第7話 停電の夜
七月の半ば、町に大雨警報が出た。
夕方から降り出した雨は、日が暮れるにつれて勢いを増していった。屋根を叩く音はもう雨音と呼べるものではなく、何か巨大なものが絶え間なく落ちてくる轟きだった。窓の外は真っ暗で、雨の白い筋だけが、街灯の光の中に浮かび上がっていた。
夕飯の途中で、テレビに警報のテロップが流れた。土砂災害警戒情報。川の水位。避難所の開設。
俺は箸を置いた。
宮下の家の北面の屋根は、まだ手をつけていなかった。谷樋は替えたが、北側の古い瓦は割れたままのものがいくつもある。この雨なら、確実に漏る。
それに、あの家には今、灯がひとりでいる。
それに、ダリアが。
「行くんか」
立ち上がった俺に、親父が言った。止めるでも、促すでもない声だった。
「北の屋根、まだやから」
「……旧道、川沿いは通るなよ。上の林道から回れ」
親父はそれだけ言って、また箸を動かし始めた。
*
ワイパーを最速にしても、前がほとんど見えなかった。
林道を上っていく途中で、両側の民家の灯りが、一斉にふっと消えた。停電だ。ヘッドライトの光だけが、雨の幕を切り裂いて、山道を照らしていた。
宮下の家に着いたときには、あたりは完全な闇に沈んでいた。
トラックを降りた瞬間、雨が全身に叩きつけてきた。傘など、何の役にも立たない。懐中電灯を握りしめて門をくぐると、庭の奥で、小さな光が揺れているのが見えた。
「灯!」
光が、こちらを向いた。
灯が、ダリアの畝の前にしゃがみ込んでいた。片手に懐中電灯を持ち、もう片方の手で、倒れかけた茎を必死に押さえている。ずぶ濡れだった。パジャマ代わりのTシャツが体に張りつき、髪から雨が滝のように流れ落ちていた。
「遼くん……っ」
「何やってんだ、こんな雨の中!」
「だって、倒れちゃう!」
灯の声は、雨音に掻き消されそうだった。
「支柱ごと、傾いてて……土が、柔らかくなって……!」
懐中電灯で照らすと、何本かの支柱が、ぬかるんだ土ごと斜めに傾いでいた。茎は麻紐で杭に結ばれたまま、杭と一緒に倒れかけている。咲いている花が、雨の重みでうなだれていた。
「懐中電灯、持ってろ」
俺はトラックに走り、荷台から掛矢と予備の杭を掴んで戻った。
傾いた杭を抜き、少し位置をずらして、深く打ち直す。掛矢を振り下ろすたびに、泥が跳ねて顔にかかった。灯が照らす光の輪の中で、一本、また一本と、杭を立て直していく。
「こっちも!」
「分かってる」
濡れた麻紐は指に食い込み、何度も滑った。灯が横から手を伸ばして、茎を支えてくれた。二人の手が、泥と雨の中で何度もぶつかった。冷たい手だった。
最後の一本を結び終えたとき、俺たちは二人とも、頭のてっぺんから爪先まで泥まみれになっていた。
灯が、懐中電灯でダリアを照らした。
十本の茎が、雨に打たれながら、それでも真っすぐに立っていた。
「……よかった」
灯が、その場にへたり込みそうになった。俺は咄嗟に、その肘を掴んだ。
「中、入るぞ」
*
家の中は、真っ暗だった。
懐中電灯の光で照らすと、北側の部屋の天井から、案の定、雨が漏っていた。俺は台所からバケツと雑巾をかき集めて、漏れている箇所の下に並べた。応急処置にしかならないが、朝までは持つだろう。
座敷に戻ると、灯が、天井の隅を見上げていた。
「提灯」
「え?」
「祖母の提灯。あれ、蝋燭で灯せるの」
灯は仏間から、祖母が仏壇用に買い置いていた和蝋燭の箱を持ってきた。俺は踏み台に乗って、天井から古い提灯を三つ下ろした。飴色に焼けた和紙の中に、蝋燭を立てる。マッチを擦る。
小さな炎が、和紙を内側から照らした。
座敷が、ぼうっと橙色に染まった。
ひとつ、ふたつ、みっつ。提灯の灯りが灯るたびに、座敷の闇が少しずつ押し退けられていく。床の間の一輪挿しのダリアが、揺れる炎の中で、暗い赤に浮かび上がった。
「祖母がお盆にこれ灯してたの、こういう感じだったんだ」
灯が、提灯を見上げて呟いた。
「涼しく見えるって言ってたけど、あったかいね」
外では、雨が相変わらず轟いていた。けれど、提灯の灯りの中にいると、その音はどこか遠くに聞こえた。
灯が、押し入れからタオルを何枚も出してきた。俺に一枚投げてよこし、自分も一枚を頭からかぶる。濡れたTシャツの上から、祖母のものらしい赤い羽織を肩にかけた。
俺は作業着の上着を脱いで、縁側の柱にかけた。下のTシャツも濡れていたが、それは仕方がなかった。
二人で、提灯の下に座った。
*
「来てくれると、思った」
しばらくして、灯がぽつりと言った。
「……雨の日だからな」
「うん。雨の日だから」
灯は、タオルの端で髪を拭いながら、小さく笑った。
「私ね、最初の日に言ったでしょ。今年はたくさん降るといいなって。あれ、なんでか分かる?」
俺は答えなかった。答えを知っていたからだ。知っていて、答えてはいけないと思ったからだ。
灯も、答えを求めてはいなかった。
代わりに、提灯を見上げたまま、ぽつりと言った。
「ねえ。もし私が、この町の子だったら、どうなってたかな」
「……どうって」
「ずっとここに住んでて、毎年ダリアが咲くのを見て。遼くんが東京から帰ってきたときに、おかえりって言って」
灯の声は、夢の中で喋っているように柔らかかった。
「雨の日は、この座敷でお茶を飲んで。晴れた日は、遼くんが屋根の上にいて、私がおにぎり持っていって。今度はちゃんと、梅干しの種も抜いて」
「……」
「そういう人生も、あったのかな」
提灯の炎が、小さく揺れた。
あったのかもしれない、と思った。十歳の夏に灯の母親が出ていかなければ。灯が毎年この町に来続けていれば。俺が東京へ行かなければ。あるいは、もっと早く帰ってきていれば。
でも、そんな「もしも」は、どこにもなかった。灯は十歳であの誓いを立て、俺は二十二で逃げ帰り、二人は二十五と二十三になって、この梅雨の座敷で、たまたま再会しただけだった。
「……ないよ、そんなの」
俺は、そう答えた。そう答えるしかなかった。
「うん」
灯は、小さく笑った。
「知ってる。言ってみたかっただけ」
「……寒い」
灯の肩が、小さく震えていた。唇の色が悪い。濡れたまま、雨の中に長くいすぎたのだ。
「ちゃんと拭けよ。髪、まだ濡れてる」
「拭いてるもん」
「拭けてない」
俺は膝を進めて、灯の頭にかかったタオルに手を伸ばした。両手で、髪をタオルごと包むようにして拭く。子どもの頃、風呂上がりに母親がしてくれたように。それ以上の意味はない。ないはずだった。
灯は、されるがままになっていた。
タオル越しに、灯の頭の形が掌に伝わってきた。濡れた髪の冷たさ。その下の、微かな体温。提灯の灯りが揺れるたびに、灯の頬に落ちる影が揺れた。
手が、止まった。
灯が、顔を上げた。
すぐ目の前に、灯の顔があった。タオルの影の中で、濡れた睫毛が震えていた。瞳の奥に、提灯の小さな炎が映り込んでいた。
雨の音が、遠のいた。
灯の手が、ゆっくりと持ち上がって、俺の手首に触れた。冷たい指だった。その指が、俺の手首を掴んだ。
引き寄せようとしているのか。それとも、押し留めようとしているのか。
分からなかった。たぶん、灯自身にも分かっていなかった。
顔が、近づいた。
灯の吐息が、唇にかかるほどの距離だった。
「……だめ」
灯が、囁いた。
手首を掴む指に、力がこもった。
「だめ、遼くん」
灯は、目を閉じていた。閉じた瞼の端から、雨ではないものが一筋、頬を伝って落ちた。
「それをしたら、私……母になる」
その言葉が、胸の真ん中を撃ち抜いた。
俺は、タオルから手を離した。ゆっくりと、体を引いた。灯の指が、俺の手首から滑り落ちた。
「……ごめん」
「謝らないで」
灯は、目を閉じたまま首を振った。
「謝られたら、本当に何かあったみたいになるから」
俺は、畳の上に座り直した。灯との間に、提灯ひとつぶんの距離を空けた。
何もなかった。
俺たちは何もしなかった。触れかけて、止まった。ただそれだけだ。誰にも、何も、責められることはしていない。
それなのに、胸の中は、取り返しのつかないことをしたあとのように、ひどく痛んでいた。
*
それから朝まで、俺たちはほとんど口をきかなかった。
灯は羽織を体に巻きつけて、膝を抱えて座っていた。俺は北側の部屋のバケツを何度か取り替えに立ち、戻ってくるたびに、同じ場所に座り直した。提灯の蝋燭が短くなると、新しいものに替えた。
一度だけ、灯がぽつりと言った。
「遼くん、今井戸に行ったら、何て叫ぶ?」
俺は、提灯の炎を見つめていた。
「……叫ばない」
「なんで」
「誰かに聞こえたら、困るから」
灯は、何も言わなかった。ただ、膝を抱える腕に、少しだけ力を込めたようだった。
夜明け前、雨が弱まった。
ふっと、天井の蛍光灯が瞬いて、白い光が座敷を満たした。停電が復旧したのだ。提灯の橙色の灯りは、その白い光の中で、急に頼りなく、色褪せて見えた。
魔法が解けたみたいだ、と思った。
灯が立ち上がり、硝子戸を開けた。
夜明けの薄青い光の中で、庭は水浸しになっていた。雑草はなぎ倒され、飛び石は泥に埋もれている。柿の木の枝が一本、折れて地面に落ちていた。
けれど、ダリアは立っていた。
十本の茎が、一本も折れることなく、支柱に寄りかかって、真っすぐに空を見上げていた。雨に打たれ続けた花は少し傷んでいたが、それでも、深紅の色を失ってはいなかった。
「……折れてない」
灯が、縁側に膝をついて呟いた。
「折れてないよ、遼くん」
振り返った灯の顔は、泣き腫らして、ひどいものだった。たぶん俺の顔も、同じくらいひどかった。
それでも灯は、笑った。
俺も、少しだけ笑った。
*
家に帰ると、台所の灯りがついていた。
親父が、ひとりで湯を沸かしていた。泥まみれの俺を見て、眉ひとつ動かさずに言った。
「濡れたまま上がるな。風呂、沸いとる」
それだけだった。何があったのかとも、どこにいたのかとも訊かなかった。
湯船に肩まで浸かって、目を閉じた。
手首に、まだ灯の指の感触が残っていた。引き寄せようとしたのか、押し留めようとしたのか分からない、あの冷たい指の感触が。
――それをしたら、私、母になる。
あの言葉は、灯が自分自身に向けたものだった。けれど、同時に俺にも向けられていた。
お前は、あの人の母親を連れ去った男と、同じものになるのか、と。
湯の中で、俺は拳を握りしめた。
なりたくない。
でも、なりたかった。
その二つの気持ちが、胸の中で、雨と雨がぶつかり合うように、いつまでも鳴り止まなかった。




