第6話 婚約者
その土曜日は、雨とも晴れともつかない、薄曇りの空だった。
台所の床の張り替えは、天気に関係なくできる仕事だった。朝から沈んでいた床板を剥がし、腐った根太を取り除く。床下から、湿った土と、何十年分の埃の匂いが立ち上ってきた。
灯は、朝から落ち着かない様子だった。
座敷を何度も掃き直し、祖母の湯呑みを三つ出しては二つに戻し、また三つにした。縁側に出て庭を眺め、ダリアの支柱を一本ずつ確かめるように指で触れていた。
「今日、何かあるのか」
「うん。……婚約者の人が、来るの」
灯は、少しだけ早口にそう言った。
「この家、一度見ておきたいって。買い手さんとの契約のこともあるし」
「そうか」
俺は、床下を覗き込んだまま答えた。それ以外に、何と言えばいいのか分からなかった。
しばらくして、奥の部屋の襖が開いた。
出てきた灯を見て、俺は根太を持ったまま手を止めた。
淡い水色のワンピースだった。いつもひとつに束ねている髪を下ろして、毛先を緩く巻いている。唇には、薄く色が乗っていた。雨の日の座敷で、祖母の羽織を肩にかけて膝を抱えていた女の子とは、別人のようだった。
「……変じゃない?」
灯が、ワンピースの裾を指先でつまんで訊いた。
「いや」
「ほんとに? 久しぶりにこういうの着たから、分かんなくて」
「変じゃない」
それしか言えなかった。似合う、とも、きれいだ、とも言えなかった。それを言うのは、俺の役目ではなかった。
灯は、ほっとしたように息をついて、また座敷のほうへ戻っていった。廊下を歩く足音が、いつもより少しだけ軽かった。
俺は、床下の暗がりに頭を突っ込んだ。湿った土の匂いを吸い込んで、腐った根太を力任せに引き剥がした。
*
昼前に、一台の白いセダンが空き地に停まった。
降りてきたのは、背の高い男だった。紺のポロシャツに、チノパン。細いフレームの眼鏡をかけていて、髪はきちんと整えられている。年は、三十手前くらいだろうか。車のトランクから紙袋を取り出し、門をくぐってきた。
「真嶋さん」
灯が、玄関先まで迎えに出た。
「遠いところ、ありがとうございます」
「いや。いい道だったよ。山がきれいだった」
穏やかな声だった。低すぎず、高すぎず、よく通るのに押しつけがましくない。
真嶋は、台所の入口に立っている俺に気づくと、すぐにこちらへ歩いてきた。
「工務店の方ですね。真嶋と申します。灯が、いつもお世話になっています」
差し出された名刺には、都市部の商社の名前が印刷されていた。俺は作業着の尻ポケットで手を拭ってから、それを受け取った。
「朝倉です」
「これ、皆さんで召し上がってください」
紙袋の中身は、有名な店の焼き菓子の詰め合わせだった。俺は礼を言って受け取った。ほかに、どうすることもできなかった。
*
真嶋は、家の中を丁寧に見て回った。
灯が案内する後ろを、ゆっくりとついて歩く。仏間では遺影に手を合わせ、長いこと目を閉じていた。座敷では欄間の細工を見上げて、感心したように息をついた。
台所に戻ってくると、床下を覗き込んで、俺に訊いた。
「根太、というんですか。この木が腐っていたんですね」
「湿気で。この辺は、梅雨が長いので」
「なるほど。こうやって下から直すんですね。知らなかった」
真嶋は、本当に興味深そうに床下を見ていた。知ったかぶりをするでもなく、専門外だからと無関心でいるでもない。分からないことを分からないと言い、教わったことに素直に頷く。
いい人だ、と思った。
思いたくなかったのに、思ってしまった。
昼は、座敷で三人で弁当を食べた。灯が町の仕出し屋で頼んでおいたものだった。俺は台所で食べると言ったが、真嶋が「せっかくですから」と言って譲らなかった。
真嶋は、よく話した。灯の会社での様子。二人で行った水族館のこと。式場の庭が広くて、秋には紅葉がきれいなこと。灯は、その一つ一つに穏やかに相槌を打っていた。
話の途中で、真嶋は俺にも水を向けた。
「朝倉さんは、ずっとこちらで?」
「……いえ。何年か、東京で設計の仕事を」
灯が、ちらりと俺を見た。俺が自分のことを話すのは、珍しかったからだろう。灯にさえ、ちゃんと話したことはなかった。
「設計。建築の、ですか」
「住宅を少し。すぐ辞めましたけど」
「そうですか」
真嶋は、辞めた理由を訊かなかった。代わりに、座敷の欄間を見上げて言った。
「羨ましいです。僕は、形に残るものを何も作れないので。数字を動かして、書類を作って、それで一日が終わる。こういう家を見ると、何十年も誰かの暮らしを支えてきたものを作れる人って、すごいなと思うんです」
お世辞ではなかった。真嶋は、本当にそう思っている顔をしていた。
「……俺は、もう作ってないので」
「でも、今こうして直していらっしゃる」
真嶋は、穏やかに笑った。
「直すのも、作るのと同じくらい大事な仕事だと思いますよ」
俺は、何も返せなかった。灯が、湯呑みを両手で包んだまま、黙って俺と真嶋を見比べていた。
真嶋と話すときの灯は、落ち着いていた。
声のトーンが少し低くなり、笑い方がゆっくりになる。何かを話そうとするときには一呼吸置いて、言葉を選ぶ。大人の女の人の話し方だった。
俺の知っている灯は、敬語をやめないかと唇を尖らせる二十三歳の女の子で、ダリアが咲いたと泣き崩れる孫娘で、井戸に向かって叫ぶ十歳の子どもだった。
この灯を、俺は知らなかった。
湯呑みの中の茶が、やけに苦かった。
*
午後、雲が切れて、薄日が射した。
真嶋が庭に出ていきたいと言い、灯と二人で縁側から降りていった。俺は台所の窓から、それを見ていた。見るつもりはなかったのに、目が勝手にそちらを向いた。
真嶋は、ダリアの前で足を止めた。
「きれいだね」
迷いのない声だった。
「灯のおばあさんが植えたんだっけ」
「はい。最後に」
「そうか。……ちゃんと咲いてよかったね」
真嶋は腰を屈めて、支柱に結ばれた麻紐に目を留めた。
「これ、灯が結んだの?」
「ううん。朝倉さんが。雨で倒れそうになってたのを、支えてくれて」
「へえ」
真嶋は振り返って、台所の窓越しに俺を見た。目が合った。彼は軽く頭を下げた。俺も、下げ返すしかなかった。
「何ていう花?」
「ダリア」
「ダリアか。花言葉とか、あるのかな」
灯は、一瞬だけ黙った。
「……華麗、だって」
「ぴったりだ」
真嶋は、屈託なく笑った。
灯も、笑った。穏やかな、きれいな笑顔だった。
けれど俺は、その笑顔が、初めて会った日に見た、あの薄い膜のような笑顔と同じ形をしていることに気づいてしまった。
そして、灯が真嶋に、裏切りの話をしなかったことにも。
気づいたところで、どうなるものでもなかった。俺は窓から目を逸らして、床下に潜り直した。根太の寸法を測る。数字を手帳に書き込む。何度書いても、数字は頭に入ってこなかった。
*
夕方、真嶋が帰る段になって、灯が台所の片付けに立った隙に、彼は空き地に停めたセダンの横で俺を呼び止めた。
「朝倉さん、少しいいですか」
トラックに道具を積んでいた手を止めた。
「灯のこと、ありがとうございます」
真嶋は、真っすぐに俺を見て言った。
「あの子、無理をするところがあるでしょう。何でも一人で片付けようとする。おばあさんのことも、この家のことも、全部自分でやるって言って聞かなくて」
「……はい」
「本当は、僕も一緒に来たかったんです。でも、ひとりでやりたいって。最後だから、ひとりで祖母とお別れしたいって」
真嶋は、少しだけ寂しそうに笑った。
「だから、朝倉さんのような方がそばにいてくださって、安心しました。ここにいる間、どうか灯をよろしくお願いします」
深く、頭を下げられた。
俺は、何も答えられなかった。喉の奥に、焼けた石でも詰まったようだった。
この人は、俺を信用している。灯のそばに俺がいることを、心の底から安心だと思っている。疑うという発想すら持っていない。それは真嶋が鈍いからではなく、彼が灯を信じているからだ。
俺は、この人から何かを奪うような人間になりたくなかった。
なりたくないと思えば思うほど、自分がもう半分そうなりかけていることを、思い知らされた。
「……工事は、きちんと仕上げます」
ようやく、それだけ言えた。
「ありがとうございます」
真嶋は顔を上げて、もう一度微笑んだ。
「僕は、灯が選んでくれたことを、大事にしたいと思ってるんです。……あの子が、ちゃんと自分で選んだことだから」
セダンが、砂利を鳴らして空き地を出ていった。
テールランプが旧道の向こうに消えるまで、俺はその場に立っていた。
敵わない、と思った。
四つ年上なだけの男だった。けれど、その四年の間に、あの人は俺がまだ手に入れていないものを、全部手に入れていた。人を信じる余裕。誰かの選択を丸ごと受け止める度量。自分のものではない何かを、奪わずに大事にできる強さ。
俺は、ダリアに支柱を立てて、いい気になっていただけの子どもだった。
*
トラックに乗り込もうとしたとき、フロントガラスに、ぽつりと雨粒が落ちた。
振り返ると、灯が縁側に立っていた。夕暮れの薄明かりの中で、ダリアの赤だけが、ぼんやりと浮かび上がって見えた。
「真嶋さん、帰った?」
「ああ」
「……いい人でしょ」
「いい人だ」
本心だった。嘘をつく必要すらないほど、本心だった。
灯は、ダリアのほうへ目をやった。雨粒が、花弁に落ちては弾けていた。
「いい人なの。本当に」
誰に言い聞かせているのか分からない声だった。
俺は答えずに、運転席のドアを閉めた。ワイパーを動かすと、縁側の灯の姿が、雨の向こうで滲んで、揺れた。
家に帰って、作業着のポケットを探ると、真嶋の名刺が出てきた。
白い厚紙に、社名と部署名と、真嶋恭一という名前。角が少しも折れていない、きちんとした名刺だった。
俺はそれを、しばらく眺めていた。
捨てる理由はなかった。けれど、目につく場所に置いておく気にもなれなかった。結局、机の引き出しの一番奥にしまった。専門学校の頃の製図用具が詰め込まれたままになっている、あの引き出しだった。
引き出しを閉める音が、やけに大きく部屋に響いた。
窓の外で、また雨が降りはじめていた。
明日は、一日中雨の予報だった。




