第5話 裏切りの花
七月に入ると、雨はまた毎日のように降りはじめた。
ダリアは、次々に咲いた。
最初の一輪に続いて、二輪、三輪。支柱に寄りかかった十本の茎の先で、深紅の花が雨を受けて揺れていた。晴れた日の強い光の下よりも、雨の日の薄暗さの中でこそ、その赤はいっそう深く見えた。灰色の庭で、そこだけに火が灯っているようだった。
その朝、宮下の家に着くと、灯が縁側に座って、一輪のダリアを手のひらに載せていた。
「折れちゃった」
夜のうちに強い雨が降ったらしい。一本の茎が、支柱に結んだ麻紐のすぐ上で、ぽっきりと折れていた。花は泥にまみれることもなく、灯の手の中で、まだ瑞々しく開いていた。
「紐の位置が悪かった。すみません」
「遼くんのせいじゃないよ」
灯は首を振った。
「支えてても、折れるときは折れるんだね」
彼女はそう言って、台所から祖母の一輪挿しを持ってきた。細長い、青磁の花瓶だった。水を張り、折れた茎の先を斜めに切って、ダリアを挿した。それを座敷の床の間に置いた。
掛け軸の前に、深紅の花がひとつ。薄暗い座敷の中で、それは不思議なほど静かに収まっていた。
それから二人で、庭に出て支柱を点検した。
一本ずつ、麻紐の位置を確かめる。茎が伸びて、結び目が花の重みを支えきれなくなっているところがいくつもあった。紐を解き、もう少し上の位置で、結び直していく。
「私も、やってみたい」
灯が、傘を肩に挟んで、麻紐の端を手に取った。
「八の字にするんだ。茎と杭の間で、一回交差させて」
「こう?」
「きつい。茎が潰れる」
「じゃあ、こう」
「緩い。それじゃ、風で倒れる」
灯は、むう、と唸って、何度も結び直した。雨で指先がかじかんで、紐が思うように動かないらしい。俺は見かねて、後ろから手を添えた。灯の指の上から麻紐を持って、一緒に八の字を描く。
「このくらい。指一本、隙間が入るくらい」
「……このくらい」
灯が、結び目に指を差し入れて確かめた。それから、ふっと顔を上げた。
思っていたより、距離が近かった。
俺は、すぐに手を離した。灯も、何事もなかったように次の茎へ移った。けれど、それから最後の一本を結び終えるまで、どちらも一言も喋らなかった。
きつすぎず、緩すぎず。
支えることと、縛りつけることの境目は、指一本ぶんしかない。
*
「ねえ、遼くん」
昼過ぎ、祖母の手紙の束を仕分けしていた灯が、ふと手を止めた。
「敬語、やめない?」
「え」
「だって、私のほうが年下なんだよ。遼くんが敬語で、私がため口混じりって、なんか変じゃない?」
「施主さんなので」
「施主さんの孫だよ。それに、子どもの頃は『お前』って呼んでたくせに」
灯は、少し拗ねたように唇を尖らせた。二十三歳の、年相応の顔だった。
「……分かった」
ぎこちなくそう言うと、灯は満足そうに笑った。
「よし」
敬語をやめる。たったそれだけのことで、座敷の空気が少し変わった気がした。近くなった、と言えばいいのか。雨音に囲まれたこの部屋の中で、二人の間の距離が、畳一枚ぶんくらい縮まったような。
縮まってはいけないのだと、頭のどこかで分かっていた。
手紙の束の下から、古いアルバムが出てきた。
灯がそれを膝の上で開いた。色褪せた写真が、透明なフィルムの下に並んでいる。若い頃の祖母。祖父らしき人。赤ん坊を抱いた、灯によく似た若い女性。
灯の指が、その写真の上で、一瞬だけ止まった。それから、何も言わずにページをめくった。
何枚かめくったところで、灯が「あ」と声を上げた。
「これ」
縁側に座った、小さな女の子の写真だった。白いワンピースを着て、両手でラムネの瓶を持っている。目元がまだ少し腫れぼったいが、口元は笑っていた。
写真の端に、自転車の後輪が写り込んでいた。錆びた荷台と、子どもの脛が片方。脛には、転んだときの擦り傷があった。
「これ、遼くんだよ」
「……脚しか写ってないだろ」
「分かるよ。この擦り傷、覚えてるもん。私を後ろに乗せて坂道でこけたとき、遼くん、自分だけ擦りむいて、私は無傷だったの。で、泣きそうな顔して、泣かなかった」
灯は、写真の中の脛を指でなぞって笑った。
「かっこつけてたね」
「覚えてない」
「嘘。耳、赤いよ」
俺は黙って、湯呑みの茶を飲んだ。灯は楽しそうに、また次のページをめくった。けれど、その夏のあとのページには、女の子の写真はもう一枚もなかった。
*
床の間のダリアを眺めながら、灯がぽつりと言った。
「ダリアの花言葉、知ってる?」
「いや」
「華麗、優雅、気品。……あとね、裏切り」
俺は、灯の横顔を見た。彼女は床の間の花から目を逸らさなかった。
「移り気、とも言うんだって。祖母が教えてくれたの。昔ね、ナポレオンの奥さんの、ジョゼフィーヌって人が、ダリアをすごく大事にしてたんだって。自分の庭にだけ咲かせて、誰にも球根を分けなかった。でも、侍女の一人がこっそり球根を盗み出して、よその庭で咲かせちゃったんだって」
「それで、裏切り」
「そう。それを知ったジョゼフィーヌは、ダリアに見向きもしなくなったんだって。本当の話かどうかは分からないけど。……祖母は、そう話してくれた」
雨が、少し強くなった。
「その話を聞いたの、十歳の夏だった」
灯の声は、雨音に紛れそうなほど静かだった。
「その夏、母が出ていったの。好きな人ができたって。父と私を置いて、その人のところへ行っちゃった」
俺は、何も言えなかった。
「朝起きたら、もういなかった。台所のテーブルに、手紙が一枚だけ置いてあって。……『ごめんなさい。好きな人ができました。この気持ちに嘘はつけません』って」
灯は、小さく笑った。笑おうとして、うまく笑えていなかった。
「嘘はつけません、だって。すごいよね。家族には平気で嘘ついてたのに」
「……」
「父は、しばらく何もできなくなっちゃって。それで、夏休みの間、私はここに預けられたの。そのとき、この庭にダリアが咲いてた。真っ赤なのが、たくさん」
床の間のダリアに、灯の視線が吸い寄せられる。
「私、祖母に訊いたの。この花、なんて名前って。そしたら祖母、少し困った顔して、それからジョゼフィーヌの話をしてくれた。裏切りの花なんよ、って」
雨音だけが、しばらく座敷を満たした。
「ひどいでしょ。母親に捨てられたばっかりの孫に、裏切りの花の話なんて」
「……おばあさんは、なんで」
「分かんない。でも、最後に言ったの。花には罪はないんよ、って。それと――」
灯は、何かを言いかけて、口を噤んだ。
「……ううん。それは、また今度」
俺は、座敷の畳の目を見つめていた。
十歳の夏。井戸のそば。泣き腫らした目で、俺を睨んでいた女の子。
――言いたいこと、ここで全部言っちまえ。
その子は、井戸の縁にしがみつくようにして、底に向かって叫んだ。
――お母さんみたいになんか、ならない!
記憶が、雨に打たれたように鮮やかに蘇った。
覚えていないふりをしていたのではなかった。本当に忘れていた。けれど今、その声ははっきりと耳の奥で鳴っていた。細くて、震えていて、それでも誰よりも強い声だった。
お母さんみたいになんか、ならない。
あの子は、十歳で、井戸にそう誓ったのだ。そして俺は、その誓いの隣にいた。
「だからね」
灯の声で、我に返った。
「私、恋愛に向いてないの。好きで好きでどうしようもない、みたいな気持ち、ずっと怖かった。そういうのって、人を捨てるから。嘘はつけません、なんて言いながら、一番大事な人たちを平気で置いていけちゃうから」
灯は膝の上で、指を組んだ。
「真嶋さん――婚約者の人ね。穏やかで、優しくて、一緒にいると安心するの。どきどきは、あんまりしない。でも、それでいいと思った。どきどきしない人となら、私は絶対に、母みたいにはならないから」
「……」
「二十三で結婚って、早いよね。自分でも分かってる。でも、早く決めちゃいたかったの」
灯は、自分の組んだ指を見つめていた。
「揺れる前に」
その言葉が、座敷の空気の中に、ゆっくりと沈んでいった。
揺れる前に。
灯は、揺れることを知っているのだ。自分がいつか揺れるかもしれないことを、誰よりも恐れている。だから、揺れる前に、自分の人生に杭を打って、麻紐できつく縛りつけようとしている。
ダリアの支柱のように。
*
夕方、雨は小降りになった。
帰り支度をしながら、俺は床の間のダリアをもう一度見た。折れた茎の先で、深紅の花は、まだ少しも萎れていなかった。
「きれいだな」
思わず、そう口にしていた。
「うん。折れても、きれいだね」
灯が、隣に立って言った。
俺が言ったのは、花のことだけではなかった。けれど、それを灯に伝えるわけにはいかなかった。
縁側で靴を履きながら、胸の中で、ひとつの言葉が形になりかけていた。
たった二文字の、簡単な言葉だ。子どもでも言える。
でも、それを口にした瞬間、俺は灯にとって、母親を連れ去った「好きな人」と同じものになる。灯が十歳で井戸に叫んだ誓いを、俺が壊すことになる。
あの日、井戸のそばで泣いていた女の子に、言いたいことは全部言っちまえと教えたのは、俺だった。
その俺が、今は、言いたいことを言ってはいけない。
「遼くん?」
灯が、上がり框から俺を見下ろしていた。
「どうしたの。難しい顔して」
「……いや」
俺は立ち上がり、傘を開いた。
「支柱、明日もう一回見に来る。結び直すから」
「うん。お願い」
門を出て、振り返らずに歩いた。
背中で、雨がダリアの花弁を叩く音がしていた。
旧道を少し下ったところで、俺は足を止めた。
振り返ると、宮下の家の屋根が、雨に煙って見えた。その向こうに、柿の木の影。あの木の下に、井戸がある。
灯は、十歳であの井戸に誓った。お母さんみたいになんか、ならない、と。そして十三年間、その誓いをひとりで守ってきた。恋を怖がり、揺れることを怖がり、揺れる前に自分を縛りつけて。
その誓いの、たったひとりの証人が、俺だった。
――言いたいこと、ここで全部言っちまえ。
あの日の俺は、本気でそう思っていた。言えば楽になる。言えば、沈んで消える。十二歳の子どもの、単純な理屈だった。
二十五歳の俺は、もう知っている。言葉は沈まない。言ったことは、言われた相手の中に、ずっと残る。井戸の底ではなく、人の胸の底に。
だから、言えなかった。
その日、俺は初めて、自分の気持ちに名前をつけかけて、やめた。
名前のない気持ちは、どこにも沈んでいかなかった。井戸の底ではなく、俺の胸の中に、ずっと居座り続けていた。




