第3話 井戸の底
六月も半ばを過ぎると、雨の降らない日のほうが珍しくなった。
梅雨入りの発表があったのは、先週の水曜日だった。朝のラジオでアナウンサーがそれを告げたとき、親父は「工期、延びるな」と舌打ちをした。俺は黙って味噌汁を啜った。
雨の日には、宮下の家へ行く。
名目はいくらでもあった。雨漏りの確認。床下の湿気の具合。建具の調整。支柱の点検。どれも嘘ではない。けれど、どれも一時間とかからずに終わる仕事だった。
残りの時間は、座敷で灯の片付けを手伝った。
祖母の着物を一枚ずつ畳紙に包む。古い食器を新聞紙にくるむ。押し入れの奥から出てきた年代物の扇風機を、動くかどうか試してみる。灯は、ひとつひとつの物に小さな思い出を持っていて、手を動かしながらそれをぽつりぽつりと話した。俺は、ほとんど相槌を打つだけだった。
ある日、押し入れの天袋から、埃をかぶった扇風機が出てきた。青い羽根の、ずいぶん古い型だった。
「これ、動くかな」
灯がコンセントを差し込み、スイッチを押した。
扇風機は、がたがたと身震いするような音を立てて、それから、ゆっくりと羽根を回しはじめた。長年溜まっていた埃が、一斉に座敷に舞い上がった。
「わっ」
灯が顔を背けて咳き込んだ。俺もまともに埃を浴びて、目を瞑った。羽根が回るたびに、灰色の雲が座敷に広がっていく。二人とも、慌てて硝子戸を開け放った。
雨の匂いのする風が、埃を庭へ押し流していった。
顔を見合わせた。灯の前髪に、綿埃がひとつ乗っていた。俺の作業着の肩も、白く粉を吹いていた。
灯が、噴き出した。
つられて、俺も笑っていた。声を出して笑ったのは、ずいぶん久しぶりだった。
「遼くん、笑うんだ」
灯が、目尻の涙を拭いながら言った。
「……笑うくらいは、する」
「初めて見た。いつも、難しい顔してるから」
そう言われて、俺は自分の顔に手をやった。そんな顔をしていたのか。自分では、気づいていなかった。
扇風機は、埃を吐き出し終えると、驚くほど静かに回りはじめた。祖母が何十年も使っていたはずのそれは、まだちゃんと風を生み出すことができた。
「これ、買い手さんにあげようかな」
「喜ぶかは分からないぞ」
「じゃあ、私が持って帰る」
灯はそう言って、扇風機の羽根に顔を近づけ、「あー」と声を出した。震えた声が、羽根に刻まれて返ってくる。子どもみたいなことをする人だと思った。
ダリアの蕾は、日ごとに膨らんでいた。萼の隙間から覗く赤は、もう隠しきれないほどになっていた。
*
その日は、朝から霧のような雨だった。
昼過ぎ、灯が座敷の片付けの手を止めて、庭の奥を見ながら言った。
「井戸、いつ埋めるんですか」
「お祓いの日取り次第です。神主さんに連絡したら、七月の半ばなら空いてるって」
「そっか」
灯は立ち上がり、縁側のサンダルをつっかけた。
「ちょっと、見に行ってもいいですか」
二人で庭の奥へ歩いた。雑草は、晴れの日に俺が少しずつ刈っていたので、この前よりは歩きやすくなっていた。
井戸は、庭の北東の隅、大きな柿の木の陰にあった。
石組みの井桁は苔に覆われ、ところどころ崩れかけている。半分ずれた木の蓋の隙間から、冷たい空気が這い上がってきていた。覗き込むと、ずっと下のほうに、黒い水面がかすかに光っているのが見えた。雨粒が落ちるたびに、その光が小さく揺れる。
「まだ、水あるんだ」
灯が、井桁に手をかけて覗き込んだ。
「危ないですよ」
「大丈夫」
そう言いながら、彼女はさらに身を乗り出した。俺は思わず、彼女の二の腕を掴んでいた。
灯が、驚いたように振り返った。
「……すみません」
手を離す。灯は何も言わず、井戸の縁から少しだけ体を引いた。二の腕に触れた指先に、湿ったブラウス越しの体温がしばらく残っていた。
「遼くん、昔も同じこと言ってた」
「え?」
「危ないって。私が覗き込んでたら、後ろから服引っ張って」
灯は、井戸の底を見つめたまま言った。
「私が十歳の夏。遼くんは、たぶん十二歳だったかな。私、この井戸のとこで泣いてたんです。すごく、泣いてた」
記憶の底で、何かが動いた。
「理由は、まあ、いろいろあって。家にいたくなくて、ここに隠れてたの。そしたら、垣根の向こうから男の子が覗いてて」
柿の木。垣根。夏の夕方。蝉の声。
「その子、私の顔見て、ちょっと困った顔して。それで、こっち来いって、井戸のとこまで連れてきて。言ったんです」
――井戸に言えば、誰にも聞こえない。
その声は、灯の口から出たものではなかった。俺自身の、ずっと昔の声だった。
「言ったことは水の底に沈んで、もう誰にも知られない。だから、言いたいこと、ここで全部言っちまえ」
口をついて出た言葉に、灯が目を見開いた。
「……思い出した?」
「少し」
少しどころではなかった。一度ほどけた記憶は、雨に濡れた紙が文字を浮かび上がらせるように、次々と鮮明になっていった。
夏休みの終わり。自転車で旧道を通りかかったとき、垣根の隙間から見えた白いワンピース。井戸の縁にしゃがみ込んで、肩を震わせていた小さな背中。俺が声をかけると、その子は驚いて顔を上げた。泣き腫らした目で、じっと俺を睨んでいた。
あの頃、この井戸の噂は町の子どもたちの間で有名だった。宮下のばあさんちの井戸は底なしで、そこに叫んだことは地獄まで落ちていく。だから、誰にも言えないことはあの井戸に言えばいい。そんな他愛もない噂だった。
俺はそれを、泣いている女の子に教えた。どうすればいいのか分からなくて、それしか思いつかなかったのだ。
叫び終えたあと、女の子はまだしゃくり上げていた。俺は困り果てて、自転車の荷台を叩いた。乗れ、と言った。女の子は迷うような顔をして、それでも黙って荷台に跨った。
夕暮れの旧道を、二人乗りで下った。駄菓子屋の前で自転車を停めて、なけなしの小遣いでラムネを二本買った。瓶の中のビー玉が、からん、と鳴った。
女の子は、ラムネを両手で持ったまま、最後まで一言も喋らなかった。けれど、別れ際にだけ、小さく「ありがと」と言った。
それきりだった。夏休みが終わって、女の子は町からいなくなった。翌年の夏、俺は中学の部活で忙しくて、宮下の家の前を通ることもなくなった。
ひと夏の、ほんの数日のことだった。忘れていたのも、無理はなかった。
けれど、忘れていたことが、今はひどく申し訳なかった。
「私、何て叫んだか覚えてる?」
「……いや。そこまでは」
「よかった」
灯は、ほっとしたように笑った。
「じゃあ、ちゃんと沈んだんだ」
雨が、柿の葉を叩いていた。
「遼くんも、叫んでたよ」
「俺も?」
「うん。私が叫んだあと、じゃあ俺も、って。すごく大きな声で」
灯は井戸の縁に両手を置いて、その底に向かって、少しだけ声を張った。子どもの頃の俺の口調を真似るように。
「――俺は、でっかい家を建てる人になる!」
声は井戸の石壁に反響して、くぐもった響きになって、底のほうへ落ちていった。
俺は、何も言えなかった。
覚えていた。いや、今の今まで忘れていた。でも、確かにそう叫んだ。この町にあるどんな家よりも大きくて、立派で、みんなが見上げるような家。それを自分で考えて、自分で建てる。十二歳の俺は、それを本気で信じていた。
だから建築の専門学校に行った。だから東京の設計事務所に入った。
そして、二年もたずに逃げ帰ってきた。
「それ、誰にも聞こえないはずじゃなかったんですか」
ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど掠れていた。
「私には聞こえちゃった。隣にいたから」
灯は悪戯っぽく笑った。けれど、俺の顔を見て、その笑みがすっと引いた。
「……ごめんなさい。何か、嫌なこと思い出させた?」
「いえ」
俺は井戸から目を逸らした。
「子どもの頃の話なので」
灯は、しばらく俺の横顔を見ていた。何か言いたそうにして、けれど結局、何も言わなかった。代わりに、井戸の暗い水面に視線を落とした。
「ここ、埋めちゃうんですよね」
「そういう契約なので」
「うん。分かってる」
雨粒がひとつ、井戸の中へ落ちていった。ずいぶん時間が経ってから、微かな水音が返ってきた。
「遼くん、ひとつお願いしてもいいですか」
「何ですか」
「井戸を埋めるの、最後の日にしてもらえませんか。私が、この町を出る前の、最後の日に」
灯は、井戸の底を見つめたまま言った。
「それまでは、ここに、まだ何か言えるような気がするから」
何を、とは訊けなかった。
「神主さんと相談してみます」
「ありがとう」
*
座敷に戻ると、灯は何事もなかったかのように片付けの続きを始めた。俺も、黙って手伝った。
けれど、頭の中ではずっと、あの井戸の反響が鳴り続けていた。
――俺は、でっかい家を建てる人になる。
十二歳の俺が、今の俺を見たら何と言うだろう。図面を引くのをやめて、親父の工務店で瓦を張り替えて、雨の日には、もうすぐ嫁いでいく女の人の家に理由をつけて通っている。
たぶん、がっかりするだろう。
夕方、帰り支度をしていると、灯が縁側から庭を指さした。
「見て」
ダリアの一番大きな蕾が、ほんの少しだけ、口を開けていた。硬く閉じていた萼が反り返って、その内側から、深い赤の花弁が一枚、雨の中へ覗いていた。
「もうすぐだね」
灯は、縁側の柱に寄りかかって、その蕾を見つめていた。
「……もうすぐですね」
もうすぐ咲く。咲いたら、彼女がこの町を出る日も、また一歩近づく。
トラックの運転席で、俺はしばらくエンジンをかけられなかった。フロントガラスを流れていく雨を、ただ眺めていた。
*
その夜、夕飯の席で、親父がぼそりと言った。
「宮下のとこの孫な。あれ、昔お前がよう自転車の後ろに乗せとった子やろ」
箸が止まった。
「……覚えてんのか」
「覚えとるも何も。夏休みの間、毎日のように連れ回しとったやないか。宮下のばあさんが、うちに礼を言いに来たわ。孫が、あんたとこの坊主のおかげで笑うようになった、言うてな」
毎日のように。
俺の記憶の中では、ほんの数日のことだった。けれど親父の言い方では、あの夏の終わりまで、俺はずっとあの子と一緒にいたらしい。
「覚えてへんのか」
「……少しだけ」
「ほうか」
親父は、それ以上何も言わずに、焼酎を啜った。
俺は、茶碗の中の白飯を見つめていた。
忘れていた。泣いていた女の子を笑わせたことも。毎日自転車の後ろに乗せたことも。その子のばあさんが、わざわざ礼を言いに来たことも。
全部忘れて、東京へ行って、逃げ帰ってきて、何も欲しがらないふりをして生きてきた。
灯は、全部覚えていたのに。
あの夏、泣いていた女の子が何を叫んだのか。俺は本当に覚えていないのだろうか。
それとも、覚えていないふりをしているだけなのだろうか。
答えは、井戸の底に沈んだまま、上がってこなかった。




