第4話 晴れ間
梅雨の中休み、とラジオは言った。
六月の終わり、太平洋の高気圧が一時的に張り出して、この一帯には四日続けて晴れの予報が出ていた。空は朝から高く、雲は白く、濡れていた山の緑が陽の光を跳ね返してまぶしかった。
工事をするには、願ってもない天気だった。
「今のうちに屋根、仕上げてまうぞ」
親父はそう言って、朝の六時から軽トラックの荷台に瓦を積み込んでいた。俺も黙ってそれを手伝った。
宮下の家に着くと、玄関の引き戸に鍵がかかっていた。
郵便受けに、メモが一枚挟まっていた。見覚えのある、少し右上がりの丸い字だった。
――三日ほど、向こうに戻ります。式の打ち合わせと、ドレスの試着です。鍵は物置の植木鉢の下にあります。ダリア、よろしくお願いします。 宮下
ドレスの試着。
その文字を、しばらく見ていた。
「なんや」
「……施主さん、三日ほど留守だそうです」
「ほうか。ほんなら気兼ねなくやれるな」
親父は梯子を担いで、さっさと屋根のほうへ回っていった。
俺はメモを畳んで、作業着の胸ポケットにしまった。
*
晴れた日の宮下の家は、別の家のようだった。
座敷の硝子戸は閉め切られ、摺り硝子の向こうは白く明るいだけで、何も滲んでいない。縁側には陽が射し込んで、板の上に埃が細かく光っている。祖母の湯呑みが二つ、盆の上に伏せて置かれていた。
屋根の上は暑かった。
瓦を一枚ずつ葺いていく。桟木に引っかけ、釘で留め、次の一枚を重ねる。親父と俺の間に会話はほとんどない。鳶の声と、釘を打つ音と、遠くの国道を走る車の音だけがあった。
作業は、驚くほど捗った。
雨の日なら一時間で終わる確認仕事のために半日を潰していたのが嘘のように、晴れた日の三日間で、屋根の南面がすっかり新しい瓦に覆われた。谷樋も交換した。あの雨漏りの染みは、もう広がることはない。
工程表の上では、順調そのものだった。
昼休み、屋根の上から庭を見下ろした。
ダリアの蕾は、陽の光を浴びて、さらに膨らんでいた。けれど、雨の日に見たあの赤は、晴れた日の強い光の下では少しくすんで見えた。
水をやらなければ、と思った。
灯のいない庭で、俺は庭の水道からホースを引いてきて、ダリアの根元に水を撒いた。親父が屋根の上から、不思議そうにそれを見下ろしていた。
水を撒き終えて、座敷の硝子戸の前を通りかかったとき、中が見えた。
畳の上に、灯の荷物が寄せてあった。畳まれた衣類。祖母のノートの横に、化粧ポーチ。その脇に、分厚い雑誌が一冊、置きっぱなしになっていた。
結婚情報誌だった。
表紙では、白いドレスの女性が笑っていた。ページのあちこちから、色とりどりの付箋が飛び出している。式場。ドレス。引き出物。いくつかの付箋には、灯の右上がりの丸い字で、何か書き込みがしてあった。
見るつもりはなかった。すぐに目を逸らした。
けれど、その一瞬で、分かってしまった。灯は、ちゃんと準備をしている。秋に向かって、真っすぐに歩いている。雨の日の座敷で俺と湯呑みを並べている灯とは別に、付箋を貼って、ドレスを選んで、誰かの妻になる準備をしている灯がいる。
当たり前のことだった。最初の日に、彼女はそう言ったのだから。
当たり前のことが、どうしてこんなに胸に堪えるのか、俺には分からなかった。分かりたくなかった。
屋根に戻ると、親父が瓦を差し出しながら言った。
「不動産屋から電話あったで。引き渡し、七月の末で決まったそうや」
「……そうか」
「間に合うな」
「ああ。間に合う」
間に合ってしまう、とは言わなかった。
「お前、花なんか育てとったか」
「施主さんに頼まれたので」
嘘ではない。メモにはそう書いてあった。
ただ、胸ポケットの中の紙切れが、妙に重く感じられた。
*
二日目の朝、門をくぐると、真っ先にダリアの畝へ目が行った。
蕾は、昨日よりもまた少し膨らんでいた。萼の隙間から覗く赤が、ほんのわずかに面積を広げている。晴れの日の乾いた風に、葉がかさかさと鳴っていた。
咲くなよ、と思った。
自分でも、何を考えているのか分からなかった。灯は、咲くのを見てから町を出たいと言った。だったら、灯がいない間に咲いてしまったら、灯はその瞬間を見逃すことになる。
それだけのことだ。灯のために、咲くなと思っただけだ。
けれど、心のどこかで、別のことも考えていた。咲かなければいい。いつまでも蕾のままでいればいい。そうすれば、灯は、いつまでも町を出ていけない。
馬鹿げた考えだった。俺は蕾から目を逸らし、梯子を担いで屋根に上がった。
二日目の夜、家で夕飯を食べながら、俺はテレビの天気予報を見ていた。
明日も晴れ。明後日も晴れ。週明けから、また梅雨前線が北上してくる見込み。
週明け。灯が戻ってくるのも、たぶんその頃だ。
「お前、最近よう天気予報見とるな」
向かいで晩酌をしていた親父が、ぼそりと言った。
「仕事の段取りがあるので」
「ほうか」
親父はそれ以上何も言わず、焼酎の湯割りを啜った。
自分の部屋に戻って、布団の上に寝転がった。窓の外では、雨の気配のない乾いた夜風が、網戸を鳴らしていた。
天井を見つめながら、俺は考えていた。
この三日間、仕事は捗った。親父の機嫌もいい。工期にも余裕ができた。何ひとつ、悪いことは起きていない。
なのに、ひどく退屈だった。
いや、退屈というのとは違う。何かが足りない。雨音のない夜が、こんなに静かだとは知らなかった。
――じゃあ、今年は、たくさん降るといいな。
灯のあの言葉を、俺はそのとき初めて、正しく理解した気がした。
雨が降れば、屋根の工事は止まる。工事が止まれば、工期は延びる。工期が延びれば、この町にいられる時間も――。
いや、違う。灯は梅雨明けに町を出ると言った。工期は関係ない。彼女は工期に関係なく、梅雨が明けたら出ていく。
だとしたら、あの言葉の意味は。
雨の日には、俺が来る。
そこまで考えて、俺は寝返りを打った。枕に顔を押しつけた。
自惚れだ。そんなはずはない。あれは、ダリアのことを言ったのだ。雨が降ればダリアに水をやらなくて済む。ただそれだけのことだ。
そう言い聞かせても、胸の奥のざわめきは収まらなかった。
俺は、雨を待っていた。
晴れれば工事が進み、それは仕事としては正しいことなのに、俺は、雨が降ることを願っていた。雨が降れば、名目がつく。あの座敷で、湯呑みを両手で持って、灯がノートをめくる音を聞いていられる。
それが何を意味しているのか、分からないほど子どもではなかった。
でも、認めてしまえるほど大人でもなかった。
*
三日目の夕方、屋根の最後の一枚を葺き終えたとき、西の空に黒い雲が湧いていた。
「夕立来るな。片付けるぞ」
親父の声に急かされて、道具を荷台に積んでいるうちに、最初の雨粒が乾いた地面に黒い点を穿った。それはたちまち数を増し、あっという間に叩きつけるような土砂降りになった。
親父は運転席に飛び乗った。俺は助手席のドアに手をかけて、それから、庭のほうを振り返った。
ダリアの支柱が、雨に打たれて揺れていた。
「親父、先帰ってて。支柱、見てから歩いて帰る」
「アホか、この雨で」
「すぐ止む」
親父は何か言いかけて、結局、黙ってトラックを出した。
俺は物置の軒先に駆け込んで、雨をやり過ごした。夕立は激しく、けれど短かった。十五分も経たないうちに雨脚は弱まり、西の雲の切れ間から、赤い夕陽が射し込んできた。
雨上がりの庭は、光に満ちていた。
濡れた葉の一枚一枚が、夕陽を受けて金色に光っている。雑草の先で水滴が震え、柿の木から雫がぽたぽたと落ちていた。空気は洗われたように澄んでいて、土の匂いが立ち上っていた。
そして、縁側の前で、ダリアが咲いていた。
一番大きな蕾が、夕立に打たれて、とうとう開いたのだ。
深い、深い赤だった。
幾重にも重なった花弁が、中心から外へ向かって、ゆっくりと渦を巻くように広がっている。花の大きさは、俺の掌をいっぱいに広げたほどもあった。一枚一枚の花弁に雨粒が乗っていて、夕陽を受けて、宝石のように光っていた。
派手な花だと思っていた。花屋の店先で見かける、やたらと大きいだけの花だと。
違った。
その赤は、派手なのではなく、深かった。見ているとその奥へ吸い込まれていくような、静かで、重たい赤だった。支柱に寄りかかりながら、それでも真っすぐに顔を上げて、雨上がりの空を見ていた。
主のいない庭で、祖母の最後のダリアが咲いていた。
そのとき、門のほうで砂利を踏む音がした。
振り返ると、灯が立っていた。
キャリーケースを片手に、もう片方の手で傘を畳みかけたまま、彼女は動きを止めていた。駅からタクシーで来たのだろう。夕立に降られたのか、髪の毛先がまた濡れていた。
灯の目が、俺を通り越して、ダリアに向いた。
「……咲いた」
小さな声だった。
灯はキャリーケースをその場に置いて、ゆっくりと庭を横切ってきた。ダリアの前にしゃがみ込む。濡れた花弁に、そっと指先で触れる。
「咲いたよ、おばあちゃん」
その声が震えていた。
俺は、何も言わずに少し離れた場所に立っていた。彼女の背中が小刻みに揺れているのを、ただ見ていた。夕陽が、濡れた髪と、ダリアの赤を同じ色に染めていた。
やがて灯は立ち上がり、手の甲で目元を拭って、俺のほうを振り返った。
「遼くん、お水、あげてくれてたんですね」
「……メモに、書いてあったので」
「ありがとう」
灯は笑った。いつもの薄い膜のような笑顔ではなかった。泣いたあとの、少し不格好で、無防備な笑顔だった。
それを見た瞬間、俺は、もう自分を誤魔化せないと思った。
「ドレス、どうでした」
代わりに口から出たのは、そんな言葉だった。
灯の笑顔が、ほんの一瞬だけ止まった。
「……きれいでした。すごく」
「そうですか」
「うん。真嶋さんも、似合うって言ってくれた」
灯は、鞄からスマートフォンを取り出しかけた。
「写真、あるんですけど。見ます?」
「いえ」
思ったより、強い声が出た。
灯の手が、止まった。俺は慌てて、言葉を継いだ。
「……そういうのは、式の日まで取っておいたほうがいいんじゃないですか。たぶん」
自分でも、何を言っているのか分からなかった。灯は、少しの間きょとんとして、それからスマートフォンを鞄に戻した。
「そうだね。そうかも」
灯は、それ以上何も言わなかった。俺も、何も言えなかった。夕立の名残の雫が、柿の葉からぽたりと落ちた。
灯はダリアのほうへ視線を戻した。
「でも、こっちのほうが、きれい」
西の空で、雲が夕陽を呑み込もうとしていた。明日からは、また雨が降る。
俺はそれを、喜んではいけないのだと思った。
思いながら、喜んでいた。




