寺社仏閣を参拝することである。七社は一日で巡ることができる程の距離にあり、特に参拝する順番が決まっている訳ではない。道中に歴史的建造物や飲食店、娯楽施設が点在するため、観光がてらに参加する人もいる。“大阪七福神めぐり”専用の色紙も売られており、水彩色で描かれた穏やかな表情の七福神の周りに、丸一日かけて御朱印が埋まってゆく様は、自分だけの大作を作り上げたかのような達成感がある。近年の寺社仏閣ブームや歴女ブームも相まって、この”七福神めぐり”は良縁成就を主な目的とした女性参拝客が増加していた。そう、この三人組も例外ではない。最も彼女達の願いは恋愛ではなく、学生の多くを悩ませる学業や就職活動に関する良縁成就であった。
「次は大学4年だからさ、もう就活真っ最中で、今ホントに大変なんだよね」奈穂子は四天王寺に向かいながら言った。まだ松の内ということもあり、天王寺駅周辺は初詣や初売りを目掛けた人々で埋め尽くされていた。松の内とは地方差があるが関西では正月十五日までのことである。
「そういえば自己分析の動画見てたね」珠紀が言った。ちょうどその時、美鈴は梅ヶ枝餅の餡の熱さに火傷しそうになっていた。おのれ熱々の餡子、特に黒餡は猫舌にとって凶器である。
「そう。この前、自己分析のテスト受けたんやけど」奈穂子は向かってくるおじさんを左にかわしながら珠紀の方を見て言った。「『協調性があります、共感性が高いです』っていう、典型的な日本人の結果だったワケ」
「そうなんだ」珠紀は人にぶつからないように、美鈴の手をぐいと引いた。「普通の人間ってことでよかったじゃん」その頃、美鈴と餡子の戦いは中盤戦を迎えていた。
「それがあかんねん」奈穂子は困ったと云うように眉をひそめた。「『みんなを巻き込む力があります』っちゅーの?『指導力・決断力』とか、そう云うものがES通りやすいらしいねん。なんかもうマジ鬱。」
「奈穂子なら大丈夫だよ。そもそも、そんな能力あったら日本でスーツ着て企業で粛々と働きませんけど」と珠紀。
「せやねん。カリスマ的リーダーがそこらにホイホイいますかー?」奈穂子は笑った。美鈴は二人の話を、大阪の大学生とはこんなはっきりしたものなのか、と感心して聞いていた。
「美鈴もそうは思わない?」珠紀が美鈴に聞いた。「普通が一番だよね」三人は信号の前で足を止めた。
「うん、そうかも」美鈴は交差点から反対側にある、天王寺動物園の人波を遠く眺めた。彼女は高校生活を振り返っていた。去年は鍵っ子として一人で家事をしながら、学校では友達作りに必死に励んでいたことを思い出した。学生生活を送ることに必死で、進路を考える余裕がとても無かった。美鈴にとっては、自分より先の悩みを持つ奈穂子と珠紀がどこか眩しく見えた。「そ・こ・で・だ」奈穂子は二人に向かって得意そうに言った。「秘策を思いついたんよ」
「それが“七福神巡り”なの?」美鈴は聞いた。「せやねん」と奈穂子。
「急に?スピってるの?」珠紀は半笑いで聞いた。ちなみに“スピってる”とは神秘的な物に傾心する様子を表現する俗語である。理学部にいる珠紀にとっては森羅万象には科学的根拠が存在すると考えているため、神秘的な事に否定的な考えを持っていた。奈穂子は笑って答えた。
「『困ったときの神頼み』っていいますやん」信号が青になり三人は歩き出した。
「誰から“大阪七福神めぐり”のことを聞いたの?」美鈴は奈穂子に聞いた。「大学の先輩」
「へえ」珠紀と美鈴は同時に言った。奈穂子は、大阪のおばちゃんがとっておきの噂話をするように、声をひそめて二人に話し始める。
「一個上のゼミの先輩がね、正月に“七福神巡り”したらいけたって言うてた」
「第一志望の会社?」珠紀が聞く。「そう」奈穂子が言った。
「そんなん嘘やん、って思ってたんやけど。彼氏と参拝してから、そいつと急に別れて、なんやめっちゃ頑張ったら五次面接受かったんだって」
「それは別れたのが良かったのでは」珠紀が言う。
「ちゃうねん。ま、別れたのもあるんやろな。なんかこう、ピピピーって閃いてESや質問もビックリするくらい上手いこといったらしいねん」奈穂子が言った。「神懸かりちゅうやつ」
「そーなんや」珠紀が今年に入って初めての関西弁を口にした。一年ほど関西弁リスニングを続けた結果、どうやら珠紀は大阪に染まりつつあるようだった。美鈴はふと遠くでカラスが鳴いた音が聞こえた気がした。「だったら二年後期のゼミ分けで葛西先生のゼミに入れますように、ってお願いしとこうかな」珠紀は四天王寺の門前で一礼して言った。
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