第1話 雨の日の依頼
六月の最初の雨は、まるで誰かが遠くで溜め息をついているような音で降っていた。
軽トラックのワイパーが、一定の間隔でフロントガラスを拭っていく。拭ったそばから、細かな雨粒がまた視界を滲ませる。山あいの県道を上っていくと、両側の杉林が湿った匂いを吐き出していて、窓を少し開けただけで車内が緑色に染まるような気がした。
「宮下さんとこの家な。ばあさんが春に亡くなって、孫が片付けに来とるらしい。見積もり、お前が行ってこい」
今朝、親父はそれだけ言って、自分は別の現場へ出ていった。朝倉工務店の仕事の振り方はいつもこうだ。説明が足りない。足りない分は、行けば分かる、ということらしい。
宮下の家なら知っている。町の外れ、旧道を少し入った先にある古い平屋だ。子どもの頃、その前を自転車で何度も通った。庭の広い家だった、という記憶しかない。
砂利の敷かれた空き地にトラックを停め、エンジンを切る。途端に雨音が大きくなった。トタン屋根の物置を叩く音、樋から溢れた水が地面を穿つ音、葉の一枚一枚が雨を受け止める音。それらが重なって、ひとつの低いざわめきになっている。
傘を差して門をくぐった。
庭は荒れていた。主を失ってまだ三ヶ月も経っていないはずなのに、雑草はもう膝の高さまで伸びている。放っておかれた植木が好き勝手に枝を広げ、飛び石の上には苔が這い上がっていた。奥のほうに、石組みの古い井戸が見える。木の蓋が半分ずれて、黒い口を覗かせていた。
その庭の片隅だけが、妙に整っていた。
縁側の前、日当たりのいい一角に、細長い畝が一本だけ作られている。そこには雑草が一本もなく、等間隔に並んだ緑の芽が、雨に打たれながら真っすぐに伸びていた。葉の形からして、野菜ではない。何かの花だ。
この荒れた庭の中で、そこだけが、誰かがついさっきまで手入れしていたように見えた。
「――あの」
声がして、顔を上げた。
縁側に、女がひとり座っていた。
白いブラウスに、紺のスカート。膝を抱えるようにして座り、濡れた髪から雫を垂らしている。傘は持っていない。どうやら庭先で雨に降られて、そのまま縁側に逃げ込んだらしかった。肩のあたりが透けるほど濡れているのに、本人はそれをまるで気にしていない様子で、ぼんやりと庭を眺めていた。
いや、眺めていたのは庭ではなく、あの畝の芽だったのかもしれない。
「朝倉工務店の者です。見積もりに伺いました」
「ああ、はい。宮下です。今日はわざわざ、雨の中すみません」
彼女は立ち上がり、頭を下げた。その拍子に、髪先から落ちた雫が縁側の板に小さな染みを作った。
顔を上げた彼女は、俺を見て、少しだけ首を傾げた。
「……朝倉さん。もしかして、遼くん?」
不意に下の名前を呼ばれて、返事が遅れた。
「そう、ですけど」
「やっぱり。覚えてないですよね。宮下灯です。昔、夏休みのたびにここに来てた」
宮下、あかり。
記憶の底を探ってみたが、何も引っかからなかった。夏休み。この家。子どもの頃の自分が、ここで誰かと遊んだことがあっただろうか。
「すみません。ちょっと」
「いいんです。私も、顔を見るまで忘れてたから」
彼女はそう言ってから、ちらりと庭の奥に目をやった。視線の先には、あの古い井戸があった。
「……井戸のことも、覚えてない?」
「井戸?」
「ううん。なんでもないです」
彼女は笑った。柔らかい笑い方だった。忘れられていたことを責めるでもなく、かといって本当にどうでもいいと思っているわけでもない、薄い膜のような笑顔。
それが、宮下灯との最初の――彼女に言わせれば、何年ぶりかの――会話だった。
*
家の中は、外よりもひんやりとしていた。
玄関を上がると、畳と古い木と線香の匂いがした。長く人が暮らした家に特有の、染みついた生活の匂いだ。廊下の突き当たりには仏間があって、真新しい遺影が飾られていた。小柄な老婆が、日に焼けた顔で笑っている。
「祖母です。ふみ、っていいます」
「……ご愁傷さまでした」
「ありがとうございます。九十一でした。最後の日まで、庭に出てたんですって」
そう言って、彼女は仏間の障子を静かに閉めた。
俺は家の中を一通り見て回った。台所の床は一部が沈んでいる。北側の部屋の天井には、雨漏りの染みが地図のように広がっていた。建具の立て付けも悪い。長年の湿気で柱の根元が傷んでいる箇所もある。
差し金を当て、寸法を測り、手帳に書きつけていく。梁の太さ。床下の束の間隔。天井の高さ。
この家は、たぶん昭和の初め頃に建てられたものだ。無駄のない間取りで、南に座敷を大きく取り、縁側を通して庭と部屋をひと続きにしている。夏の風の通り道がきちんと考えられている。建てた大工は、この土地の湿気と風をよく知っていたのだろう。
そんなことを考えている自分に気づいて、俺は手帳を閉じた。
間取りの意図を読むのは、もう俺の仕事じゃない。図面を引かなくなって、三年が経つ。俺がいま見るべきなのは、どこが腐っていて、どこを直せば売り物になるか、それだけだ。
「座敷は、状態がいいですね」
「祖母が一番大事にしてた部屋なので」
座敷は十畳ほどの広さで、床の間には掛け軸がかかったままになっていた。欄間の細工も凝っている。天井の隅には、古い提灯がいくつか吊るされていた。和紙が日に焼けて、飴色になっている。
「あれ、祖母がお盆のたびに灯してたんです。電気もあるのに、夏はこっちのほうが涼しく見えるからって」
彼女は提灯を見上げて言った。
座敷の縁側に面した硝子戸は、下半分が摺り硝子になっていて、雨に濡れた庭がぼんやりと緑に滲んで見えた。雨音が、硝子越しに少しだけ柔らかくなる。
「それで、ご依頼の内容なんですが」
俺が切り出すと、彼女は座敷の真ん中に正座して、背筋を伸ばした。
「この家を、売ることになりました。買い手の方はもう見つかっていて、引き渡しの前に、最低限の修繕と、中の片付けをしておきたいんです。雨漏りと、床と……あと、庭の井戸を埋めてほしいって、先方から言われていて」
「井戸を」
「子どもが生まれる予定のご夫婦なんです。危ないから、って」
それはもっともな話だった。俺は手帳に「井戸埋め戻し」と書き足した。井戸を埋めるには、お祓いを頼むのがこのあたりの習わしだ。そのことも書き添える。
「工期は、どのくらいを考えていらっしゃいますか」
彼女は少しだけ間を置いた。
硝子戸の向こうで、雨が強くなった。
「梅雨が明けるまでに、終わらせてもらえますか」
「梅雨明け、ですか」
「秋に、結婚するんです」
彼女は、天気の話でもするような声でそう言った。
それから、訊かれてもいないのに付け足した。
「二十三で結婚なんて、早いって思いました?」
「いえ、別に」
「みんなそう言うんです。早いね、って。でも、もう決めたことなので」
決めたこと、という言葉だけが、少し硬かった。
「向こうでの準備もあるので、夏になる前にこっちを全部片付けて、町を出たいんです。それまでは、この家に寝泊まりして、祖母の荷物を整理するつもりで」
「……おめでとうございます」
「ありがとうございます」
また、あの薄い膜のような笑顔だった。
俺は手帳に、「工期:梅雨明けまで」と書いた。
梅雨明けまで。例年通りなら、七月の半ばから下旬。ひと月と少し。屋根と床と建具の手入れ、それに井戸の埋め戻し。人手と段取りを考えれば、ぎりぎりだが不可能ではない。
「外回りの作業は、雨の日はできません。天気次第で、多少前後するかもしれませんが」
「雨の日は、お休みなんですね」
「そうなります」
「そっか」
彼女は硝子戸の外に目をやった。
「じゃあ、今年は、たくさん降るといいな」
意味を測りかねて、俺は黙った。工期を急いでいるはずの人間が口にする言葉ではない。けれど彼女はそれ以上何も説明せず、摺り硝子の向こうの緑を、ただ静かに眺めていた。
*
帰り際、玄関で靴を履いていると、彼女が「あ、そうだ」と言って、奥から古いタオルを持ってきた。
「肩、濡れてます」
言われて見ると、傘からはみ出していた左肩が、じっとりと色を変えていた。
「宮下さんのほうが、よっぽど濡れてましたけど」
「私はいいんです。慣れてるから」
何に慣れているのか、とは訊かなかった。タオルを受け取って肩を拭う。洗剤ではなく、日向と樟脳の匂いがした。たぶん、祖母の簞笥から出してきたものだろう。
「あの、庭の」
タオルを返しながら、俺は訊いた。
「縁側の前の、あの畝。あれは、何を植えてるんですか」
彼女は一瞬、目を丸くした。それから、ゆっくりと庭のほうへ視線を移した。
雨の中で、あの一列の芽だけが、真っすぐに空へ向かっていた。
「ダリアです」
「ダリア」
「祖母が、毎年育ててたんです。春になると球根を植えて、梅雨の頃に咲いて……。子どもの頃、夏に来ると、いつもこの縁側の前が真っ赤で。私、ここでしか見たことないんです、ダリア」
彼女は縁側の柱に手を添えて、畝を見つめた。
「あれは、今年の春に祖母が植えたものなんです。亡くなる、ほんの少し前に。誰も水をやってないのに、ちゃんと芽が出てきて。……主がいなくなったのも知らないで」
雨が、芽の上に落ちては弾けていた。
ダリアという花のことを、俺はほとんど知らない。花屋の店先で見かける、やたらと派手で大きな花。その程度の認識しかなかった。この荒れた庭の、あの一角だけが整っていた理由が、ようやく分かった気がした。
「咲くのは、いつ頃ですか」
「早ければ、六月の終わりくらいかな。……咲くのを見てから、町を出たいんです」
彼女はそう言ってから、はっとしたように俺を見た。
「すみません。工事とは関係ない話ですね」
「いえ」
俺は傘を開いた。
「じゃあ、雨の日以外に、伺います」
「はい。よろしくお願いします、遼くん」
また、下の名前で呼ばれた。
門を出る前に、一度だけ振り返った。彼女はまだ縁側に立っていて、雨に打たれるダリアの芽を見下ろしていた。濡れた髪が頬に張りついたままだった。
*
トラックに戻り、手帳を開く。
ページをめくると、さっき測った寸法の数字が並んでいた。梁の太さ、柱の間隔、天井の高さ。数字を眺めているうちに、ペンを持った手が勝手に動いて、余白に線を引き始めていた。
玄関。廊下。仏間。南に張り出した十畳の座敷と、それを縁取る縁側。庭へ抜けていく風の向き。
四角をいくつか描いたところで、手が止まった。
――で、これは誰のための線なんだ。
東京の事務所で、所長に言われた言葉だった。二十一の冬、三晩かけて仕上げた住宅の図面を、所長は一枚めくっただけで机に戻した。きれいだけど、住む人の顔が見えない。君はいつも、自分が描きたい線を描いているだけだ、と。
反論できなかった。何が足りないのかも分からなかった。分からないまま同じことを繰り返して、同じ言葉を言われ続けて、二年目の春に事務所を辞めた。辞めたというより、逃げ帰った。
それ以来、図面は引いていない。
俺は描きかけの間取りの上に、ボールペンで二本、斜めの線を引いた。消したつもりだった。けれど線の下の四角は、かえってくっきりと浮かび上がって見えた。
ページを戻す。
工期:梅雨明けまで。
その文字を見つめながら、俺はさっきの彼女の言葉を思い出していた。
――今年は、たくさん降るといいな。
ワイパーを動かすと、雨に滲んでいた宮下の家が、一瞬だけくっきりと見えた。そしてまたすぐに、緑色の滲みの中へ溶けていった。
梅雨明けまで。
そのときの俺は、その期限を、ただの工期として手帳に書き込んだだけだった。
それが、彼女と過ごせる時間の長さそのものだったと気づくのは、もう少し先のことになる。




