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嫁ぐ前のひと夏、雨の日だけ会えた君へ ~雨に咲くダリア~  作者: 中原九尾


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8/10

第8話 言えない言葉

 大雨のあとの三日間は、嘘のように晴れた。


 俺は親父と二人で、北面の屋根に上がった。割れた瓦を剥がし、雨を吸って黒ずんだ野地板を張り替える。あの夜にバケツを並べた部屋の真上だった。


 灯とは、ほとんど話さなかった。


 朝、門をくぐるときに「おはよう」と言う。灯も「おはよう」と返す。昼には、縁側に麦茶の入ったやかんと湯呑みが二つ置かれている。夕方、帰り際に「お疲れさま」と言われて、「じゃあ」と返す。


 それだけだった。


 避けているわけではなかった。ただ、どちらからも、あの夜のことに触れる言葉が見つからなかった。何もなかったのだから、触れる必要もない。そう自分に言い聞かせるたびに、何かがあったことを思い知らされた。


 屋根の上から見下ろすと、灯が縁側で段ボール箱に封をしているのが見えた。祖母の荷物は、もうほとんど片付いていた。座敷の押し入れは空になり、簞笥は運び出され、仏壇は来週、灯の父親の家へ移されることになっていた。


 家から、祖母の気配が少しずつ消えていく。


 その代わりに、段ボール箱の山が、灯がこの町を出ていく日の近さを告げていた。


 三日目の夜、俺は自分の部屋で、机の引き出しを開けた。


 一番奥に、真嶋の名刺があった。その下に、専門学校の頃に使っていた製図用具が、埃をかぶって詰め込まれていた。三角スケール。テンプレート定規。芯ホルダー。卒業のとき、親父が黙って買ってくれた、少し高い製図用のシャープペンシル。


 ひとつずつ、手に取ってみた。


 三角スケールの目盛りは、ところどころ擦れて読みにくくなっていた。毎晩のように図面に当てていた頃の、手の脂の跡だった。シャープペンシルの軸には、握り癖でついた小さな凹みがあった。


 東京を出るとき、全部捨てるつもりだった。捨てられなくて、ここに押し込んだ。押し込んだまま、三年間、一度も開けなかった。


 芯ホルダーを握ってみた。指が、勝手に正しい位置に収まった。三年経っても、手は覚えていた。


 机の上の裏紙を一枚引き寄せて、芯の先を当ててみた。


 何を描くつもりもなかった。ただ、一本だけ、真っすぐな線を引いてみたかった。


 けれど、芯は紙の上で止まったまま、動かなかった。線を引いた瞬間、また誰かに「住む人の顔が見えない」と言われるような気がした。誰もいない部屋で、誰にも見せるつもりのない紙の上でさえ、俺は怖がっていた。


 あの夜、灯は、提灯の下で言った。そういう人生も、あったのかな、と。


 俺にも、あったのかもしれない。逃げ帰らずに、描き続けていた人生が。


 でも、そんな「もしも」は、どこにもない。


 俺は芯ホルダーを戻して、引き出しを閉めた。今度は、音を立てないように、そっと閉めた。裏紙の上には、芯の先が触れただけの小さな黒い点が、ひとつ残っていた。


   *


 四日目、また雨になった。


 北面の屋根は、あと一日で仕上がる。雨漏りの確認に来る名目は、もうほとんど残っていなかった。


 それでも俺は、宮下の家へ向かった。


 縁側に、灯が座っていた。最初の日と同じように、膝を抱えて、雨の庭を見ていた。俺の足音に気づいて顔を上げ、少しだけ迷うような顔をしてから、笑った。


「来ると思った」


「……雨の日だからな」


「うん」


 あの夜と同じやりとりだった。二人とも、それに気づいていた。気づいていて、どちらも何も言わなかった。


 座敷に上がると、がらんとしていた。


 家具のなくなった十畳の和室は、思っていたよりもずっと広かった。畳の上に、簞笥や鏡台が置かれていた跡が、日焼けの濃淡になって残っている。床の間には、あの青磁の一輪挿しだけが、ぽつんと残されていた。折れたダリアは、とうに萎れて捨てられ、代わりに、庭から切ってきたらしい新しい一輪が挿してあった。


「残りの箱、玄関に運ぶの手伝ってくれる?」


「ああ」


 二人で黙々と、段ボール箱を運んだ。座敷から玄関まで、何度も往復する。灯が軽い箱を、俺が重い箱を持つ。廊下ですれ違うたびに、肩が触れそうになって、どちらからともなく避けた。


 最後の箱を持ち上げたとき、作業着の胸ポケットから、何かが滑り落ちた。


 手帳だった。


 畳の上で、ページが開いた。灯が、拾おうとして屈み込んだ。


 そして、手を止めた。


「……これ」


 開いたページには、あの日の間取りが描かれていた。


 玄関、廊下、仏間。南に張り出した座敷と、それを縁取る縁側。庭へ抜ける風の矢印。その上に、ボールペンで乱暴に引かれた二本の斜線。


「この家、だよね」


 灯が、手帳を拾い上げて、ページを見つめた。


「遼くんが描いたの?」


「……ただの落書きだ」


「落書きじゃないよ」


 灯は、指先で線をなぞった。


「ちゃんと、風の通り道まで描いてある。祖母が言ってたの。この家は、夏に風がよく通るように建ててあるんだって。縁側から入った風が、座敷を抜けて、廊下を通って、裏の勝手口から出ていくんだって」


 灯の指が、手帳の上の矢印をたどっていく。


「全部、描いてある」


 俺は、黙って箱を下ろした。


「なんで、斜線引いたの」


 答えるつもりはなかった。けれど灯の目が、あまりにも真っすぐに俺を見ていた。十歳の夏、井戸のそばで俺を睨んでいた、あの目と同じだった。


「……東京で、設計の仕事をしてた」


 気づけば、口が勝手に動いていた。


「専門学校を出て、設計事務所に入った。住宅の図面を引く仕事だった。でも、何を描いても、所長に同じことを言われた。きれいだけど、住む人の顔が見えない。お前は、自分が描きたい線を描いてるだけだ、って」


 灯は、何も言わずに聞いていた。


「何が足りないのか、分からなかった。分からないまま描き続けて、同じことを言われ続けて、二年もたずに辞めた。辞めたっていうか、逃げてきた。それからは、図面は引いてない」


 雨の音が、がらんとした座敷の中で、やけに大きく響いた。


「それ、描いたのも、癖みたいなもんだ。家を見ると、勝手に手が動く。だから消した。俺にはもう、関係ないことだから」


 話し終えて、俺は灯から目を逸らした。こんなことを誰かに話したのは、初めてだった。親父にさえ、話していなかった。


 灯は、しばらく手帳を見つめていた。


 それから、ぽつりと言った。


「井戸に、でっかい家を建てる人になるって叫んでた子が、今はこの家の風の通り道を描いてるんだね」


「……それが何だよ」


「遼くん、気づいてないの?」


 灯は、手帳を俺のほうへ向けた。


「この図面、祖母の顔が見えるよ」


 息が止まった。


「縁側の、ここ。小さく丸が描いてあるでしょ。ダリアの畝のところ。それから、座敷の天井の隅にも、小さな印。提灯を吊るしてた場所。……こんなの、住む人のことを考えてなきゃ描かないよ」


 俺は、自分の描いた線を見た。


 確かに、そこには描いてあった。描いた覚えはなかった。けれど、縁側の前に小さな楕円がひとつ。座敷の天井の隅に、小さな点が三つ。


 あの日、俺はこの家を測りながら、この家に住んでいた人のことを考えていた。最後の日まで庭に出ていた老婆のことを。お盆に提灯を灯していた人のことを。


 無意識に、それを線にしていた。


「遼くんは」


 灯が、静かに言った。


「本当は、欲しがっていい人だよ」


 顔を上げた。灯は、真っすぐに俺を見ていた。


「描きたいなら、描いていいんだよ。建てたいなら、建てていい。欲しいものは、欲しいって言っていいの。……逃げてきたなんて、言わないで」


 灯の声が、少しだけ震えた。


「私と違って、遼くんは、欲しがっても誰も傷つけないんだから」


 その最後の一言が、胸の奥に深く沈んだ。


 私と違って。


 灯は、欲しがってはいけないと思っている。欲しがったら、母になる。欲しがったら、誰かを傷つける。だから、揺れる前に杭を打って、自分を縛りつけた。


 けれど俺には、欲しがっていいと言う。


 俺が今、一番欲しいものが何なのか、知っているくせに。


   *


「灯」


 名前を呼んでいた。


 灯が、目を見開いた。


 言葉が、喉元までせり上がってきていた。たった一言だ。三文字で済む。子どもでも言える。


 ――行くな。


 この町に残れ。結婚なんかするな。梅雨が明けても、ここにいろ。俺が、この家を直す。お前が住めるように、風の通り道も、ダリアの畝も、提灯の場所も、全部残して。


 欲しがっていいと言ったのは、お前だろう。


 灯は、何も言わずに俺を見ていた。その目が、揺れていた。何を言われるのか分かっていて、それを待っているのか、恐れているのか。


 たぶん、両方だった。


 あの夜の、手首を掴んだ冷たい指と同じだった。引き寄せようとしているのか、押し留めようとしているのか、灯自身にも分からない。


 だから、決めるのは俺だった。


 雨が、屋根を叩いていた。


 床の間の一輪挿しで、深紅のダリアが、静かにこちらを見ていた。


 華麗、優雅、気品。そして、裏切り。


「……北の屋根、明日には終わる」


 口から出たのは、そんな言葉だった。


「そしたら、あとは井戸だけだ」


 灯の目から、何かがふっと抜け落ちたように見えた。安堵なのか、落胆なのか。その両方なのか。


「……うん」


 灯は、小さく頷いた。


「ありがとう、遼くん」


 何に対しての礼なのかは、訊かなかった。


 灯は、手帳を閉じて、俺に差し出した。受け取るとき、指先が触れた。今度は、どちらも避けなかった。ほんの一瞬だけ、そのまま触れていた。


 それから、灯が先に手を離した。


   *


 帰りのトラックの中で、俺はずっと考えていた。


 あのとき、言っていたらどうなっていただろう。


 灯は、揺れたかもしれない。泣いたかもしれない。もしかしたら、頷いたかもしれない。そして、十歳の夏に井戸に叫んだ誓いを、自分の手で壊したかもしれない。


 そうなったら、灯はきっと、一生自分を許さない。母親と同じことをした自分を。真嶋さんを裏切った自分を。


 俺は、灯にそんな一生を背負わせたくなかった。


 それが、言わなかった理由だ。


 そう思おうとした。けれど、本当はそれだけではないことも、分かっていた。


 俺は、怖かったのだ。言って、断られることが。言って、灯の人生を壊してしまうことが。言って、その責任を背負うことが。


 東京から逃げてきたときと、同じだった。欲しいものを、欲しいと言えない。手を伸ばす前に、諦める理由を探してしまう。


 ワイパーが、フロントガラスの雨を拭っていく。


 灯は、俺に欲しがっていいと言った。


 俺は、その言葉を裏切った。


 灯を守るためだと自分に言い聞かせながら、本当は、自分の心を裏切っただけだった。


 ダリアの花言葉が、雨音の中で、何度も耳の奥に響いていた。


 天気予報は、来週の半ばに梅雨明けの見込みだと告げていた。神主さんとの約束は、梅雨明けの予報が出たその日に取りつけてあった。


 井戸を埋めるのは、灯がこの町を出る、前の日だ。

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