第9話 井戸を埋める日
その朝は、細い雨だった。
梅雨の終わりの雨は、どこか力が抜けている。叩きつけるのでも、しとしとと染み込むのでもなく、ただ空から名残惜しそうに零れ落ちてくる。ラジオの天気予報は、明日には梅雨明けが発表される見込みだと告げていた。
今日が、最後の雨の日だった。
約束の時間より早く、宮下の家に着いた。
玄関の引き戸を開けると、家の中は、驚くほど何もなかった。段ボール箱は昨日のうちに業者が運び出していった。家具も、祖母の荷物も、もう何も残っていない。磨き上げられた廊下が、薄暗い雨の光を鈍く跳ね返していた。
灯は、座敷の真ん中に立っていた。
「おはよう」
「おはよう。……全部、なくなったな」
「うん。昨日の夜、一部屋ずつ、お別れしてた」
灯は、そう言って歩き出した。俺は、その後ろをついていった。
台所。俺が張り替えた新しい床板が、まだ木の匂いをさせていた。灯は、その上を裸足でゆっくり歩いた。「遼くんが張った床」と言って、爪先で軽く叩いた。
北側の部屋。あの夜、バケツを並べた部屋。天井の染みは、塗り直されて、もう跡形もなかった。
仏間。仏壇が運び出されたあとの壁に、線香の煙で少しだけ色の変わった四角い跡が残っていた。灯は、その前で手を合わせた。
座敷と廊下の境の、柱の前。
灯は立ち止まって、背比べの傷を見つめた。六歳。七歳。八歳。九歳。十歳。
それから、鞄から小さなカッターナイフを取り出した。
「遼くん、測って」
俺は、灯の頭の上に、掌を水平にかざした。灯は柱に背中をつけたまま、俺の掌のすぐ下に、カッターの刃を当てた。細い線を、一本、横に引いた。
鉛筆で、その横に書き込んだ。
――灯 二十三歳。
「これで、終わり」
灯は、カッターをしまって笑った。十歳の線と、二十三歳の線の間に、十三年分の空白が、白い木肌のまま残っていた。
庭の井戸の前に、白い装束の神主さんがもう来ていた。町の外れの小さな神社の、七十を過ぎた宮司だった。井桁の上に、榊と御神酒と塩が供えられている。
灯は、黒いワンピースを着て、その横に立っていた。
傘を差したまま、三人で井戸を囲んだ。神主さんが祝詞を上げはじめた。低い、抑揚のない声が、雨音に混じって庭に広がっていく。
灯は、目を閉じて頭を垂れていた。
俺は、その横顔を見ないようにしていた。
祝詞が終わると、神主さんは井戸の四隅に塩と御神酒を撒いた。それから、節を抜いた青竹を一本、俺に手渡した。
「息抜きじゃ。井戸の神さんが、息ができるようにな」
この地方の習わしだった。井戸を埋めるときには、完全に塞がず、竹の筒を一本通しておく。井戸にも魂があって、息ができなくなると祟る。子どもの頃、祖母からそんな話を聞いたことがあった。
「ほな、あとは頼んだで」
神主さんは、灯に深く一礼して、帰っていった。
*
井戸の前に、二人だけが残された。
トラックの荷台には、埋め戻し用の砂利と山砂が積んである。スコップも用意してある。あとは、始めるだけだった。
「ちょっとだけ、待ってもらっていい?」
灯が言った。
「最後に、言いたいことがあるの」
灯は傘を畳んで、井桁の横に立てかけた。雨が、黒いワンピースの肩を濡らしていく。灯は構わずに、井戸の縁に両手をついて、暗い底を覗き込んだ。
十歳の夏と、同じ姿勢だった。
俺は、少し離れた場所に立っていた。
灯が、井戸の底に向かって、何かを言った。
声は小さすぎて、俺のところまでは届かなかった。雨の音と、井戸の石壁の反響に紛れて、言葉の形を持たないまま、底のほうへ落ちていった。
長い言葉ではなかった。たぶん、ほんのひと言か、ふた言。
灯は、しばらくそのまま動かなかった。それから、ゆっくりと体を起こした。頬が濡れていたのは、雨のせいだけではなかったと思う。
「……聞こえた?」
「いや」
「よかった」
灯は、あの日と同じことを言って、笑った。
「ちゃんと沈んだんだ」
それから、俺を振り返った。
「遼くんも、何か言う?」
俺は、黙って井戸の前に立った。
井桁に手をつく。苔が、濡れた掌に冷たかった。覗き込むと、ずっと下のほうで、黒い水面が雨粒を受けて揺れていた。十二歳の夏、あの水面に向かって、でっかい家を建てる人になると叫んだ。
今の俺に、叫べることなんて、何もなかった。
叫べば、灯に聞こえる。
だから俺は、声を出さずに、唇だけを動かした。
――行くな。
息だけの言葉が、井戸の暗がりに吸い込まれていった。水面は、何事もなかったかのように揺れ続けていた。
体を起こすと、灯が、じっと俺を見ていた。
「……何て言ったの」
「聞こえなかっただろ」
「うん。聞こえなかった」
灯は、それ以上は訊かなかった。
「じゃあ、ちゃんと沈んだね」
*
砂利を、スコップで井戸の中へ落とした。
ざあっ、と乾いた音がして、砂利が闇の中へ消えていく。しばらくして、底のほうで水が跳ねる音が返ってきた。
もう一杯。もう一杯。
灯は、傘を差し直して、俺の作業を横でずっと見ていた。途中で、手伝うと言ってスコップを持ったが、重たそうに二、三杯落としただけで、腕が上がらなくなった。俺が代わると、灯は悔しそうに唇を噛んでいた。
砂利の層ができたところで、青竹を真ん中に立てた。その周りに、山砂を落としていく。竹が倒れないように、ときどき足で踏み固める。
水音は、いつの間にか聞こえなくなっていた。
井戸の口が、少しずつ浅くなっていく。暗い穴が、ただの砂の窪みになっていく。石組みの内側に、雨に濡れた砂が満ちていく。
灯と俺が、十歳と十二歳の夏に叫んだ言葉も。
今日、灯がこの井戸に沈めた言葉も。
俺が、声にせずに落とした言葉も。
全部、この砂の下に埋まっていく。
昼過ぎ、最後の一杯を落として、スコップの背で表面をならした。
井戸は、なくなった。
苔むした石組みの輪の中に、平らな砂の地面があるだけだった。その真ん中から、青竹が一本、空に向かって突き出していた。竹の先から、雨粒がぽたりと落ちた。
「息抜き、かあ」
灯が、竹の筒を見つめて言った。
「全部埋めても、息だけはできるようにしておくんだね」
「……そういう習わしなんだ」
「いい習わしだね」
灯は、竹の先に指先で触れた。
「言ったこと、全部沈んでも、息だけは残るんだ」
昼は、縁側で並んでおにぎりを食べた。
灯が、朝のうちに作っておいたものだった。家財道具はもう何もないので、祖母の古い弁当箱と、湯呑みを二つだけ残しておいたのだという。蓋を開けると、海苔を巻いたおにぎりが四つ、少しだけ形を揃えようとした跡を見せて、並んでいた。
ひとつ手に取って、齧った。
塩加減は、ちょうどよかった。中の梅干しは、種がちゃんと抜いてあった。
「……うまい」
「でしょ」
灯は、得意そうに胸を張った。
「練習したの。一人暮らしの部屋で、何回も」
「なんで」
「なんでだろうね」
灯は、自分のおにぎりを見つめて、少しだけ黙った。
「向こうに行ったら、毎日ご飯作らなきゃいけないし。……それだけ」
それだけ、ではないことは、分かっていた。
六月の晴れた日、屋根の上から降りてきて食べた、しょっぱいおにぎり。種の抜けていない梅干し。しゅんとした灯の顔。
あの日から、灯は練習していたのだ。この町を出ていくための料理を、この町で食べてもらうために。
俺は、最後のひと口まで、黙って食べた。
*
午後、雨は霧のように細くなった。
縁側の前で、ダリアが満開だった。
十本の茎の先で、数えきれないほどの深紅の花が、重なり合うようにして咲いていた。最初の一輪が咲いた夕方から、ひと月足らず。支柱に寄りかかりながら、それでも一本も折れることなく、ダリアは梅雨を越えていた。
灯が、縁側に座って、その花を見ていた。
俺も、隣に座った。二人の間には、祖母の湯呑みが二つ置かれた盆があった。
「遼くん、お願いがあるの」
「何」
「秋になったら、球根を掘り上げてあげてほしいの」
灯は、ダリアから目を離さずに言った。
「ダリアって、寒さに弱いんだって。霜が降りる前に、球根を掘り上げて、籾殻に埋めて、春まで冬越しさせなきゃいけないの。祖母は毎年、十一月になるとそうしてた」
灯は、脇に置いていたノートを手に取った。祖母の「庭の記録」だった。
「やり方、全部これに書いてある。遼くんが持ってて」
「……俺が?」
「買い手さんに渡してもいいし、遼くんが自分で植えてもいい。でも、掘り上げるのは、遼くんにやってほしいの」
差し出されたノートを、俺は受け取った。表紙の鉛筆の字が、雨の湿気で少し滲んでいた。
「それとね」
灯は、少しだけ笑った。
「ダリアは、秋にもう一回咲くの。夏より、もっときれいに。色が深くなるんだって」
「秋に」
「うん。十月くらい」
灯は、それ以上言わなかった。
言わなくても、分かった。十月。灯の挙式の月だ。灯がこの町から遠く離れた場所で、真嶋さんの隣に立つ頃に、この庭のダリアは、もう一度咲く。
灯は、それを見ることはない。
「……分かった」
俺は、ノートを膝の上に置いた。
「掘り上げとく」
「ありがとう」
灯は、祖母の湯呑みを両手で包んだ。冷めた茶を、一口だけ飲んだ。
「私ね、この家に来て、遼くんに会って、よかったと思ってる」
「……」
「それだけ。それだけは、言っておきたかったの」
ずるい、と思った。
灯は、言えることだけを言う。言ってはいけないことは、井戸に沈めてしまう。俺も同じだった。二人とも、言っていい言葉だけを選んで、手渡し合っていた。
それが、今の俺たちにできる、精一杯だった。
*
夕方、雨がやんだ。
あまりにも静かにやんだので、最初は気づかなかった。屋根を打つ音がいつの間にか消えていて、軒先から落ちる雫の音だけが、ぽつり、ぽつりと残っていた。
それから、西の空の雲が割れた。
ひと月ぶりの、本物の夕焼けだった。濡れた庭の全部が、橙色に染まった。柿の葉も、雑草の先も、埋めたばかりの井戸の砂も、竹の筒も。そして、ダリアの深紅が、夕陽を受けて、燃えるように輝いた。
どこか遠くで、蝉が鳴きはじめた。
一匹が鳴くと、それに応えるように、もう一匹。やがて山のあちこちから、蝉の声が湧き上がってきた。ひと月の間、雨音に隠れていた夏が、一斉に目を覚ましたようだった。
「……やんじゃったね」
灯が、空を見上げて言った。
「ああ」
「明日、梅雨明けだって」
「ああ」
灯は、膝を抱えた。夕陽に照らされたその横顔は、初めて会った日に縁側で見たものと、同じ形をしていた。けれど、もう薄い膜のような笑顔ではなかった。
何も隠していない顔だった。隠しきれなくなった顔だった。
「遼くん」
「うん」
「明日、駅まで送ってくれる?」
「……ああ」
「朝の、十時の電車」
「分かった」
蝉の声が、庭を満たしていた。
雨の音は、もうどこにもなかった。俺たちの時間を包んでいた音が、消えてしまった。代わりに、夏の音が、容赦なく押し寄せてきていた。
俺は、膝の上の祖母のノートを握りしめた。
雨は、もう降っていなかった。
それが、何を意味するのか。最初の日、手帳に「梅雨明けまで」と書き込んだときには、少しも分かっていなかった。
今は、痛いほど分かっていた。




