第2話 支柱
その週は、晴れと曇りが交互にやってきた。
晴れた日には、親父と二人で宮下の家の屋根に上がった。割れた瓦を剥がし、腐った野地板を張り替え、防水シートを敷き直す。六月の陽射しはまだ柔らかかったが、瓦の照り返しは容赦がなく、昼を過ぎる頃には首筋がひりひりと焼けた。
屋根の上から見下ろすと、庭がよく見えた。
灯は、たいてい家の中にいた。ときどき縁側に出てきて、段ボール箱を運んだり、雑巾を絞ったりしている。目が合うと、軽く頭を下げる。俺も下げ返す。それだけだった。
あの畝のダリアは、見るたびに背を伸ばしていた。
三日目の昼、梯子の下から声がした。
「あの、お昼、よかったら」
見下ろすと、灯が盆を両手で持って立っていた。麦茶のやかんと、湯呑みが二つ。それに、海苔を巻いたおにぎりが、皿の上に不揃いに並んでいた。
「施主さんに、そんな気ぃ遣わせたらあかん」
親父が屋根の上から言った。灯は首を振った。
「祖母がいつも、職人さんにはお昼を出すもんだって言ってたので。……形、ちょっと変ですけど」
縁側に腰を下ろして、おにぎりを頬張った。塩が少し強くて、中の梅干しは種が抜いていなかった。親父は黙って二つ食べ、「うまい」とだけ言って、また屋根に戻っていった。
灯は、親父の背中を見送ってから、小さな声で俺に訊いた。
「……しょっぱくないですか」
「しょっぱいです」
「やっぱり」
灯は、しゅんとした顔をした。料理はあまり得意じゃないんです、と言い訳のように付け足した。一人暮らしだとコンビニばっかりで、と。
その顔が、あまりにも年相応だったので、俺は少し笑いそうになった。二十三歳。秋には誰かの奥さんになる人が、梅干しの種を抜き忘れたおにぎりのことで、しょげている。
「でも、うまかったです」
そう言うと、灯はぱっと顔を上げて、それから照れたように目を逸らした。
*
金曜日、雨になった。
朝から細い雨が途切れずに降っていて、屋根の作業はできない。本来なら休みの日だ。けれど俺は昼前に軽トラックを出して、旧道を上っていた。
雨の日にしか分からないことがある。雨漏りがどこから入ってくるのかは、実際に降っているときに天井裏に上がってみるのが一番確かだ。親父にそう言うと、「好きにせえ」とだけ返ってきた。
嘘ではなかった。ただ、それだけでもなかったのかもしれない。
門をくぐると、雨の匂いの中に、土と青い葉の匂いが混じっていた。
そして、ダリアが倒れていた。
正確には、倒れかけていた。一週間で膝の高さまで伸びた茎の先に、硬く締まった蕾がいくつもついている。その重さと、葉に溜まった雨の重さに耐えかねて、何本かが斜めに傾いでいた。一本は根元から大きく傾いて、蕾が泥に触れそうになっている。
「遼くん?」
縁側の硝子戸が開いて、灯が顔を出した。今日は髪を後ろでひとつに束ねていて、この前よりいくらか幼く見えた。
「今日、雨なのに」
「雨漏りの確認に。天井裏、見せてもらってもいいですか」
「あ、はい。どうぞ」
答えながら、彼女は俺の視線の先を追った。そして、小さく声を上げた。
「あ……」
裸足のまま縁側から降りようとするので、俺は思わず「濡れますよ」と言った。彼女は一瞬止まって、それでも結局、置いてあったサンダルをつっかけて庭に出てきた。
傾いだ茎の前にしゃがみ込み、両手でそっと起こそうとする。けれど手を離すと、茎はまたゆっくりと同じ角度に戻っていった。
「どうしよう。祖母、毎年これどうしてたんだろ」
「支柱が要りますね」
「しちゅう」
「添え木です。茎を棒に結んで、倒れないように支える」
言いながら、俺はトラックの荷台を思い浮かべていた。端材の垂木が何本か転がっていたはずだ。
「ちょっと待っててください」
*
垂木を鋸で細く割き、先を鉈で尖らせる。一本ずつ、茎から少し離した位置に打ち込んでいく。雨で土が柔らかくなっていて、杭はすんなりと入った。
灯は、俺が差しかけた傘の下で、その様子をじっと見ていた。
「遼くん、手際いいですね」
「仕事なので」
「ダリアの支柱も、お仕事なんですか」
「……家の周りのことは、だいたい」
自分でも苦しい言い訳だと思った。灯は何も言わず、少しだけ笑った。
麻紐で、茎と杭を八の字に結ぶ。きつく縛ると茎が傷む。緩すぎると意味がない。雨で滑る紐を指先で押さえながら、その加減を探る。
手を動かしていると、余計なことを考えずに済んだ。図面を引いていた頃には一度も感じたことのない種類の、静かな集中だった。
「蕾、たくさんついてますね」
灯が、傘の縁から身を乗り出すようにして言った。肩に雨が落ちるのも構わずに、一番大きな蕾を覗き込んでいる。硬い緑の萼の隙間から、ほんのわずかに、暗い赤が覗いていた。
「赤だ」
彼女は、宝物でも見つけたような声で言った。
「やっぱり、赤なんだ。祖母、毎年いろんな色を植えてたけど、最後の年に赤を選んだんだ」
「赤、好きだったんですか」
「どうだろう。……私が好きだって言ったから、かも」
最後の一本を結び終えて、立ち上がった。膝から下が泥で汚れていた。十本ほどの茎が、それぞれの杭に寄りかかるようにして、真っすぐに雨を受けていた。
「ありがとうございます」
灯が、深く頭を下げた。
「これで、ちゃんと咲けますね」
支えることはできる。俺にできるのは、せいぜいそこまでだ。そのときはまだ、そんなふうに考えてはいなかった。ただ、真っすぐになった茎を見て、悪くない仕事だと思っただけだった。
*
天井裏の雨漏りは、北側の谷樋からだった。懐中電灯で照らすと、垂木を伝った雨水が、一定の間隔で滴っているのが見えた。場所に印をつけ、写真を撮り、手帳に書き込む。それで、今日来た名目の仕事は終わってしまった。
梯子を降りると、座敷のほうから、何か重いものを引きずる音がした。
覗いてみると、灯が桐の簞笥の前で、腰を落として踏ん張っていた。簞笥は、畳の上でほんの数センチずれただけで止まっている。
「何してるんですか」
「あ。いや、あの、裏に何か落ちてるみたいで」
「一人で動かすもんじゃないですよ、それ」
「でも、遼くんお仕事中だし」
「終わりました」
言ってから、しまったと思った。仕事が終わったのなら、帰ればいい。けれど灯は、それを咎めるでもなく、ぱっと顔を明るくした。
「じゃあ、ちょっとだけ手伝ってもらっていいですか」
簞笥の反対側を持つ。二人で息を合わせて、少しずつ壁から引き離していく。裏の隙間には、埃をかぶった古い大学ノートが一冊、落ちていた。
灯がそれを拾い上げ、表紙の埃を払った。
表紙には、癖のある鉛筆の字で「庭の記録」と書かれていた。
ページをめくると、日付と天気と、短い書き込みが並んでいた。「三月二十日 晴 ダリア球根 植え付け」「五月二日 雨 芽が出る」。何十年分もの季節が、そのノートに綴じ込まれているようだった。
灯は、ノートを胸に抱くようにして、しばらく何も言わなかった。
「……お茶、淹れますね」
やがてそう言って、彼女は台所へ立っていった。
*
座敷の縁側寄りに、二人で座った。
灯の淹れた緑茶は少し濃くて、渋かった。湯呑みも、茶托も、祖母が使っていたものらしい。硝子戸の向こうでは、雨が静かに庭を濡らしていた。摺り硝子の下半分に、支柱を立てたばかりのダリアの影が、ぼんやりと緑に滲んで見えた。
会話は、あまり続かなかった。
灯は祖母のノートを少しずつめくっては、ときどき小さく笑ったり、指で文字をなぞったりしていた。俺は湯呑みを両手で持ったまま、雨音を聞いていた。
不思議と、居心地は悪くなかった。
東京にいた頃、沈黙は常に何かを責められているような時間だった。打ち合わせの席で、所長が俺の図面を黙って見ている数十秒。それが何よりも苦痛だった。
でも、この座敷の沈黙は違った。雨が、言葉の代わりに空間を満たしてくれている。
「遼くんは」
不意に、灯が顔を上げた。
「ずっと、この町にいたんですか」
「……いえ。何年か、東京に」
「へえ。何してたんですか」
「別に。大したことは」
灯は、それ以上は訊かなかった。俺の声の硬さに気づいたのだと思う。代わりに、ノートのあるページを開いて、俺のほうへ向けた。
「見てください。これ」
そこには、ずっと昔の日付で、こう書かれていた。
――七月十日 雨 ダリア咲く。灯、喜ぶ。
たったそれだけの、短い一行だった。
「私、たぶん六歳くらいかな。覚えてないんですけど」
灯はそう言って笑った。けれどその目は、少し赤かった。
俺は何も言えなかった。気の利いた言葉なんて、ひとつも思いつかなかった。ただ湯呑みの中の、冷めかけた緑茶を見つめていた。
雨音だけが、しばらく続いた。
やがて灯は、ノートを閉じて立ち上がり、座敷と廊下の境にある柱の前にしゃがみ込んだ。
「これも、見て」
黒光りした杉の柱の、ちょうど膝から胸の高さくらいまでに、細い傷がいくつも刻まれていた。刃物で横に一本ずつ引いた線。その横に、同じ癖のある鉛筆の字で、小さく書き込みがある。
――灯 六歳。灯 七歳。灯 八歳。
背比べの跡だった。
「毎年、夏に来るたびに、祖母が測ってくれたの。着いたその日に、ここに立たされて」
灯は、一番下の傷に指を当てた。それから、一本ずつ、上へなぞっていった。六歳、七歳、八歳、九歳。
そして、十歳。
十歳の線の上には、もう何も刻まれていなかった。
「……十歳のあとは、測ってないんですか」
「うん」
灯は、柱に手を添えたまま、少しだけ黙った。
「十歳の夏のあとは、あんまり来なくなっちゃったから」
理由は言わなかった。俺も訊かなかった。
灯は立ち上がって、十歳の線の少し上に、自分の頭のてっぺんを合わせるようにして、柱に背中をつけた。
「今、どのくらいかな」
俺は差し金を手に取りかけて、やめた。代わりに、灯の頭の上に掌を水平にかざした。柱に触れた指先の位置は、十歳の線より、掌ひとつ半ほど高かった。
「このくらい」
「そっか。……伸びたね、私」
灯は、柱から背中を離して笑った。けれど、柱の傷を刻み直そうとはしなかった。十三年分の空白は、空白のまま、そこに残された。
*
帰り際、玄関で靴を履いていると、背中に声がかかった。
「遼くん」
振り返ると、灯が上がり框に立って、祖母のノートを抱えていた。
「雨の日も、来てもらえますか」
一瞬、返事に詰まった。
「屋根の工事が終わるまでは、雨漏りの確認もあるので」
「そっか。そうですよね」
灯は頷いた。それから、少しだけ視線を落として、付け足した。
「支柱の様子も、見てほしいし」
「……分かりました」
門を出ると、雨は小降りになっていた。
振り返ると、ダリアの茎が十本、杭に寄りかかって並んでいた。雨に打たれても、もう傾がない。俺が結んだ麻紐が、茎を柔らかく、けれど確かに繋ぎ止めていた。
トラックに乗り込み、ワイパーを動かす。
帰り道、俺は天気予報のことを考えていた。明日は晴れ。明後日も、たぶん晴れ。
晴れれば屋根の工事が進む。工事が進めば、工期は短くなる。それは、いいことのはずだった。
なのに俺は、次に雨が降るのはいつだろうと、そればかり考えていた。




