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嫁ぐ前のひと夏、雨の日だけ会えた君へ ~雨に咲くダリア~  作者: 中原九尾


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10/10

第10話 二度目の花

 梅雨が明けた朝は、空の色が違っていた。


 雲ひとつない、どこまでも抜けていくような青だった。朝の七時にはもう陽射しが肌を刺し、アスファルトの上に陽炎が立ちはじめていた。山という山から蝉の声が降ってきて、耳の奥がじんと痺れるようだった。


 ラジオのアナウンサーが、明るい声で梅雨明けを告げていた。平年より三日遅い梅雨明けです。今日から本格的な夏になります。


 俺はラジオを切った。


   *


 九時半に、宮下の家に着いた。


 灯は、門の前にキャリーケースを置いて立っていた。白いブラウスに、紺のスカート。最初の日と同じ服だった。けれど今日は、髪はどこも濡れていなかった。乾いた風に、毛先が軽く揺れていた。


「おはよう」


「おはよう」


 灯は、玄関の引き戸に鍵をかけた。がちゃり、と古い錠前が鳴った。その鍵を、俺の掌に載せた。


「不動産屋さんに渡しておいて。あと、残りの工事、よろしくお願いします」


「ああ」


 灯は、最後にもう一度、庭を振り返った。


 縁側の前で、ダリアが咲いていた。梅雨明けの強い陽射しの下で、深紅の花は昨日よりも少しだけ色が浅く見えた。雨の中で、あんなに深く燃えていた赤が、夏の光の中では、どこか遠く、よそよそしかった。


「一輪、持っていかないのか」


 俺が訊くと、灯は首を振った。


「連れていかない。ここで咲いてるのが、いいから」


 それから、少しだけ悪戯っぽく笑った。


「持っていったら、ジョゼフィーヌに怒られちゃう」


 灯は、ダリアに小さく手を振った。井戸の跡から突き出した青竹にも、同じように手を振った。それから、振り返らずに門を出た。


   *


 駅までの道は、二十分ほどだった。


 トラックの中で、俺たちはほとんど話さなかった。灯は窓の外を流れていく田んぼや、川や、山の緑を、ひとつひとつ目に焼きつけるように眺めていた。俺は前だけを見て、ハンドルを握っていた。


 ワイパーは、一度も動かなかった。


 蓮見駅は、ホームがひとつだけの無人駅だった。錆びたトタン屋根の下に、古いベンチがひとつ。線路の向こうは、一面の青田だった。稲の葉が風に揺れて、緑の波が遠くまで渡っていく。


 電車が来るまで、あと五分あった。


 二人で、ホームに並んで立った。


「遼くん」


「うん」


「図面、また引いてね」


 灯は、線路の向こうの青田を見たまま言った。


「あの家の図面。買い手さんの家族の顔が見える図面。遼くんなら、描けるよ」


「……ああ」


「約束だよ」


「約束する」


 灯は、それで満足したように頷いた。


 言いたいことは、他にいくらでもあった。


 行くな。残れ。俺は、お前が。


 けれど、それは全部、井戸の底に沈めてきた。砂と砂利の下に埋めて、竹の筒一本分の息だけを残してきた。今さら掘り返すことはできなかった。掘り返してはいけなかった。


 灯も、同じだったと思う。


 昨日、井戸に何を言ったのか。俺は訊かなかったし、灯も言わなかった。二人とも、言わないことを選んだ。それが、この夏に俺たちが交わした、たったひとつの約束だったのかもしれない。


 踏切の警報機が、遠くで鳴りはじめた。


 線路の先に、二両編成の電車が見えた。陽炎の中で揺れながら、ゆっくりと近づいてくる。


「遼くん」


 灯が、俺のほうを向いた。


 真っすぐな目だった。十歳の夏、井戸のそばで俺を睨んでいた目。ダリアが咲いたと泣いた夕方の目。提灯の灯りの中で、濡れた睫毛を震わせていた目。


「元気でね」


「……お前も」


 電車が、ホームに滑り込んできた。ドアが開いた。


 灯は、キャリーケースを持ち上げて、電車に乗り込んだ。ドアのすぐ内側で振り返って、俺を見た。


 何か言うかもしれない、と思った。


 灯の唇が、動いた。


 けれど、ちょうどそのとき、発車のベルが鳴った。灯の声は、ベルの音に掻き消されて、俺のところまでは届かなかった。


 ドアが閉まった。


 硝子越しに、灯が笑った。薄い膜のような笑顔ではなかった。泣きそうな顔で、それでも精一杯に笑っていた。


 電車が、動き出した。


 俺は、ホームの端まで歩いた。電車は青田の中を、少しずつ小さくなっていった。陽炎に揺れて、光に溶けて、やがて見えなくなった。


 蝉の声だけが、残っていた。


 俺は、最後まで言わなかった。


 行くな、とは、言わなかった。


   *


 駅からの帰り道、俺は宮下の家に寄った。


 灯から預かった鍵で、玄関の引き戸を開けた。がらんとした家の中を、廊下を通って、座敷まで歩いた。


 床の間に、青磁の一輪挿しが残されていた。


 深紅のダリアが、一輪だけ挿してあった。今朝切ったばかりなのだろう。花弁の先まで、瑞々しく張りつめていた。


 連れていかない、と灯は言った。ここで咲いてるのが、いいから、と。


 持っていかない代わりに、置いていったのだ。この空っぽの座敷に、たった一輪だけ。


 俺は、畳の上に腰を下ろした。硝子戸は閉め切られていて、摺り硝子の向こうは、夏の光で白く明るいだけだった。何も滲んでいなかった。雨音も、湯呑みの触れ合う音も、ノートをめくる音も、何もなかった。


 ただ、床の間のダリアだけが、そこにあった。


 しばらくそうしてから、俺は立ち上がって、一輪挿しの水を替えた。


   *


 夏の間に、宮下の家の工事は全部終わった。


 八月の初め、買い手の夫婦が家を見に来た。三十代前半の、穏やかな夫婦だった。奥さんのお腹は、もうずいぶん大きかった。


 二人は、座敷の硝子戸から庭を眺めて、ダリアの畝を見つけた。


「あれ、残してもいいですか」


 奥さんが、そう訊いた。


「前の方が大事にされてた花だって、不動産屋さんに聞いたので」


 俺は、しばらく答えられなかった。


「……秋に、球根を掘り上げます。来年の春に、また植えられるように」


「わあ、よかった」


 帰り際、旦那さんが、家の改修をもう少ししたいのだと言った。子どもが生まれたら、部屋の使い方を変えたい。できればこの家の雰囲気は残したまま、と。


「どなたか、設計をお願いできる方をご存知ないですか」


 俺は、胸ポケットの手帳に触れた。


 あの日、斜線を引いた間取り。その下で、かえってくっきりと浮かび上がっていた四角。縁側の前の小さな楕円。座敷の天井の、三つの点。


「……俺で、よければ」


 声が、少し震えた。


「図面、引かせてもらえませんか」


   *


 十月の第三土曜日は、よく晴れていた。


 灯が、式を挙げる日だった。いつだったか、座敷で荷物を片付けながら、灯がそう口にしたのを覚えていた。紅葉のきれいな庭がある式場だと、真嶋さんも言っていた。


 その朝、工務店の郵便受けに、一通の封筒が届いていた。


 宛名は、朝倉遼様。差出人の名前はなかった。けれど、少し右上がりの丸い字を、俺は知っていた。


 封筒を持って、宮下の家へ向かった。


 改修工事は、来月から始まる。家はまだ空き家のままだった。門をくぐると、庭の草は夏の間に刈り込んだままで、あの日よりずっと整っていた。井戸の跡の石組みの輪の中で、青竹が一本、秋の空に向かって立っていた。


 そして、縁側の前で、ダリアが咲いていた。


 二度目の花だった。


 夏の暑さで一度は弱り、葉を落としかけていた株が、九月の終わりから再び蕾をつけ、この十月の澄んだ空気の中で、一斉に開いていた。


 灯の言ったとおりだった。


 夏よりも、深い色だった。梅雨の頃の赤を、もっと長く煮詰めたような、黒に近い深紅。秋の低い陽射しを受けて、花弁の一枚一枚が、しっとりと光っていた。雨の中で見た色とも、夏の光の中で見た色とも違う。遠くへ行ってしまった誰かを、静かに思い出すときのような色だった。


 縁側に腰を下ろして、封筒を開けた。


 便箋が一枚だけ、入っていた。


 ――遼くんへ。

 ダリア、咲いていますか。

 ずっと言えなかった、祖母のもうひとつの言葉を書いておきます。

 十歳の夏、祖母は裏切りの花の話をしたあとで、こう言いました。

 ダリアにはね、ありがとう、という意味もあるんよ。裏切りも、感謝も、同じ花の中にあるんよ。

 あのときは、意味が分かりませんでした。

 今は、少しだけ分かる気がします。

 ありがとう。

                灯


 それだけだった。


 俺は、便箋を膝の上に置いて、ダリアを見た。


 裏切りの花。灯の母親は、恋のために家族を裏切った。灯は、俺を想うことで、自分の誓いを裏切りかけた。俺は、言わないことで、自分の心を裏切り続けた。そして灯は、最後に恋を裏切って、誓いを守った。


 誰も、何も裏切らずには、生きられなかった。


 けれど、同じ花の中に、ありがとうがあった。


 あの夏、雨の座敷で過ごした時間に。支柱を立てた雨の日に。提灯の灯りの中で触れかけて止まった夜に。井戸の底に沈めた、言えなかった言葉に。


 灯は、ありがとうと言ったのだ。


 俺は立ち上がり、井戸の跡へ歩いた。


 石組みの輪の中に、青竹が立っていた。息抜きの竹。全部埋めても、息だけはできるようにしておくための、細い筒。


 竹の先に、顔を近づけた。


 今ごろ灯は、紅葉のきれいな庭で、真嶋さんの隣に立っているのだろう。白いドレスを着て。夏に試着したとき、すごくきれいだったと言っていたドレスを着て。


 俺は、竹の筒に向かって、ひと言だけ呟いた。


「――好きだった」


 声は、竹の中に吸い込まれていった。砂と砂利の下の、暗い水の底へ。あの夏、二人が沈めたすべての言葉が眠っている場所へ。


 誰にも聞こえない。


 それでいいと思った。


 初めて口にしたその言葉は、もう手遅れで、だからこそ、やっと言えた言葉だった。


   *


 十一月の半ば、最初の霜が降りた。


 ダリアの葉は黒く萎れ、茎は枯れて倒れていた。俺は、祖母の「庭の記録」を開いて、そこに書かれている手順どおりに、株の周りにスコップを入れた。


 土の中から、球根が出てきた。


 ひとつの株から、いくつもの芋のような塊が、房のように繋がって出てくる。土を払い、陰干しにし、籾殻を敷いた木箱にひとつずつ並べていく。来年の春、この球根は、新しい家族の庭に、もう一度植えられる。


 作業を終えて、俺はノートの最後のページを開いた。


 祖母の癖のある鉛筆の字が、何十年分も続いていた。最後の書き込みは、今年の三月だった。


 ――三月二十日 晴 ダリア球根 植え付け。今年は赤。灯の好きな色。


 その下に、俺はボールペンで書き足した。


 ――十一月十五日 晴 ダリア球根 掘り上げ。十本、全部無事。


 ノートを閉じたとき、空から、ぽつりと雨粒が落ちてきた。


 冬の雨だった。冷たくて、静かで、梅雨の雨とは違う匂いがした。


 俺は、空を見上げた。


 もう、雨を待つ理由はなかった。雨が降っても、あの座敷で湯呑みを両手に持って、誰かがノートをめくる音を聞くことはない。


 それでも、雨の音を聞くと、俺はたぶん、これから先もずっと、あの夏を思い出すのだろう。


 家に帰って、作業部屋の机に向かった。


 机の上には、描きかけの図面が広げてあった。宮下の家の、改修図面だ。縁側から入った風が座敷を抜けて、廊下を通り、裏の勝手口から出ていく。その風の通り道は、そのまま残してある。座敷の天井の隅には、提灯を吊るすための小さな金具。そして縁側の前には、日当たりのいい、細長い花壇がひとつ。


 住む人の顔が見える図面だと、所長は言ってくれるだろうか。


 分からない。でも、描きたい線を描いている。欲しいものを、欲しいと思って描いている。


 窓の外で、冬の雨が静かに降っていた。


 俺は鉛筆を取って、また一本、線を引いた。


 来年の梅雨、縁側の前で、ダリアが咲く。


 深い赤の、裏切りの花。


 そして、ありがとうの花が。


(了)

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

遼と灯のひと夏が、少しでも心に残っていたら嬉しいです。


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下記の作品を連載中です。こちらもお楽しみいただけたら幸いです。


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